#0117 「(建築は)顔が命」について補足説明
はじめまして、はじめてメールを送ります。
僕は、建築学を専攻いる学生なのですが、「顔が命」は研究室の中でも特に人気があります。多少なりとも建築学を専攻している学生として、余計なことではありますが、ほんの少し補足説明をさせてください。
まず、設計者の○○氏は、建築設計の世界では結構有名な「アトリエ・タイプ」の建築家の先生です。いちおう、一見「ヤンキー・タイプ」にしか見えない「顔が命」も建築関係の雑誌や、氏の作品集などでは「顔の○○」という、まるっきりそのまんまのタイトルがつけられ、アトリエ・タイプの建築には欠かせない、「グラフィックパターンと機能の共共・・・・・」とかいう素敵なコンセプトが語られています。
ただ、○○氏は「顔が命」みたいな作品ばかり作っている建築家の先生ではなく、知っている人もいるかもしれませんが、青山にある「××」のようなとてもすばらしい建築も作っています。きっと「顔が命」を設計しているときは、カゼでもひいていたのです。本当は、氏なりの素敵な理由があるのでしょうが、やはりカゼをひいていたということにしておきましょう。
○○さん、青山にあるもう一つの「顔」建築は、多分「××ビル」の ことだと思います。
僕の印象だと、この建築は「ばかけんちく」とよべるほどのものではなく 、「顔」というのはバルコニーの一部を、クライアントの横顔の輪郭をか たどったという程度の部分的なもので「プチばかけんちく」といったもの です。
ちなみに、このビルのうりは、やはり「バルコニーに横顔が隠された陰喩 の表現・・・・・・」だそうで、
「陰喩」・・・・
そう、つまり、あの、アトリエタイプのためのあまーい響き黄金色の言葉
「めたふぁー」です。
疑問も議論もなくなれば、行き着く先は思想統制
私もどんな建物だったか、思い出せないのですが、多分、顔をそのまんま建物にした、ユニークなデザインなのでしょうね。
まあ、いいんですよ。お施主さんが納得されたのなら。
お金を払うのはお施主さんですし。
「こんなのイヤだ」と思うなら、企画設計の段階でキャンセルすればいい。
でも、何千万だか支払っても建設されたということは、その設計で納得されたということでしょう。
そのこと自体、傍はとやかく言う権利はありません。
問題があるとすれば、そういう作品がいつの間にか権威付けされ、主流にされて、一人歩きを始めることでしょう。
誰もが「おかしい」と感じるものが、大手を振って闊歩することが問題なんですね。
「ばか」の概念については、『「ばか」にたいする考え方。 ~自分に理解できないものをバカにしてないか? #0094』や『また蒸し返す、「ばか」って何? ~自分のデザインした書籍や雑誌を手に取る第三者の事を考える #0099』、『バカ建築って? ~「つくり手の思っている意味」すらが不在なものを言う #0110』あたりで議論された通り。
「ばか」は決して褒め言葉ですが、根底にはトホホな愛があり、そういうものを作ってしまう人の気持ちも理解できないわけではありません。
ただ、もう一歩、公共性や文化・芸術の次元に踏み込んだ時、「これでいいのか?」という問いかけは残ります。
面白ければ、それでいいのか。
新しければ、全て許されるのか。
疑問も議論もなくなれば、行き着く先は、寡占であり、思想統制ですね。
あちらが統制しなくても、考える側から、思考力や知識欲が失われて、何も感じなくなれば、あちら側の大勝利です。
その道筋は、無視と恫喝で塗り固められていて、考える側が劣等感や無力感に陥れば、戦略勝ちなのです。
それもまた恐ろしい話ではありますが。
ある意味、一般人が「ばか」について、楽しく議論できる間は(罵詈雑言ではなくて)、業界も活況だし、学界も刺激に満ちて、楽しいのかもしれませんね。
こういうことを「自分には無関係」と黙って眺めている人も多いですが、いざ、自分が何かに挑戦しようとした時、お仲間の壁に阻まれて、同じ土俵にすら立たせてもらえないということはままあります。
目に見える脅威ばかりが『脅威』ではなく、本物の危機は、深く、静かに潜行して、その水に棲むもの全ての息を止めてしまうものなのですよ。