『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第1編 『ある一家の由来』 より
(4) 三男アリョーシャ
俗物・強欲・ニヒリストで占められたカラマーゾフ一家で、唯一、天使のような心を持つのが三男・アリョーシャだ。
この物語の主人公であり、第二部では(もしかしたら)皇帝暗殺に携わったかもしれない、信義の人でもある。
また、この生活が彼を感動させたのも、ただ彼がそこで、彼に言わせれば非凡なる人物、すなわち、この町の僧院の高名なゾシマ長老とめぐり会い、初恋の人に抱くようなひたむきの情熱をかたむけてこの長老に打ち込んだからにすぎない。
本作を漠然と呼んでいたら、アリョーシャ=聖職者のイメージがあるが、序文の『作者より』で、「おそらくこの男もいわゆる活動家の部類に属する人間なのだろうが」と明記されているように、アリョーシャは高次な魂をもって生まれついた解脱者ではなく、「たまたま自分の感性にフィットしたのがキリスト教」ということで僧院に行った、普通の青年である。
現代に喩えれば、道に迷う若者が学問に目覚めたり、自己啓発セミナーに通い始めたりするのとよく似ている。
たまたまそれが「キリスト教の僧院」というだけで、決して『神に選ばれし者』ではない。
では、筆者がなぜその点を強調したかといえば、やはり「続編の構想」に関連があると思う。
あまたの文学者が指摘するように、ドストエフスキーは、「成長したアリョーシャが社会活動に身を投じる」という青写真を描いており、序文でもそのように述べている。
それが、皆の推測するように『皇帝暗殺』であったかどうかは定かではないが、社会活動家の役割を果たすなら、聖職者ではなく、俗界の人であるべきだからだ。
俗界の人であり続けるには、根っからの聖職者――すなわち、完全に神に帰依するようなメンタリティでは成り立たないわけで、「神に愛されるような善人」と形容しながらも、ドストエフスキーが『平凡さ』を強調するのは、読者に「アリョーシャ=聖人」と勘違いさせない為だと思う。
そんなアリョーシャの印象は……
しかし彼は人間を愛していた。生涯、人間を信じきって生きてきたようにも見える。だが、それでいて、だれひとり彼のことを薄のろとも、単純なお人好しとも見る者はなかった。彼の風貌には、何かこう、自分は人の裁き手にはなりたくない、他人を非難する気持ちにはけっしてなれないし、何についても非難したりするものか、とでも問わず語りに語っているような、思わずそう信じこまされてしまうようなところがあった。
アリョーシャは幼少時より自分の内なる世界を守れる人だったのだろう。
周りがどうあろうと、自分の感性、自分の思考、自分の価値観を、心の砦の中でしっかり守ってゆける。
その鈍感力が、アリョーシャの人間としての強みであり、理力と感じる。
その点、イワンは、しっかりしているようで、実に繊細だ。
見聞や知識に振り回されて、神なるものを見失ってしまう。
一見、他人とは何の関わりもなく生きているように見えるが、人間や社会に対して思いやりは深く、それゆえに現実に失望し、人一倍、傷ついて苦しむ。
本来、一番注意を払わなければならない人間が、ニヒルを装い、周りの関心を遮ってしまうがゆえの悲劇である。
逆に、アリョーシャのような人間は、その爛漫さゆえに周りの愛情を一身に集めて、ぐんぐん伸びていく。
<中略>
してみると、自分に対して特別な愛情を呼び覚ます資質は、彼のうちにいわば本来的に、人為的にではなく、天性としてそなわっていたことになる。
イワンと比較して、、、、
兄のイワンが、大学生活の最初の二年間、自分で働いて食べていく貧乏生活を送り、ほんの幼い自分から、自分は恩人の家で他人のパンを食べて生きているのだと、痛切に感じていたのと比べると、その点、アリョーシャはまったく正反対であった。
理屈ではイワンの方が長けるが、人間的に本当に強いのは、アリョーシャの方なのだ。
そんなアリョーシャに対して、淫蕩父フョードルは初めのうちこそ警戒していたが、すぐに人間的魅力のとらえられ、深く愛するようになる。
<中略>
しかし、それが心底から深くアリョーシャを愛した結果であり、むろん、彼のような男が、これまで他のだれに対してもそんな愛情をもてたはずのないことも明らかであった……
アリョーシャがゾシマ長老に惹かれて、見習いの修道僧として僧院に行くと決めた時も、フョードルは上機嫌で送り出す。
<中略>
まあ、ともかく行ってこいや、行って真理をきわめてきてな。帰ったら、いろいろ話してくれや、向こうの様子がはっきりわかっておったら、あの世へ行くのもすこしは楽だろうからな。
<中略>
おまえの頭はまだ悪魔に食われちゃおらん。ぱっと燃えるだけのものが燃えつきて、正気に返ったら、また帰って来るがいい。待っているぞ、この世の中でおれを責めようとしなかったのは、なあ、かわいい坊主、しみじみ感じ入っとるが、ほんとnおまえひとりきりだったんだからなあ」
筆者曰く、「腹黒いくせにセンチメンタル」なフョードルは、天使のような三男アリョーシャに救いと慰めを見出す。
冒頭から繰り返し言われているが、フョードルというのは根っからの悪人ではなく、田舎の威勢のいいオヤジであり、自分に正直な俗物である。
一方、真面目でナイーブでもあるが為に、道化を演じないことには、世間と交われない、ある意味、シャイでなタイプである。
だからこそ、アリョーシャの美点を見抜き、深く愛することができたのだ。
人生の最後にアリョーシャという息子を知っただけでも幸いかもしれない。
■ 人間の善性と鈍感力について
人間の善性は、鈍感に通じるところがある。
誰の目にも『好ましい人』が必ずしも高徳は限らず、単に「鈍感なだけ(良い意味で)」ということは往々にしてある。
なまじイワンのように鋭敏で、洞察力に長けると、何かにつけて負の面が目に付き、冷笑的になる。
たとえ根っこの善性は普通でも、傍目にはこれほど嫌みでとっつきにくいタイプもなく、優れた知性が必ずしも人間を幸福にするわけではない証だろう。
その点、善良な鈍感さは、周りを呆れさせることはあっても、不快にさせることがない。
イワンの言動が周りの反感を買いやすいのとは対照的に、鈍感なタイプは「あの人は、ああいう性格だから」で全てが許されるところがある。
アリョーシャが能天気というわけではないが、イワンより一本、神経系が少ないおかげで、ずいぶん生きやすいのは確かだろう。
もちろん、アリョーシャにも苦悩はあるが、イワンのように全人類の業を背負って、神に絶望するほどでもない。
アリョーシャも悩みはするが、その痛みは、どこまでも空中的だ。
いわば、市井の人として、とことん傷ついているのはイワンの方であり、アリョーシャはむしろ人類の苦悩から遠い人と感じる。
本作では、アリョーシャのこうした性質は『天性』と解説されているが、天性としても、人間、いつかは、どこかで、人界の絶望と怨念を思い知るものだ。
それが無いということは、ズタボロのイワンに比べたら、やはり恵まれた人なのかもしれない。
出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓