建築教育の責任と市民の無関心 #0069

#0069 建築教育の責任

アメリカで建築専攻の学生をしています。

アメリカの田舎(特に高速道路沿い)は笑える建築の宝庫ですが、都市部は既存の町並を保護しようとする市民の力が強く、ばかけんちくをつくるのは、ほぼ不可能といった感じです。

そのためもあるのか、私の通っている学校(都市部にある)の建築デザインのクラスでは、1つの建築を3ヵ月かけてデザインする場合、少なくとも1ヵ月は敷地の周囲の環境の分析に使います。

学期末の作品講評会などでは、「周囲から浮く」というのが最大のけなし言葉として使われます。

万一『いちごのおうち』のようなすごいのをデザインする学生がいたら、建築学部から叩出されかねないでしょう。

そのような状況が、アメリカの都市にある個々の建築をつまらなくしている、と言えるのかも知れませんが、都市そのものの面白さや美しさには貢献していると思います。

ばかけんちく探偵団をみていて思うのですが、日本の学校の建築デザインのクラスでは、もしかしてあまり既存の環境の分析に力を入れてないんじゃないでしょうか。市民の無関心がばかけんちくを野放しにしていると言えるかもしれませんが、それ以上に、建築教育関係者の責任は大きいように思われます。

結局、町作りというのは、建築家や建設業者だけでは成り立たず、市民の良識やセンスに依るんですね。

私は京都市出身ですが、外国人観光客の増加に伴い、京都の繁華街も大きく様変わりしました。

昔ながらの民芸品店や和菓子屋、着物や和装品、茶道や漆器の小売店は著しく減って、そこら中にドラッグストアが乱立。飲食店も、ドッグカフェやフクロウカフェのような複合店や、食べ歩きの店が増えて、こじんまりとした御食事処や和風喫茶の店も姿を消しました。

外装や内装も、昔はもっと地味な和の雰囲気だったのですが、今はドラッグストアのポップ広告を中心に、人目を引くような原色の看板が増え、どこぞの温泉街のような印象です。
喩えるなら、プラハやクラクフの旧市街が、ディスカウントストアの黄色いポップ広告で埋め尽くされる感じです。

欧州の歴史的観光地が住宅や商業施設に厳しい制約を設けて、昔ながらの町並みを堅固に守り通しているのとは対照的に、京都は、だんだん『京都』という名のテーマパークになりつつあります。

観光業に力を入れている人には申し訳ないけども、現状では、世界中からお金持ち+インテリのリピーターが和の風情を楽しむという究極の目的は達成できないのではないでしょうか。(禅の世界を期待してきたら、周りはド派手なドラッグストアだらけという・・)

しかし、こういう事は、建築の専門家だけの問題ではありません。

行政、業者、店舗、トップから末端に至るまで、高い見識とセンス、「歴史的町並みを守る」という市民全体の強い決意や自覚がなければ、到底実現は不可能です。何故なら、古い建築物の維持にはお金がかかりますし、景観を壊すようなデザインには断固として『NO』と言う権限や統率力が必要だからです。

諸外国が建築をはじめ、美術や工芸など、文化教育に力を入れるのも、商業第一、作ったもの勝ちのような社会になれば、伝統の町並みも呆気なく失われてしまうことを知っているからでしょう。

文化教育の基盤は歴史であり、歴史とは国民のバックボーンそのものです。

何も考えない、興味もない、儲かったらそれでいい・・の行き着く先は、黄色いポップ広告で埋め尽くされた、テーマパーク化した古都なのです。

建築教育の責任と市民の無関心 #0069

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

目次
閉じる