ばか建築にマヒしてる風潮 #0002
>Re:#0001 古井
謙虚な建築家はそういう普通の人の感性を基準に考えていると思いますが、職業的にいつも建築と接しているので、普通の人の感性から既にずれているところがあるようにも思います。
また、施主さんの意向や商業的な面によって建築の形態を決められることも多いと思います。
例えば看板ひとつにしても、建築家は「建築を損なうようなものをつけたくない」と言ったりもし、でも施主にしたら「いいやこれは必要だ」といったりし、そういう場合、施主のほうが強いです。
建築家は建築を芸術とか自己主張とか文化の牽引役とか考えている節もあるようで、それはたしかに大事なことだとは思うんですが、だからといって謙虚になるわけじゃなくてへんに力みが入ったり、カリスマしたりする建築家がめだつように思います。でも、どうしてそういう人達が仕事をとれるんでしょうか? そこらへんも考えてみる必要があると思います。
建築をつくるのは、建築家一人ではない...
ばか建築にマヒしてる風潮が社会全体にあるんじゃないでしょうか?
それは政治に限らず、文化、教育、福祉、全てにおいて同じ。
おかしいと感じたら、声を上げて、アクションを起こす以外、物事を変える術はありません。
しかしながら、『意見するのに経験と資格が必要ですか? 第一人者のプライドと素人の疑問』にも書いているように、昨今の風潮として、「素人は黙れ」という圧力が強く、専門家が絶対的に正しいと言わんばかりです。
本当に専門家が絶対的に正しいなら、政治も、文化も、教育も、何もかも完璧なはずですよね。だって、その道の専門家が指揮を執っているのですから。
が、実際には、政治もいまいち、文化も衰退しつつあり、一般人は必ずしも豊かで幸福とは言えません。
本当に専門家が絶対的に正しくて、有能ならば、この世はパラダイスのはずですね。
そのように、素人が疑問や違和感を唱えた時に、自称・専門家が「素人は黙れ」と恫喝するようになれば、それもまた専制の始まりであり、行き着く先は文化と自由の死です。恫喝する専門家が守りたいのは、自らが愛する学問ではなく、既得権なのでしょう。
その点、『ばかけんちく談話室』は、素人、専門家が入り交じって、非常にマナー良く意見を交わした、画期的な場でした。
もはや、このような牧歌的、かつ民主的なソーシャル・ネットワークは、二度と望めないと思います。
だからといって、素人が疑問や違和感を口にすることを遠慮するようになれば、ますます世の中は硬直し、一部の識者の天下取りの様相になってしまいます。それはまた学術の硬直化を招くだけであり、その中に安住することは専門家や研究者にとって死にも値するものではないでしょうか。
恐らく、ネットの言論は、今後ますます先鋭化し、最終的にはTVや新聞と大して変わらない世界になっていくと思います。
ネット民が最も嫌う、情報権威の世界です。
その末に、自由な言論の場としてのネットさえ失われてしまったら、その時こそ、権威による言論統一、思想統一が完了するのではないでしょうか。
これは決してSFの世界ではなく、間近に迫る危機です。
シビアな締めくくりになってしまいましたが、ネットの黎明期にはこんな自由で気楽な言論空間が存在したことを知って頂けたら幸いです。
初稿 2019年9月3日