この世には、その身にならないと分からないことがたくさんある。
私も、10代の頃は、「マリー・アントワネットという女性は、なんと愚かで、浅はかなのかしら」と思っていたが、自分も結婚し、子供を生み、マリーと同じ年齢だけ生きたら、彼女がそうならざるをえなかった理由も分かるような気がした。
ルイ16世が言っている。
「安全な場所から人を非難するのはたやすいことだ。誰も私と同じ立場に立たされた者はなかった」
マリーのことも、後からとやかく非難するのは簡単だ。
誰も彼女と同じ立場に立って、同じ辛酸を舐めた者はいない。
彼女を非難する者が、同じ責務を負ったとして、果たして、正しく、立派な行いが出来るかといえば、それは分からない。
その身になって、はじめて、「ああ、こんなにも苦しく、切ないものだったのか」と、その重さを知るのではないだろうか。
女性にとって、年を取るということは、決して楽しいことではない。
腰回りはどんどんたるんで、肉ダルマのようになってくるし、顔にもシミやらシワやら増えて、ちょっとファンデーションを塗ったぐらいでは誤魔化せなくなってくる。
誰もが避けられない運命だと分かっていても、その変わり行く様を一つ一つ思い知らされるのは、やはり淋しく、酷である。
だが一方で、年齢は、知恵や優しさという素敵なプレゼントをくれる。幾多の経験を生かしさえすれば、それはシワにはならず、圧倒的な心の強さになる。
若い時は、「四十、五十になったら、誰が何と言おうと、もうお終いよぉ」と思っていたが、「いい年の取り方」というのは確かにあるもだ――と思うようになった。
私は、年を取って、良かったと思う。
ベルばらで唯一苦手だったマリーのことが、大好きになれたからだ。
今は漠然とマリー・アントワネットに親しんでいる10代の若い読者さんも、38歳になったら、マリーの生涯の短さと、運命の起伏の激しさが、身をもって分かるようになるだろう。
結婚すれば、夫に7年も放ったらかしにされるのが、妻としてどんなに酷い仕打ちか、実感として理解できるようになるだろうし、子供が生まれてから、すっかり落ち着いた心の変化にも、より深く共感できるようになると思う。
人を裁くことは10歳の子供にも出来るが、物事を正しく理解するには何十年とかかる。
そして、人が一生かかって身に付けなければならない能力とは、裁きを超えた愛なのである。
この投稿は2007年~2008年にかけて”優月まり”のペンネームで『ベルばらKidsぷらざ』(cocolog.nifty.com)に連載していた時の原稿です。サイト内の『東欧ベルばら漫談』の一覧はこちら