【映画レビュー】 エイリアンが象徴するもの
私が初めてリドリー・スコット監督の出世作『エイリアン』を見たのは、映画館ではなく、TV朝日の『日曜洋画劇場』だ。
映画館で鑑賞した友人が、「怖い、怖い」と脅かすので、「たかがSFだろう」と思って見始めたら、フェイスハガーが襲いかかる場面で息を呑み、チェストバスターで完全にフリーズして、ブラウン管の前で凍り付いた数少ない作品の一つである。(ちなみに、夜も眠れないほど恐ろしかったのは『エクソシスト』 関連記事 →悪魔は嘘に巧妙に真実を織り交ぜる / 映画『エクソシスト』)
一般に、『エイリアン』といえば、グチュグチュ、ニュルニュルの、不気味な異星人が、宇宙船のクルーに次々に襲いかかる、SFホラーの金字塔であるが、一方で、エイリアンをデザインした、H・R・ギーガーの芸術を味わう作品でもある。
その流れで、いろんな記事に目を通していると、H・G・ギーガーの作品の根底にあるのは『性』や『生殖』であり、エイリアンもそれを受け継いでいるという一文があり、(なるほど)と納得いったものだ。――ちなみに、この出典は、映画誌だったか、レビューサイトだったか、まったく記憶にない。
エイリアン=女性器にとっての異物と考えるなら、この作品のまったく新しい側面が見えてくるからである。
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まず、この映画の見どころは、「光」(特にフラッシュ)の使い方が絶妙という点だ。
『エイリアン』に並ぶ、リドリー・スコット監督の代表作『ブレードランナー』もそうだが、光の角度、フラッシュのタイミング、青みがかった閃光、どれをとっても映画人らしい創造性に溢れている。
当時はそこまで映像技術が発達してなかったので、『照明器具(ライト)』を用いる以外になかったのだろう。
何でもCG処理する近年のヒット作と異なり、幾多の照明器具を使って、オン・オフ・オン・オフ・・・を繰り返す様子が、かえってリアリティを感じさせる。
なぜなら、宇宙船ノストロモ号の乗組員たちも、実際に、通路の照明が点いたり、消えたりする、パニック状態の中で、逃げ惑うからだ。
また、この作品は、あえて大スターを起用せず、「誰がいつ死んでもおかしくない」状況を作り出している。
シルベスタ・スタローンやトム・クルーズのような大スターが出演すれば、誰が最後まで生き残るか、ポスターを見ただけで分かってしまうからだ。
ところが、本作は、いわゆるアクションスターが登場しないので、まったく物語の先が読めない。
まあ、船長は生き残るだろうと思っていたら、それも外れて、次々にエイリアンの餌食となる。
当時、シガーニー・ウィーバーも、そこまで名の知れた役者ではなかったから、もしかして、全員皆殺し? という恐怖が、エンドロールまで延々と続くのが、本作のポイントだ。
実際、シナリオは幾通りもあって、「全員皆殺し。エイリアンは猫に寄生して、そのまま地球に直行する」「リプリーと船長が生き残る」「リプリーだけが生き残る」、等々。最後まで協議が続いたそうだが、さすがに皆殺しはないだろう、という話になり、リプリーだけが生き残るエンディングになった……とTVロードショーで解説していた記憶がある。
何にせよ、皆殺しの緊張感を最後まで引っ張る手法は見事という他ないし、一人生き残ったリプリー二等航海士=シガーニー・ウィーバーが、従来のヒロイン像に革命をもたらし、続く『エイリアン2』で“闘う女”の造形を不動のものにして、80年代を牽引する「強い女性」の象徴となったのも印象深い。(関連記事 → 女は強く、賢く ヒロインの源泉 ~リプリーからワンダーウーマンまで)
ところで、エイリアンと言えば、『フェイスハガー』と呼ばれるカブトガニのような媒体が人面に張り付き、細長い送卵官を人体の奥深くに差し込んで、幼虫を植え付け、成長した『チェストバスター』が人間の腹を食い破って出てくる誕生シーンが有名だが、このチェストバスターのデザインは、男性の性器、もしくは胎児を表しているという説があるそうだ。
※ YouTubeはこちら Alien (1979) - Chestburster Scene (2/5) | Movieclips
そう考えれば、女性であるリプリーとエイリアンの対決にも納得がいく。
何故なら、エイリアンの寄生=女性器への侵入に他ならないからだ。
クルーが次々に命を落とす中、やっとの思いで宇宙船ノストロモ号を脱出し、小型シャトルで一息つくも束の間。
既に、シャトル内にはエイリアンが乗り込んでおり、着替えを済ませたリプリーに襲いかかる。
この場面、当初は全裸の予定だったが、最低限の下着は着ける演出になったそう(TVロードショーの解説で記憶あり)
しかし、わずかな下着を身につけることによって、かえって女性の無防備が強調され、余計で恐怖が増したように思う。
この場面の恐怖感には、二種類ある。
一つは、生物としての身の危険。
もう一つは、レイプに近い恐怖だ。
上述の通り、エイリアンは、人間の体内に幼虫を植え付け、幼虫は成長してチェストバスターとなり、人間の胎を食い破って、誕生する。
これは女性にとって、性行為を想起させる。
何故なら、エイリアン誕生のプロセスは、男性器の侵入 → 射精 → 妊娠 に他ならないからだ。
ゆえに、リプリーは、エイリアンの侵入を許すまいと、懸命に闘う。
大人になってから見返すと、この場面が、女性 VS レイプ魔に見えるのは、制作側に意図するものがあるからだろう。
エイリアンの、ぬめぬめした外見は、リドリー・スコット監督いわく「悪夢を形にしたような」と言われているが、H・G・ギーガーのコンセプトを見る限り、やはり女性の胎内に侵入を試みる男性器の象徴に他ならないのである。
エイリアンを駆逐し、白雪姫のように眠りに就くリプリー。
この姿は処女性の象徴でもある。
彼女はエイリアン=男性器の侵入から身を守ったのだから。
【コラム】 生殖とエロティシズム
人間社会におけるエロティシズムには二種類ある。
一つは、性愛や官能を意味するエロティシズム。
もう一つは、生殖に繋がるエロティシズム。
どちらも人間の性に根ざした、真実の姿だ。
そして、H・G・ギーガーのデザインには『生殖』という、生命の根源に繋がる美しさと力強さが感じられる。
ぬめぬめ、べちょべちょとした、ダークな外見の内側に、受精、妊娠、出産、増殖に至る、荒々しいまでの本能が、生き生きと息づいているからだ。
実際、クルーを監視する為に送り込まれたアンドロイドのアッシュは、エイリアンを慈悲も温もりもない『完璧な生命体』と褒め称え、人間に生き残る術はないと説く。
即ち、生命の本質とは『自己複製』であり、自らが生き延びる為なら、他の生物を犠牲にすることも厭わない。
我々、人間だって、生きる為に植物の根を土中から引き抜き、動物を屠って、その肉を口にする。
寿司や唐揚げを口にする度に、そこで流された血について、思い巡らす人もないだろう。
ただただ、美味い。
その一言である。
つまり、生物が「生きる」ということは、それほどまでに荒々しく、利己的なものである。
かろうじて、獣と人間を区別するものは、他人に対する思いやりであり、極限下でも、親子や仲間同士、一個のパンを分け合って食べる行為は、その最たるものだ。
それは生殖においても同様で、パートナーに対する配慮を欠いた性行為は利己的な暴力以外の何ものでもなく、問答無用で宇宙に吹っ飛ばされる所以である。
映画『エイリアン』に漂うエロティシズムは、他人(異性)の体内に侵入するという生殖行為であり、ある意味、宇宙船ノストロモ号は、女性の胎内を象徴しているとも言える。
リプリーの闘いは、いわば「母胎への侵入者に対する抵抗」であり、真に守られたのは、彼女の肉体ではなく、操である。
エイリアン以後、女性はいっそう強くなることを己に課し、多くのものを勝ち取ってきた。
その影で、宇宙の彼方に吹っ飛ばされた男性も数知れず、侵入に失敗したエイリアンは、生身の性行為にも飽き、ヴァーチャル、もしくはラブドールに舵を切りつつある。
それでも、性暴力がなくなることはない。
何故なら、生殖の本能は、エイリアンのように利己的で、理性や正論よりも、はるかに強烈だからである。
DVDとAmazonプライムビデオの紹介
エイリアンは1と2だけ見たら十分。
ジェームズ・キャメロンの手がけた第二作は、世界で最も成功した続編の一つに数えられています。
出演者 トム・スケリット (Unknown), リドリー・スコット (監督), ジェームズ・キャメロン (監督), デイビッド・フィンチャー (監督), トム・スケリット (出演), シガニー・ウィーバー (出演), ベロニカ・カートライト (出演), ハリー・ディーン・スタントン (出演), キャリー・ヘン (出演), マイケル・ビーン (出演), ランス・ヘンリクセン (出演)
監督
定価 ¥4,500
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こちらがファン垂涎の品、吹替完全版。
リプリーの吹替だけで、四通りあります。
ちなみに私は1988年 TBS 鈴木弘子版 の大ファンです。
鈴木版は、女戦士バスケスの吹替が山田栄子=岬太郎(キャプテン翼)で、あの可愛い声で「ぶっとばされたいのかい!」「やっちまえ!」とか、お叫びになるのが何とも感慨深いです。
出演者 シガーニー・ウィーバー (出演), キャリー・ヘン (出演), マイケル・ビーン (出演), ランス・ヘンリクセン (出演), ジェームズ・キャメロン (監督)
監督
定価 ---
中古 0点 & 新品 から
ギーガー先生の世界をたっぷり味わうなら、こちらの画集をどうぞ。
『エロ』と『性暴力』の違いは何か
インターネットで興味深い話題が上がっていたので、追記。
2020年8月下旬、署名サイト Change.org に下記のようなキャンペーンが公開されました。
数日のうちに4000名以上の署名が集まり、SNSでも様々な意見が取り交わされました。
要約すれば、昨今、少年ジャンプに掲載されているラブコメにおいて、『少年向けの漫画雑誌』にしては行き過ぎたエロが見受けられる為、出版元は『エロ』と『性暴力』の違いを明らかにし、注意喚起して欲しい、という主張です。
ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
<中略>
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
<中略>
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
作中におけるベッドシーンやヌードが『エロ』か『性暴力』か、という問いかけについて、最大の分かれ目は、「伝えたいことを表現する為に女性の裸やベッドシーンを描く』か、ただ単に『女性の裸や絡みを入れれば、売れるから』という理由で挿入するかの違いだと思います。
いわば、ストーリー上の必然性ですね。
私の年代なら、70年代には、既に竹宮恵子女史が少女コミックで堂々と少年同士の性愛を描いてましたし(ジルベールとオーギュのベッドシーンや、男色家のボナールがジルベールの性器を愛撫する場面など)、少年チャンピオンでは山上たつひこ氏が『がきデカ』で毎回ちんこ丸出しのギャグ満載でしたし(袋のシワまで詳細に描いていた)、小学生のヒロイン相手にスケベなこともしてたんですね。
また、土曜の夜になれば、永井豪氏の『キューティーハニー』が全裸で変身するし(お茶の間で堂々と脱いでいた)、少女向けのアニメ『魔女っ子メグちゃん』でも、パンチラは日常茶飯事。
さらに深夜帯になれば、大人向けの探偵ドラマ『プレイガール』で、生の女優さんがパンチラでアクションしてましたし、昼メロでも、身も心も満たされないマダムが、若くて逞しい間男と濃厚な濡れ場を演じていたりしたのですよ、『赤とんぼ』とか。
もちろん、世間も黙ってはいません。『がきデカ』の“こまわり君”も当時の保護者から猛烈なクレームがありましたし(京都は特に)、池田理代子氏の『ベルサイユのばら』のラブシーンでさえ、嫌がる親は嫌がっていたものです(ちなみに少女漫画誌で初めて男女のベッドシーンを描いたのはベルばらが最初とのことです。里中満智子センセも同時期に描いておられたそうですが・・)
ドラマの本質に立ち返れば、男女の愛や生き様、人間の欲望や本性を描く上で、『性』は避けて通れないテーマであり、それを描かずして、何の為の作家であり、漫画家なのか、と思うんですね。(それは必ずしもエロを描くべきという話ではなく、いがらしゆみこの『キャンディキャンディ』や、くらもちふさこの『いつもポケットにショパン』みたいに、少年少女の淡い恋も含みます)
創作の過程において、核となるテーマを突き詰めれば、「性愛とは何か」「男性にとって、あるいは女性にとって、性は何を意味するのか」という話になるし、その上で、自分の伝えたいメッセージを形にすれば、女性の裸体であったり、男女が裸で抱き合う場面であったり、亀甲縛りの世界に行くこともあるでしょう。
そして、そのメッセージが的確に伝われれば、読み手も納得すると思うんですね。
前述の、ジルベールとオーギュの絡みにしても、読者は第一巻から物語を読んで、ジルベールの生い立ちと孤独、オーギュの性に対する拘りを知っているから、二面見開きでどーんと絡みが出てきても、「これも一つの愛の形かもしれない」と思うし、叔父(実は父親)が無垢な少年と交わりを持つという異常なシチュエーションにも納得がいくんですね。それは、エロだけでなく、オーギュの屈折した過去や、ネグレクトされたジルベールの内面などが、エロ以外の部分で真摯に描かれているからです。そして、そのテーマは一貫して『人間にとっての性愛とは何か』です。「ボーイズラブが流行だから」「なんとなくお洒落だから」、誌面にジルベールの裸やベッドシーンを織り込んでいるわけではないんですね。
一方、『がきデカ』のこまわり君や、楳図かずおの『まことちゃん』の猥雑さは、幼子が「ちんちん」「うんこ」と面白がって言う感覚を大人向けにスライドした感じで、それはそれで洗練されてるんですね。こまわり君やまことちゃんが、すぐ下半身を露出するのも、「ちんこを描いた方が売り上げが伸びるから」ではなく、ちんこやビチグソも含めて、「こまわり君」「まことちゃん」というキャラクターを形成しているからです。それが分かるから、大人が眉をひそめても、少年読者は「こまわり君がまたアホなことやってる」とクスクス笑うだけだし、自分もこまわり君みたいに下半身を露出して、ヒロインの自宅に押しかけようなどと思いません。
何故かといえば、作品全体に、そういう説得力があるからです。
また、こまわり君も、まことちゃんも、単なるドタバタ・キャラではなく、たまに、ほろりとさせられる人情話や、人生や人間について考えさせる、哲学的なテーマが散りばめられて、特に、楳図かずお氏の「書き分け力」は常人離れしたものがあるでしょう。「ビチグソ! とかやってる人が、なんでこんな完成度の高い、凄まじい人間ドラマが描けるんですか?」と、ただただひれ伏すばかりだし(『洗礼』や『イアラ』)。
そうした『作り手』と『読者』の間に、阿吽の呼吸というか、暗黙の了解があるから、たまに筆が滑って、ビチグソが行き過ぎても、「まあ、楳図さんは、ああいう人やから^^;」と許されてしまう。
それが本当の『作り手』と『読者』の絆であり、表現の自由だと思うんですね。
そうした絆や、物語の必然性を欠いて、突然、女性の裸や絡みを見せられても、不快な人には不快なだけだし、ジルベール&オーギュや、オスカル&アンドレみたいに、「必然性のあるヌードや絡み」と、「どれがキャラでも大差なし」みたいなスカスカの脚本では雲泥の差があり、ただただ女の裸を見せたい、性行為を売り物にしたいという動機で描くのなら、それは『AVの少年漫画化』と大して変わらないと思うのです。
AVは、ヒロインの内面や、男性の葛藤を掘り下げる作品ではなく、ひたすら性行為にフォーカスした内容ですからね。
問題は、『それを少年少女向けの読み物に持ち込むか、否か』であって、このキャンペーンで問題視されているのも、この一点に尽きるでしょう。
だから、描きたい人は自分の描きたいものを、好きなように描けばいいし、そのこと自体、咎められるものではないです。
でも、その作品を、誰に向かって、どんなな媒体で読ませるかは売り手の判断によります。
そうした売り手の判断に疑問を持つなら、消費者は購入しなければいいだけの話だし、漫画雑誌がますます売れなくなって、「第二の車田正美や原哲夫を育成する!」と考えるか、もっと過激なエロに走るかが、商売の分かれ目でしょう。
そして、世の多くの人は、もはや新作だの、話題作だのに、期待してないのですよ。
お金もないし、日々、生き抜くのに精一杯だし。
ちょいと振り返れば、一生かけても読み切れないほどの名作漫画やアニメや小説などが、既に出回っていますのでね。。。