MENU
恋と生き方のエッセー、子育てコラムは移転しましたsanmarie*com

作り手の意図さえ感じないデザインと思考停止の企画書文化 #0110

#0110 バカ建築って?

ちょっとひとこと。
何をもって「バカ建築」とするのか、定義が難しいですよね。
でも、ある程度定義しておかないと、いろいろ無理がありそう。
私なりに少し整理させてください。

○○さんいわく、

>> つくり手の思っている意味と、受け手が作る意味は全く関係ない。コミュニケーション論でそんな説がありました。ちょっとシニカルになっちゃうけど、まあ、つくった人と、そうじゃない人の意味のズレが楽しいと思います。

そのとおりだと思います。でも私が考えるに、「バカ建築」とはその「つくり手の思っている意味」すらが不在なものを言うのだと思うのです。
(ここに掲載されているアトリエ系の「バカ建築」は、だから、私には「バカ建築」とは感じられないものが多いです。)

どのような意味や思想でもかまいません。表現として「デザイン」の過程を経て産み出された建築は、見るものに多様な解釈の可能性を与えるという意味でまだ救われます。問題なのは、「デザイン」の過程をすっとばしてしまった建築なのです。

河童で有名な町だから河童のかっこうの交番を作る! 

名古屋だから「金鯱」の形をそのまま使う。

ここには、デザインするという過程が明らかに省かれています。

そして、解釈のしかたを強要します。(河童の格好を見て河童以外のことを連想する人はいない)

本では書かなかったけれど、これを私は「企画書文化」と名付けたいと思っています。

つまり、企画書に書かれた「河童」の町づくりや「金鯱」をマスコットに! という文章がそのまま形になって建ちあがってしまっている。

こうしたものこそが、私にとっての「バカ建築」なのです。

もう一つ。こうしたつくり手の側からの問題とは別な次元で、「バカ建築」を「鑑賞」する見方もありえると思います。これは以前に、私の本を読んだ文化人類学の先生からE-mailをもらって、なるほどなと考えた事なのですが。要するに、「バカ建築」とは見ないで、「フリーク建築」と見るという立場です。それが出てきた事情はとりあえず置いといて、出てきた形態の不思議さを「鑑賞」する、あるいは文化的特質として分析しようというわけです。

実際、「タイガーバームガーデン」に代表されるように、アジアには、西洋文明から見た場合に「キッチュ」としか言いようのない奇妙なデザイン文化があります。おそらく、名古屋の「金鯱」などはその流れをくんだ部分が大きいのかなとも思えます。○○さんが指摘するように、「秘宝館系」、探偵!ナイトスクープの「パラダイス系」(ちなみに私は「探偵!ナイトスクープ」に出演した。ちょっとだけ。)「タワー系」(京都タワーもすごいけど、東京タワーだって負けてない)などもこの系列として了解可能です。

であるならば、もっとすごい「フリーク」を見てみたい! と、路上観察のように収集して歩くという趣味もあるえるのだな、と思うのです。正直に言うと、私の本の収集も、そうした趣味が多少まざった上でのことだったようにも思えます。

ところで、#0107 ○○さん!。
「いくらを屋根の上にのっけた資料館」と「蝶の形をした昆虫館」って、どこにあるのですか。ぜひ場所を教えてください。(う~ん。やっぱりこれって「フリーク・マニア」なのかな。)

思考停止の企画書文化と文化の衰退

表現として「デザイン」の過程を経て産み出された建築は、見るものに多様な解釈の可能性を与えるという意味でまだ救われます。問題なのは、「デザイン」の過程をすっとばしてしまった建築なのです。

デザインというのは、誰の為、何の為、何を伝える為、対象や狙いを絞り込む事から始まっているのでしょうね。

ところが、先生いわく、『河童で有名な町だから河童のかっこうの交番を作る! 名古屋だから「金鯱」の形をそのまま使う』のように、「誰の為、何の為」を素っ飛ばしたら、たとえ色形はユニークでも、そこに作り手の意図や理念は感じられません。

作り手の意図や理念を感じないということは、作った先の事など何も考えてない、即ち、無秩序、無責任です。

無責任は言い過ぎにしても、物を作るという事は、様々な形でその場に影響することですし、マスコットや絵皿程度ならともかく、彫像とか、記念館とか、規模が大きければ、大きいほど、取り返しのつかないものも大きくなると思うんですね。

もっとも作る側に悪意はなく、何だって、出来てしまえば、楽しく、新しいものです。中にはそのまま市民の暮らしにすっかり定着するものもあるでしょうし、彫像ごときに、いちいち目くじらを立てる人もないでしょう。

ただ、それも度が過ぎて、当たり前の傾向になってしまえば、いざ価値あるものを作ろうとした時、作る側にも、依頼する側にも、まともな技術やセンスが何一つ残ってない、という事態になりかねません。全ての職人芸がそうであるように、技術も、センスも、一朝一夕に身に付くものではありませんし、今まで「ええじゃないか」で話を濁してきた人が、突然、襟を正して、千利休みたいにお茶を立てることはできないと思うんですね。

『企画書文化』というのはまったくその通りで、上から指示されたことを誰も疑いもしません。

というより、物申せば、自分の立場が危うくなるだけなので、上を怒らせないように、黙って言われた通りにしよう……というのが、多くの人の本音でしょう。たとえ、一人一人が、高度な知識や志を有していたとしてもです。

その結果、何の思想も感じられない、行き当たりばったりの町並みが出来上がったとしても、多くの人にとっては、所詮、一代限りの命だし、平和に、幸せに暮らせたら、それでいいという気持ちでしょう。

そして、実際、大多数の市民にとって、それ以上の意味など無いのかもしれません。

だけども、多種多様な文化的ポテンシャルを有しながら、人々の無知と無関心によって、本当に貴重なものが失われ、何所へ行っても、似たようなキャラクター、似たような装飾、とことんコストを切り詰めたような、安っぽい建物やオブジェが立ち並ぶとしたら、それは何十年、何百年にわたる、文化的、経済的損失に繋がりかねません。

今も中世の町並みがそっくり残され、年中、大勢の観光客で賑わっている他国の国際観光都市を見ていると、日本の豊かな文化力が本当に活かされているとは到底思えないんですよね。もったいない。

※ ちなみに「賑わう」の中身は、単に飲食や買い物を楽しむだけでなく、ご当地の文化を満喫する楽しみも含まれています。いわば外国旅行ならではの文化的体験ですね。

『京都工芸繊維大学』の名称はそのまま表示させて頂いています。
ばかけんちく談話室の質を高めてくださった、心優しい先生方のレスに感動しましたので。
他にもあります。

バカ建築って? #0110

ばかけんちく談話室について

『ばかけんちく談話室』は、1995-2007年にかけて古井亮太氏が運営されていた『ばかけんちく探偵団』に設置されていた掲示板です。 詳細は「ばかけんちく談話室について」をお読みください。
目次
閉じる