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法と支援の狭間 甘くない現実と愛の映画『チョコレートドーナツ』

目次

映画『チョコレート・ドーナツ』が描く法と支援の隙間

【社会コラム】 支援は善意だけで成り立たない

社会問題が起きると、世間はすぐ「支援、支援」と声高々に叫びますが、支援はそう簡単なものではありません。

財源も必要なら、若い人でも必要。場所の確保に手間取ることもあれば、法の整備が求められることもある。

実際に、支援の現場で、支援の必要な人たちに接していると。『やる気』や『善意』だけで物事は解決しない現実に直面しますし(9割はお金の問題)、感謝や慈愛とは程遠いところで、言い知れぬ無力感や不条理感に陥ることもしばしばです。

助けようと思って、すぐに助けられるなら、社会問題など、とおの昔になくなっているんですね。

人ひとりが普通に暮らすのに、何千万円も必要ないのですから。

2012年、「泣ける映画」として封切られ、実際、多くの観客の心を揺り動かした映画『チョコレートドーナツ』(原題: Any Day Now)も、そうした『支援』の現実と限界、法や制度は何の為に存在するのかを考えさせる作品です。

涙のままに見れば、「裁判官は人情を理解しない悪いヤツ」「本人の望むままにすべき」と結論付けられるでしょう。

でも、支援する側から見れば、「当事者の都合」や「人情」だけでは割り切れぬ問題も出てくる。

何が正解で、何が救いとなるか、万人が納得する答えには永遠に行き当たらない話です。(物語的には、当事者の望み通り、三人を家族として一緒にするのが正解ですけども)

そうした現実の中で、同性愛、貧困シングルマザー、病児のケア、法制度の矛盾、等々、社会問題の様々な側面をちりばめた本作は、「自分ならどうするか(当事者、裁判官の両面から)」を問いかける、美しいドラマです。

あらすじ

ゲイバーで、女装で歌うルディは、心の優しい同性愛者。
ある晩、ハンサムな弁護士のポール・ブラガーと恋に落ち、車の中で関係をもちます。
そんなルディの隣人で、薬物中毒者でもあるマリアンナは、ダウン症の少年、マルコを置き去りにして、外出。
その日のうちに逮捕され、施設に収容されます。
ルディは、身寄りのないマルコを引き取り、ポールと三人で同棲生活を始めますが、同性愛者であることが発覚した為、養育の資格を失います。
マルコは施設に送られ、ルディとポールは家庭裁判所で争いますが、母親のマリアンナが釈放と引き換えに司法取引に応じた為に、マルコは再び母親の元に送り返され、再びネグレクトが繰り返されます。
マルコは一人で家を出て、ルディとポールの所に行こうとしますが、待ち受けていたのは悲しい結末でした。

*

概要はオフィシャルサイトでどうぞ。

日本バージョンの予告編は、やけに感動を強調したナレーションとBGMであまり好みではありません。
本家本元のトレーラーの方が作品の本質を上手に伝えていると感じますので、興味のある方は見比べて下さい。

【映画コラム】 ドーナツは育児放棄の象徴

なぜ少年はチョコレートドーナツが好きなのか

「夕食にドーナツを食べたい」という一言で、普通に子育てしたことのある母親なら、男の子の置かれた状況がピンとくると思います。

子供はみんな、お菓子が大好き! 

それは間違いです。

多少手抜きはしながらも、栄養に留意し、常識的な食生活を心がけておれば、「子供がご飯よりお菓子を欲しがる」という事はないです。

世界にミルクとバナナしか存在しない乳幼児ならともかく、小学校にも通う年齢になれば、ご飯の時にはご飯を欲しがるし、子供なりに「お菓子よりご飯が大事」と理解して、多少の自制も利くものです(アイスクリームは夕食の後、みたいな)。

ところが、本作の男の子は、ポールの手作りのラザニア(とても美味しい)にも何の関心も示さず、「ドーナツ」を欲しがる。
ルディが朝食にピーナッツバターやクラッカーをすすめても「ドーナツ」。

その様を見れば、男の子の日頃の食生活が伺い知れます。

麻薬依存の貧困シングルマザーは、料理するのも面倒で、そのへんのスーパーで買ってきた袋入りドーナツをポンと与えていたのでしょう。ドーナツ以外にも、ジャンクフード、インスタント、「腹が膨れたら何でもいい」という考えで。

実際、ルディとポールが男の子を病院に連れて行けば、健康面について、まったく配慮されてない事実が明らかになります。

明らかに『育児放棄』ですよね。

でも、母親の側に立てば、そこにも言い分はあります。

どういう経緯で麻薬依存の貧困シングルマザーに陥ったのか、作中では語られていませんが、「ダウン症の子供が生まれた」→「夫婦仲険悪・夫の無理解、非協力」→「夫は女を作って家を出て行く」→「母親一人が取り残される」→「生活の手立てもなく、精神的苦痛を紛らわすためにドラッグに手を出すようになる」→「ますます気力を失い、育児放棄」。日本にも似たようなケースは数多く存在するでしょう。

問題は、そこに至るまで、何の社会的支援も得られなかったのか、ということ。

母親がその方面について全く無知だった可能性もあるし、精神的苦痛から支援にも背を向け、だんだん社会的に孤立していった背景もあるでしょう。

いずれにせよ、貧しい母子に手が差し伸べられることはなく、ここにも社会の無関心や支援制度の問題が垣間見えます。

いわば「チョコレートドーナツ」は、社会全体の育児放棄の象徴ですね。

美味しい料理の味も知らず、病気になっても誰も親身に世話してくれず、隣人もそれを知りながら見て見ぬ振り、と。

「悪い母親」と断罪するのは簡単だけど、「悪い母親」の横には「子を捨てた父親」があり、その周りには無力な社会があるわけですから、そこを総合的に見ないと、本当の意味で問題点は見えてこないと思います。

子供を世話したいと申し出るルディに、留置所で母親が尋ねる。「お金はいるの? タダで見てくれるの?」

この母親自身も、今まで無償で誰かに助けてもらったことなど皆無なのでしょう。

医者に診せるには金がかかるし、ベビーシッターだって無料では有り得ませんからね。

だから、余計で、この世でただ一つのご馳走であるドーナツを美味しそうに頬張る男の子の姿に、大人社会の愚かさや身勝手を感じずにいないのです。

男の子のこれまでの暮らしや立場をくどくど説明せず、「ドーナツ」という要素に込めた監督の狙いも素晴らしいと思います。

夕食にドーナツを欲しがる男の子をルディがやさしく窘めると、「たまに一つ食べるぐらいなら平気だよ」と諭すポールのやり取りも本物の夫婦みたい。

どこの家庭もたいがいママが「だめ!」と言い、パパが「いいじゃないか、たまには」と、子供に易々と揚げ菓子やらチョコレートを与え、母親のこれまでの必死の食育を一夜で崩壊させる場面は、ルディとポールに限ったことではありません^^;

ちなみにポテトチップスではなく、ドーナツが登場するのは、アメリカらしい要素だと思います。一度でも、アメリカの大衆向けスーパーで売っているケーキやドーナツを食したことがある人なら分かると思いますが、顎の骨が溶けて外れそうな、異様な甘さです。よくこんなものを日常的に食して、病気にならないものだと不思議に感じるくらい。

そんでもって、それを食事代わりにしている家庭も実際にあって、「野菜が食べたい」と申し出たらフライドポテトが出てきた、というのも決して笑い話ではありません。

そして、そのベースには、生活格差や意識格差が存在することもあり、「食生活」というのは、まさに社会の実情を現わす要素だと思います。

法と正論は人を救うのか

物語の後半、男の子の監護権をめぐって裁判所で争うことになります。

真の愛情を注いでいるにも関わらず、養育者がゲイというだけで「不適切」の烙印を押され、男の子は施設に強制入所、しまいには法的に近接することまで禁じられます。

弁護士や裁判官らのやり取りを聞いていると、その融通のなさに義憤を覚え、法も正論も人を救わないことを痛感するでしょう。

一方で、何の為に制度があり、法があるかといえば、『情』だけで対応していたらキリがない、という現実があるからです。

たとえば、相談者の貧困母子に同情して、窓口の係員が自分の財布から500円を手渡し、「これで牛丼でも食べて」と言えば、いわば美談の人助けですよね。

実際、それで一時にせよ空腹が満たされ、生きる気力が湧いた・・というなら、確かに救済ではあるけれど、そういう事をしだすと、あの人にもこの人にも平等にやらないといけない。

感情的に、AさんはOKで、Bさんはダメ、という理屈は絶対に通用しません。

「お腹が空いた」という母子みんなに500円を手渡していたら、係員も生活が破綻するし、「500円をくれる係員は良い人で、くれない係員は悪い人」という話になれば、支援の現場などめちゃくちゃになってしまいます。

だから、「万人が納得いくような基準や制度を設け、ガイドラインに沿って援助する」という事が、どこの職場でも徹底されています。

たとえ感情的に「かわいそう」と感じても、どこかで線引きしないと福祉自体成り立たなくなるし、「適切なケースに、適切な援助」を実践し、万人にその恩恵が行き渡るようにする為にも、「例外」は作れないからです。だって、「オレも例外、あいつも例外」という話になれば、これもエンドレスに支援せざるを得なくなりますし、誰かに支援が集中するという事は、どこかが手薄になるという事だからです。

本作の場合、裁判所側は頑なに「同性愛者は不適切」というスタンスで、ルディとポールの監護権を拒否し続けます。

それは誰が見ても理不尽で、愚かで、無知な判決です。

でも一方で、社会的影響を恐れ、「例外は作りたくない」という裁判所の思惑も見え隠れします。

このあたりは、当時のアメリカの社会背景を知悉しないことには断言できませんが、もし同性愛カップルの監護権や養育者を認めてしまったら、その延長で、結婚や相続の権利の主張も出てくるでしょう。今でこそ同性婚は認められていますが、当時としては、断じて許されないことであったろうし、また「一つの例外」に乗っかった『制度のなし崩し』に対する警戒心も強かったのではないでしょうか。

結果として、男の子の状況は一変し、あってはならぬ方向に至ります。

一目で病弱とわかる男の子が、深夜、人形を片手に町中をうろうろしておれば、誰なりと声をかけ、警察に保護を求めるなど、いくらでも方策があったでしょうに、世間はやはり無関心で、見殺しにしてしまいました。

見終わった後の、なんともいえない罪悪感や無力感は、まさに本作が突きつける問題の要であり、私たちが日頃意識すべき課題に他なりません。

ルディやポールの真似は簡単にはできませんが、一つの事象について、ただ人情や善悪の観点からジャッジするのではなく、様々な立場の言い分を鑑みることで、支援する者と、それを必要とする者、両方にとってバランスの取れた解決策が見えてくるのではないでしょうか。

劇中、ポールが激昂する、

この少年を、法の隙間に陥らせてはなりません。

という言葉が全てを物語っているような気がします。

フランス・ジョリのディスコ調ラブソング『Come to Me』

本作のポイントは、フランス・ジョリのヒット曲『Come to Me』が効果的に使われている点でしょう。

作中、ルディ(=アラン・カミング)が歌うバージョンは二つあり、一つ目は、ルディがドラッグクイーンの衣装を身につけ、ステージで歌うディスコ調。

もう一つは、ルディが、同性の恋人、マルコの三人で幸せに暮らす様子を、昔の8ミリ映画風に演出し、BGMとして流れる、バラード調のアレンジです。

彼等の愛と幸福を凝縮したような演出が素晴らしく、ただただ美しいとしか言いようがありません。

結果的に、このデモテープがハリウッドのクラブオーナーの目に留まり、歌手への道が開けるのですが、それも納得の演技です。

映画の字幕

私のところへ来て
世界が冷たく 空っぽに思えたら

私のところへ来て
抱きしめて欲しい時

私のところへ来て
温かい腕で守ってあげる

私のところへ来て
嵐を遮る楯になる

嘘なんかじゃない
なぜ分かってくれないの

愛してる 愛してる
あなたが必要
あなたが欲しい

愛してる 愛してる
あなたが必要
あなたが欲しい

【音楽コラム】 夜の都会にこだまする『Come to Me』フランス・ジョリと人間の淋しさ

追記

誰しも自分が孤独であるなど、決して口にできないものだ。

いや、認めることさえ厭う人間が大半かもしれない。

車の中からゲイバーを遠目に眺める検事のポール・ブラガーも同様。

同性愛者であることを自覚し、心から愛し合えるパートナーを求めながらも、店に入るのは躊躇する。

それでも歌声に引かれて、ゲイバーの扉を開いてみれば、魅力的なドラッグクイーンが彼の心を誘う。

一人ぼっちで淋しい時は、私の所に来て。
周りに誰もいない時は、私の所に来て。
私は手を広げて待っているから、私の所に来て。
私なら慰められる
帰るべき相手を持たないならば、私の所に来て
私はあなたの為にここに居る。

僕は淋しい男 夢の世界に住んでいる
僕は全てを手に入れた 自分が本当に欲しいもの以外は……。

*

Come to me
When you're all alone and feelin' down
Come to me
When there's nobody else around
Come to me
I'm still waiting open-armed for you
Come to me
'Cause I will comfort you
When you've no one to turn to
I will be here just for you...

I'm a lonely man
Living in a world of dreams
I've got everything
But the one thing that I really need...

物語は1970年代。まだ同性愛者に対する世間の目は厳しく、カミングアウトなど言わずもがな。
同性愛者であることが職場にばれたら、仕事も人間関係も失われる。当時は、社会的に死刑宣告されるも同然だったろう。
だが、人が人を求める気持ちに異常も正常もない。
わかってくれる誰かを探して、夜の町を彷徨い歩くすべての人にフランス・ジョリは呼びかける。

あなたの周りに誰もないなら、私の所に来て。
両手を広げて待っているから。

それは母親に棄てられたダウン症の少年マルコも同じこと。
薬物中毒のマリアンナは、息子の世話もろくにせず、日がな一日、大音量でロックを流し、ドラッグに耽っている。
母親が逮捕され、一人ぼっちになってしまったマルコに救いの手を差し伸べたのは、ゲイカップルのルディとポールだった。

だが、二人がいかに大切に育てようと、社会的に到底認められるものではない。
ただただ『不適切』というだけで家庭裁判所に引き離され、薬物中毒の母親の元に送り返されたマルコは、愛する”両親”の姿を求めて、夜の町を彷徨い歩く。

こちらのビデオは、本物の歌手を目指して、デモテープを制作するルディが歌うスローバージョンの『Come to Me』。
ホームビデオ風の演出で、三人の幸福な暮らしが垣間見える。
この後、物語が急展開するだけに、切なさもひとしお。

なぜ愛する者同士が一緒に暮らせないのか。
同性愛者というだけで、否定されねばならないのか。

法というのは例外を認めたがらないものだと、つくづく。

*

こちらは1970年代のムード満載のフランス・ジョリのパフォーマンス。
踊りも、ファッションも、まるでサタデーナイト・フィーバーの世界。
だが、声に温もりがあり、古さを感じさせない。
歌手もこれぐらい、ふくよかなイメージがいいね。
今はあまりにロボット化、スリム化されて、少々、怖いところがあります(‥;)

フランス・ジョリの歌をもっと聴いてみたい方はSpotifyでどうぞ。

DVDとAmazonプライムビデオの紹介

チョコレートドーナツ [DVD]
出演者  アラン・カミング (出演), ギャレット・ディラハント (出演), アイザック・レイヴァ (出演), フランシス・フィッシャー (出演), ジェイミー・アン・オールマン (出演), トラヴィス・ファイン (監督)
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この作品は吹替えも秀逸。

私は富山敬や永井一郎や内海賢二の世代ですから、内田夕夜(=ルディ)と、てらそままさき(=ポール)、両氏の名前は初めて知ったのですが、お二方とも大変上手です。

ゲイ役といえば、妙にしなを作って、女言葉を強調する方もありますが、内田さんの演技はとても自然で、まったくいやらしさを感じません。それでいて温かさや気高さに溢れ、次の作品も観たい!と思わせる声優さんです。
てらそま氏も、一言一言が丁寧で、法律家の義心を感じさせる演技でした。愛の場面もムードたっぷりですしね♪

内海賢二師匠の亡き後、どなたが声優界を背負って立たれるのか──ここ数年のアイドル起用に超ブチ切れだった事もあり、すっかり希望も無くしていたのですが、お二方の声の演技を聞いて、希望が湧いてきましたよ(*^^*)

DEATH NOTEで夜神ライトを演じた宮野真守もすごく上手ですけどね。(まだ笑うな……こらえるんだ……あと5秒……あと5秒で勝ちを宣言するぞ。ニア、お前の負けだ! のあたり、神業)

いずこの世に限らず、犠牲になるのは『子供』です。

主張することも、選ぶことも、生活を立てることもできず、大人の勝手な都合に振り回されて、傷つく。

甘ったるい邦題とは裏腹に、苦々しさが残る。美しくも重い映画です。

ウォールのPhoto : Music Box Films 『Any Day Now』

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