Re: 「バカ建築って?」
どうも、古井です。
#0113から投稿をいただきました。
○○さん、本当にありがとうございます。
>何をもって「バカ建築」とするのか、定義が難しいですよね。
>でも、ある程度定義しておかないと、いろいろ無理がありそう。
確かに、僕ら自身も探偵団のホームに、
#「ばかけんちく」の概念自体も、この積み重ねの中でどんどん進化・深化していくことでしょう。
...と書いているとおり、定義しきれていません。
ですが、せっかくの○○さんの投げかけですので、現時点での考えをまとめてみました。
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>でも私が考えるに、「バカ建築」とはその「つくり手の思っている意味」
>すらが不在なものを言うのだと思うのです。
>どのような意味や思想でもかまいません。表現として「デザイン」の過程
>を経て産み出された建築は、見るものに多様な解釈の可能性を与えるとい
>う意味でまだ救われます。
なるほど。だから、程度の差こそあれ、意味や思想を少しでも込めようと
している、あるいはそういうプロセスを経ている「アトリエ・タイプ」は、
>(ここに掲載されているアトリエ系の「バカ建築」は、だから、
>私には「バカ建築」とは感じられないものが多いです。)
と、あるように、「ばか」とはニュアンスが違うんじゃないか、ということですね。
#ちなみに「バカ」とするとどうも語気が強いので、
#僕らはすべて「ばか」と書いてます。
「ばかけんちく探偵団」としては、これまでの取材や談話室でのリアクションを通じての現時点での考え方として、やはり「アトリエ・タイプ」も、「ばかけんちく」として扱っています。
キーはまさに、○○さんの言われたように、「意味・思想」だと思います。ここでいう「ヤンキー・タイプ」「課長暴走タイプ」、あるいは○○さんの著書にテンコ盛りになっている「ディズニーランダイゼーション菌」に感染した建物たちは、「意味・思想不在型」の「ばかけんちく」と言えるでしょう。
しかし、全く逆の「意味・思想入れすぎ型」のものも、やはり「ばかけんちく」として等価に見ていきたいと、僕らは思います。
一つには、その建物に「意味・思想」が込められているのか、いないのかが、単に街を歩いていてフと建物に出会ったフツーの人には全然わからない、ということがあります。現に今回UPした「ばかのはち」の京都の顔ビルは、「意味・思想」が込められているのか、いないのか、要するに「アトリエ・タイプ」なのか「ヤンキー・タイプ」なのか、僕らにも皆目わかりません。しかし、いずれにせよ、フツーの通行人が外観から受けるインパクトは、紛う事なき「ばかけんちく」です。
要するに、「フツーの人の視点」からはどっちも同じようなもの、なんだと思います。フツーの人には、ヘンな建築と出会ったとき、それが「考えなしでヘン」なのか「考えすぎでヘン」なのか、を判別する術がないのです。「考えなし」も「考えすぎ」も、一周まわって受け取られ方は結局おんなじという皮肉な現実もあり得るのでは。
ですから、○○さんの、
>でも私が考えるに、「バカ建築」とはその「つくり手の思っている意味」
>すらが不在なものを言うのだと思うのです。
という感じとはちょっと違うかもしれません。「意味があってもばかけんちく」というパターンもアリだと思っています。
「ばかけんちく探偵団」は「フツーの人の視点」というのを大前提としています。
なので、「意味・思想」の有無で、「ばかけんちく」か、そうでないかは判断できない/してはいけない、と考えています。
●「意味・思想」は、フツーの人々から「ばかけんちく視」を免れるバリヤーにはならない。
●「意味・思想」は、ヘンな建物の存在を正当化する「免罪符」にはならない。
...探偵団としては現時点でこういうふうに思っています。
# 念のためですが、僕らは、
# 『建築を、表現として、思想を込めて「デザイン」すること』
# 自体を否定しているわけじゃありませんよ、決して。
# 意味・思想が深く込められ、なおかつカッコよく、快適な建築だって
# もちろんありますからねぇ。
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>こうしたつくり手の側からの問題とは別な次元で、
>「バカ建築」を「鑑賞」する見方もありえると思います。
>それが出てきた事情はとりあえず置いといて、出てきた形態の不思議さを
>「鑑賞」する、あるいは文化的特質として分析しようというわけです。
あはは。これは僕らもそうですね。「それが出てきた事情はとりあえず置いといて」というところが特に(笑)。
今後もぜひご意見などよろしくお願いします。
「意味・思想」はおかしな作品の存在を正当化する免罪符にはならない
あと、何でも『表現の自由』『個性』『斬新』で許されるところがあって、特に自由と個性という印籠用語を出されると、一般人はぐうの音も出ません。
裸の王様を見て、(これ、どう見ても、裸だよね……)と感じても、王様とその取り巻きから「これは透明な布で織られた最新のモードである! 最新のモードを理解できないお前らが無知なのだ! 王様が何を着ようと、王様の自由ではないか!」と、逆に恫喝されると、もう何も言えなくなってしまうんですね。
でも、最新のモードであろうと、王様のお召し物であろうと、王様ともあろうものが、フルチンで闊歩されては、一般人も目のやり場に困るし、ヘンなものはヘンなのですよ。たとえ透明な布で織り上げたドレスが世界最高のモードと定義されても、です。
古井さんが指摘いされている、
フツーの人には、ヘンな建築と出会ったとき、それが「考えなしでヘン」なのか「考えすぎでヘン」なのか、を判別する術がないのです。「考えなし」も「考えすぎ」も、一周まわって受け取られ方は結局おんなじという皮肉な現実もあり得るのでは。
というのはまったくその通りで、「考えなしも、考えすぎも、一周まわって、受け取られ方は結局同じ」という言い方は妙を得ていますよね。
裸の王様に喩えれば、「芸術の透明性がなんたら」「モードの精神がなんたら」等々、すごい理屈で説明されても、フルチンはフルチン。考えに考えた末、透明なドレスを身に付けるのも、考えなしに裸で出歩くのも、結局、同じフルチン、という。
●「意味・思想」は、フツーの人々から「ばかけんちく視」を免れるバリヤーにはならない。
●「意味・思想」は、ヘンな建物の存在を正当化する「免罪符」にはならない。
頭のいい人が痛い所を突かれて、逆ギレした時、小難しい専門用語を並べて煙に巻くのはよくあることですが、弁明すればするほど庶民感覚から遠ざかり、狭量さが露呈するのは、なかなか興味深いです。
そして、多くの人が忘れがちなことですが、人は、自分に理解できないものを、心底愛することはできません。
また、自分たちに寄り添わないことを愛することもできません。
その結果、時代からも、庶民からも、忘れ去られた作品として、時の彼方に葬り去られても、誰も文句は言えないし、救いようもないのです。