#0100 あらためて『バカ』
どうも、古井です。
みなさんのおかげで、談話室も100発言まできました。ありがとうございます。
>#0098 ○○ さん
>だから僕は、みんながバカだ、バカじゃないと論じ合っているのを
>見ていてうらやましいんです。
うらやましい、ですか。そうですか(笑)。
>名古屋には、皆さんがバカだと笑い飛ばせるような建築やアートがない。
>ガンダム専門学校やでっかいオーダーがない。
>都市のパワーが、ああいったものを創る、作ってしまう。
確かにそうですね。街のエネルギーが強いからこそ、ああいうものを呼び込んでしまう、ということはあるでしょうね。
#0095などの「ばか」の意味の話しで、「決してばかけんちくを全否定しているわけではない。」と散々言いましたが、やはり「街のパワーの象徴」としての「ばかけんちく」の立場というのは、私もあなどれないと思います。ばかけんちくを全部ツブして、フツーの四角いビルにしちゃったら、やっぱりツマらない。ああいう「暴れん坊」がいてこそ、街並みは面白いのは事実ですね。
ただ(これも何度も言ってますが)、それはあくまで「来訪者」の視点で面白がるという、結構無責任な感覚なわけで、「周りに住んでいる人」に言わせれば、単なる「メイワク」でしかなくって、「街のパワーの象徴」なんていうこっちの言葉は、一瞬にしてタワゴトになっちゃうのもまた事実でしょう。
「ばかけんちく」って、こういう「街の元気のバロメーター」みたいに楽しめる側面と、「景観公害」とでもいうようなシビアな側面とを同居させた視点なんです。「うわっ、カッコ悪う...でもいい、うん。(声:ともさか)」という「ばか」と、「何をするか! 馬鹿者!」の「ばか」が混ざってる。
○○さんが「うらやましい」と言われる「ばか」は、当然前者の方の感覚でしょう。ただ、後者の方もちょっと頭の隅に置いとかないとね。
>これは、名古屋の建築・パブリックアート全般に言えることです。つまらない。
>名古屋のような「無個性」な「バカさ」にも是非注目して下さい。
でも、「ばかけんちく」の捜索範囲には、
●パクリ/ありきたりなステレオタイプなヤツ
というのもありますから、「無個性」な「バカさ」にももちろん注目していきますので。
ただ、本編のページに取り上げるには、やはりちょっとインパクトが欲しくて「ビックリ仰天系」のが多くなってしまいますが、逆にこれを契機に「どこにでもあんぞ系」を特集してみても面白いかも知れませんね。
私は名古屋の街をそんなに詳しく見て歩いたことはありませんが、そんなに「無個性」なんですか?。
○○さんや「○○さん」は、県内ですから名古屋に行かれることもあると思いますが、どうですか?。
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>#0099 さん
他の領域のデザインに関わられている方の意見として非常に興味深いものでした。ありがとうございます。
分野を越えて、「デザイン」という行為が共通して持っている問題、というより「宿命」なんでしょうか、「ばか」って?。
>問題提起? 建築素人なので素人的に言わせて頂くと、
>いくら自前の物件だからって、こんなにデカい問題提起して
>いいんですかあ、と思います。隣りの瓦屋根にちょっと同情しますね。
その後、ちょっと本で読んだんですが。「ガンダム専門学校」は、何だか国際的なコンペで決まった案だそうですよ。となると、建築家だけじゃなくて「審査員」も共犯(!)なわけですね。ますます「どういうつもりで作ったのか」が知りたいですね。
>文章長々と書いて説明したりして。
いや、「ばかけんちく」でも、本当はこれが一番面白いんですよ、この「長々な文章」(笑)。建築の雑誌なんかで作者が自分の作品の意図を説明してるのが面白くってよく読みますが、これがまぁ、素人目にはもう爆笑。
見たことのない社会学・心理学用語とか、ヘンに難しい漢字とかでゴッテリ固まってて、もうゴワゴワ。しかも、「文章への酔い」がかなりキツく漂ってきますし。「建築家の頭の中とは、こんなにもコンガラがってるんか?。」と、驚きます。
「作品の意図を説明する」のに、なぜあんなに難しい表現を使うのか? その意図が建物自体から伝わって来るなら説明なんて簡単でいいのに? 本当に意図を伝えたいと思っているのか?。伝わらないことを面白がってるんじゃなかろうか?、とか、コッチの頭までぐーるぐるになっちゃいます。
建築家とか建築評論家の間で流通する文章は、そんなんでも全然構いませんが、それとは別に、僕らシロト用に「やさしくかきましたバージョン」を作ってくれると、ホントにありがたいんですが。それこそ、「建築への理解」を得るために重要なことだと思いますが。
>もし自分がその物件の近くに住んでいたら……と考える事によって、
>自分のデザインした書籍や雑誌を手に取る第三者の事を考える、
>良い契機になります。でも「ばかだね~」と笑ってる所に、
>このページの痛快さがあります。
「良い契機」になって光栄です(笑)。ページをやってる甲斐があった、というものです。
以前の掲示板は、参加者一人一人に、丁寧にレスしてたんですよね。今は三行コメントとか、「いいね」だけ、とか、テキトーですけども。
身内に通じれば、それでいいのか?
ばかけんちくを全部ツブして、フツーの四角いビルにしちゃったら、やっぱりツマらない。ああいう「暴れん坊」がいてこそ、街並みは面白いのは事実ですね。ただ(これも何度も言ってますが)、それはあくまで「来訪者」の視点で面白がるという、結構無責任な感覚なわけで、「周りに住んでいる人」に言わせれば、単なる「メイワク」でしかなくって、「街のパワーの象徴」なんていうこっちの言葉は、一瞬にしてタワゴトになっちゃうのもまた事実でしょう。
昨今、物事を悪くしている原因の大半は『身内主義』だと思います。
前から身内主義は存在しましたが、それでも、互いに厳しい批判の目を向けるところはあって、議論も活発でした。
ところが、今は、身内で持ち上げ、身内で庇い、「身内で受ければ、それでいい」という考えが顕著で、身内以外はまるで眼中にありません。
それはもはや思想や利害で固まる『派閥』『セクト』というよりは、『お友達主義』。
「あの人のことが好きだから、応援する」「あの人は好きじゃないから、どうでもいい」「あの人は私に賛同しないから、私も批判する」みたいな感じで、思想うんぬんより、好きか嫌いかでジャッジする、何とも気持ちの悪い様相になりつつあります。
だから、友だちが間違った事をしていても、何も言わないし、見て見ぬ振り。
それも思想的に共感するところがあって、死ぬまで付いていくという覚悟ならともかく、友だちに嫌われる、あるいは仲間はずれにされるのが怖いから、何も言えないという、まるで小学校か中学校の仲好し倶楽部のようなノリで、これでは技術や知識の刷新など期待のしようもありません。
その結果、世界標準から見れば、どんどん落ちこぼれていったとしても、気付いた時には、ノウハウもなく、知識もなく、ただ身内で褒め合う慣習があるだけ、みたいな事態にならないでしょうか。
そして、それが、身内の凋落だけで済むなら、「お好きにどうぞ」と周りは生温かく見守るだけですが、その為に、その分野に連なる、何千、何万の庶民が少なからず影響を受けるとしたら、身内主義は発展の足かせ以外の何ものでもなく、足元が崩れたら、いずれ頂点に居る者の立ち位置も山が崩れるように下落します。建築にしろ、科学にしろ、片や昇竜のよう発展している傍らで、身内で褒め合う業界が最新のトレンドに付いて行けるとは到底思えません。むしろ、都合の悪いことは押し隠し、自分たちの正当性を必要以上に主張する、その結果、ますます現実から乖離する悪循環にしかなりません。
『ばかけんちく』も、ある意味、身内主義の結晶かもしれませんね。
作り手と周りの支援者には通じても、一般庶民から見れば、奇妙キテレツな建物でしかない。
でも、それを指摘すれば、「素人は黙れ」と恫喝され、何ら省みることなく、身内同士で絶賛してお終い。
これで物事が良くなる方がどうかしています。
そもそも、専門家集団というのは、その分野で成り上がる為に多大な時間と経費をかけ、ようやくここまで成り上がってきた人たちの集まりですから、他より仲間意識が強く、お互いに褒め合い、庇い合いしないと、存続できない宿命を背負っています。
その地位を得るまでに、あまりにも多大な労力を注いできたが為に、批判など聞きたくないし(人生を否定されたような気分になる)、自分のやり方は今も正しいと、自分でも信じたいし、社会にも認められたい。そうしたシンパが集まって、互いに褒め合い、庇い合う、お友だち倶楽部こそが、専門家集団の本質でしょう。互いにその位置に立ち続ける為に、身内主義に凝り固まる気持ちも、理解できないこともありません。傍の者は、まあ、せいぜい、皆さん、頑張って下さいとしか思ってないでしょう。
そして、それが、会社の中、会議室の中、だけで済めばいいですが、建築のように、どんと町中に建って、数千、数万の人々に、大きな影響を及ぼすこともあります。町並みや生活の利便は言うに及ばず、経済を脅かすこともあります。税負担、地価高騰、売り上げ減少、などなど。
影響が大きいほど、周りの目が厳しくなるのは当たり前で、同人誌の新刊みたいに、もはや身内に受ければそれでいい、という話ではなくなります。
しかし、身内主義に凝り固まってしまうと、そうした一般庶民の不安や不満にも想像力が働かなくなってしまうのでしょう。
無視や恫喝でしか対処できなくなったら、それこそ技術と知性の終焉です。
そうなると、天動説・地動説みたいに、自説に固執(あるいは盲信)するというよりは、「ここまで努力した我が身が可愛い」という自己愛でしかなく、そういう人たちは、学術の発展よりも、幼少時から自分が積み上げたもの・犠牲にしたものの方がうんと大事なのでしょう。
それなら、某ジャーナリスト先生みたいに「ウンモ星人は存在する!」と力説する方が好感が持てます。
なぜならその先生は、ウンモ星人と、我が国の宇宙人探査(?)に貢献しておられるのであって、ウンモ星人=自分の存在意義ではないからです。
だから、ウンモ星人の存在を否定されても、「いやいや、居ますって。僕、信じてますから」と議論そのものを楽しむことができる。
観る側も、ウンモ星人が存在しようが、しまいが、「米軍基地まで取材に行くなや・・(゚_゚) 銃を持った、ものものしい兵士に追い払われた、宇宙人に関する、何が重大な秘密が隠されているのだろうか……って、当たり前やろ、米軍基地やで!!」と楽しく突っ込みを入れることができるのです。
「かわいそう」と「傷ついた」が問題の解決を困難にする #0095にも書いたように、批判=人格否定ではないし、問題の存在と自分自身を切り分ける訓練を欠いては、到底、批評文化など育ちません。それ以前に、議論そのものが成り立たない。そうした集団は、一見、知性的に見えて、その実、自己愛の保護装置なんですね。
どんな集団であろうと、頭数が揃わなければ、物事が動かないのも事実です。
それもまた一つの戦略には違いないでしょう。
だからといって、大多数の利益や幸福をも巻き込んで、「人の好き好き」で済む問題ではないんですね……。
身内にだけ通じる業界用語と説明責任
「ばかけんちく」でも、本当はこれが一番面白いんですよ、この「長々な文章」(笑)。建築の雑誌なんかで作者が自分の作品の意図を説明してるのが面白くってよく読みますが、これがまぁ、素人目にはもう爆笑。
見たことのない社会学・心理学用語とか、ヘンに難しい漢字とかでゴッテリ固まってて、もうゴワゴワ。しかも、「文章への酔い」がかなりキツく漂ってきますし。「建築家の頭の中とは、こんなにもコンガラがってるんか?。」と、驚きます。
わたしが建築にはまった理由もこれです。
デザインよりも、建築専門誌の異様な文体に引き付けられたという感じ。
たとえば、今、飯島洋一氏の『「らしい」建築批判』とうい本を読んでいるのですが、そこに引用されている建築文体など、その典型です。
レム・コールハースはその著書『錯乱のニューヨーク』では、次のように書いている。
“『マンハッタンというメトロポリスはある神話的な到達点を目指す。すなわち、世界が完全に人間の手によって作り上げられ、それによって世界が絶対的に人間の欲望と一致するような点をめざすのである。・・・このメトロポリスは麻薬的効果を及ぼす機械である。それ自体が逃れる手段を提供してくれぬ限り誰もそこから逃れることはできない……。”
とか。
フランプトンの「批判的地域主義に向けて」によると、
“「批判的排他主義」の基本的戦略とは、普遍的文明のインパクトと、個別的な場所の特色から間接的に引き出されてくる諸要素と和解させることである。・・・それは、その支配的なインスピレーションを、局所的な見方の広がりや質、独特の構造様式から引き出される「構造学」、あるいは与えられた場所の地域の中に見出すのである。”
とか。
「建築のあたらしい大きさ」――そこで私たちは、極小から極大へといたる空想力の飛躍を存分に楽しむ。しかしそれは、ファンタジーから来たものではない。それは、未来に向けた建築の可能性を追求した先にみえてきた、建築のあたらしいかたちなのである。(豊田市美術館の能勢葉子氏による)
一見、凄そうな感じがするけれど、よくよく考えてみれば、誰に向かって喋っているのか解らない。
誰に、何を伝えたいのか、どんな使命感をもって文章化したのか、いまひとつ、心に響くものがないんですね。
もっとも、こうした文章を読むのは『身内の人』であり、何の知識もない建築フリークのことなど眼中にないのかもしれませんが、それにしても、この「伝わらなさ」は何なのだろうと不思議に思います。……とか言うと、「それはあなたが無知だから」みたいな話になるのでしょうが。
確かに、建築を言葉で伝えるのは難しい。
高い、大きい、白い、丸い、その程度の言葉しか思い付きません。
でも、小学生の作文じゃないんだから、「目抜き通りに、町の未来を象徴するような、大きなビルが建ちました」は駄目ですよね。
となると、なんだか凄そうに見える専門用語や外来語を駆使して、立派な文章に仕上げるしかないのでしょう。身内に侮られない為にも。
その結果、一般人の感覚とどんどん乖離し、その結果として「ばかけんちく」の爆誕に繋がるのだとしたら、これもまた笑えない話です。
それこそ身内主義のなれの果てだからです。
しかし、本来、建築とは誰の為のものなのか。
そう考えれば、身内と同じぐらい、世間の感覚も大事と言えるのではないでしょうか。
※ そもそも、大衆は、自分に理解できるものにしか、お金を使いませんから。