闘う建築家と公共の芸術

私が初めて建築に興味をもったのは、ガウディの奇跡―評伝・建築家の愛と苦悩 (北川圭子・著)がきっかけです。

それまで、サントリーのCM『アントニオ・ガウディ編』を通して、少なからず興味はありましたが、建築系の本をがっつり読むのはこれが初めてで、どのエピソードも非常に魅力的でした。北川氏の本は、どちらかというと「物語風」で、まるで「小公女」か「幸福な王子」みたいな雰囲気でしたから、余計で心を揺さぶられたのかもしれません。最後はガウディが可哀想で、可哀想で、号泣しました。すぐにもバルセロナのサグラダ・ファミリアに飛んで行きたくなるほどのインパクトです。

それから、少しずつ、建築関係の本に手を伸ばすようになり、最初は芸術としての作品集、次いで、自伝や建築論、産業あるいは政策としての建築・土木、社会派コラムと、幅も広がり、数年後には、黒川紀章氏や安藤忠雄氏の作品を見に出掛けるほどのマニアになりました。それでも一番面白いのは、談合疑惑や不正コンペみたいなブラックネタですが。

建築の非常に面白い点は、何と言っても、「個人の作品」では済まされないほどの規模とコストでしょう。

ショッピングモールや国際競技場といった巨大建築は言うに及ばず、一般住宅といえども、100円、200円で成り立つものではありません。

途中で誤りに気付いても、漫画みたいに消しゴムでごしごし消せるわけでもなければ、失敗作で人が死ぬわけでもない。

一センチの誤差が、甚大な被害を及ぼすこともあれば、狙い通りに活用されず、何億、何十億という公金の無駄遣いに終わることもあります。

漫画なら、「皆様に不快な思いをさせて、すみません<(_ _)>」で済みますが、建築は、決して間違いがあってはならない世界です。

施工はもちろんのこと、屋根や柱の形一つとっても、そこに何年、何十年と住み続ける人のことを考えなければなりません。

都市の景観や地域の経済活性も重要な課題です。

ストリートミュージシャンが街路で何をわめこうが、無視して通り過ぎればいいだけの話ですが、もし、目の前に、ピンク色のマンションや、ちんどん屋のような汚ビルが建ったら、たとえ自分はお洒落なデザイナーズハウスに住んでいても、毎日、それが視界に入るだけで、気が狂いそうになりますね。

そんな風に、「オレが、オレが」では済まないのが建築の世界。

「自分はこうしたい」と願っても、そうはならないし、出来ないのが当たり前。

そして、誰にでも均等にチャンスが訪れるわけではなく、コンペに勝ち抜いて、実作に漕ぎ着けるのも至難の業です。

世界的に名の知れた建築家でさえ、渾身のデザインが落選し、何度も涙を呑むほどです。

それでもデザインし続ける意味は何なのか。

何がどうなれば成功といえるのか。

漫画家や音楽家のいう「自己実現」とは程遠い所に位置するのが建築家で、よほど精神的にタフでなければ、務まらないと思います。

全方位と闘う覚悟や、各方面に働きかける政治力(交渉力)も必要でしょうしね。

それだけに、これほど面白い分野もなく、建築関係の本があれば、ついつい読み耽ってしまいます。

何と言っても面白いのは、建築本独特の言い回し。

たとえば、飯島洋一氏の『「らしい」建築批判』に紹介されている、次のような一文。

初期合理主義建築は、特に、鉄筋コンクリートという新しい建築材料が、単純な立体幾何学的形態に適し、加えて、相互貫入するヴォリューム、独立してたつ薄い壁板、鋭い直線的突出などによる「構図」の解体を可能にしたところから誕生した。

「相互勧誘するヴォリューム」ですよ。

ジャンクスペースは一つに結束させるように見せかけておいて、その実、粉々に叩き壊す。ここにつくられるコミュニティは共通の利害や自由なつながりによってではなく、同一の統計なデータ、公分母のモザイクで成り立っている。自己はプライヴァシーと秘密とを剥ぎ取られる。 <中略> ジャンクスペースで楽しみたければ、革命後のようにぼんやりすることをお勧めする。そこにはフィギュレーションへの忠誠心など微塵もない。「初期」条件もない。建築は、静止画面のシークエンスに代わった。唯一、確かなことは(恒常的な)転換があるくらいだが、ただしその後「復元」される見込みは薄い。

分かったような、分からんような、でも、何となく、分かるような、、、建築仲間にだけ通じる独特の修辞が、これでもか、これでもかと書き連ねられ、何だか凄いものを見せられたような気分になる。それが建築文体の魔術です。

身近な例を挙げれば、マンションポエムなどは、その典型です。

1000作品以上集めてわかった「マンションポエム」に隠された“ワナ”でも紹介されている、「洗練の高台に、上質がそびえる」(野村不動産「プラウドタワー白金台」)「DIVA 女神は、輝きの頂点に舞い降りる。まるで、この街そのものが、壮大な音楽のようだ。そんな高崎に、今また新しい住まいがデビューする。第五章のプロローグ(タカラレーベン「レーベン高崎GRADIA」)みたいなあれです。

宣伝のコピーとは少し趣が異なるかもしれませんが、建築本も、実物をどんと目の前に提示することができないだけに、あの手この手で修辞を凝らし、何でもないハコモノを、あたかも稀代の芸術のように錯覚させるところが、マンションポエムと五十歩百歩という気がするのですよ。もちろん、真に優れた作品(建築)も存在します。

しかし、そうでもして主張しなければ、建築家の創意など、到底理解されません。

皆さんは、新しい駅ビルを訪れる時、そのファサードや通路に、いちいち建築家の息吹を感じ取るでしょうか。

せいぜい「綺麗やな」「切符売り場は何所や」「ロッテリアが入っとらんやんけ」、その程度ではないですか。

どのあたりが新しいとか、どの辺りに苦労したとか、いちいち気に留める人があるでしょうか。

そんな細かな所まで気配りするのは同業者だけ。

その他大勢には、誰が設計しようが、内装で苦労しようが、まったく関係ありません。

それより、「トイレが綺麗」「乗り場の移動が楽」といった事の方がはるかに重要なはずです。

が、それもまた、建築家の宿命で、公よりも個が際立つようでは、時にバランスを欠いてしまいます。

建築家が「オレの趣味だから」と、エレベーターを撤廃して、300段ぐらいある階段を設けたら、町の人にはとんでもなく迷惑ですよね。

自然に公的空間に溶け込むから、町のシンボルマークとして長年愛されるわけで、たとえデザインに強いこだわりがあっても、公と個の間で上手に調整ができる、そうした思いやり、ないし社会的責任のある人が、建築家として名を成していくのではないでしょうか(そうじゃない人もあるようですけど)。

本作では、世界的建築家としてフランシス・メイヤーが登場します。

これは『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に登場する、ベックメッサーのパロディです。

相対する二つの正義と、神の意思から自由な英雄にも書いているように、本作はワーグナーのオペラの壮大なパロディなので、主人公ヴァルターのライバルとして登場してもらいました。

現実にこんな建築家はおりませんけど、そこは創作ということで、相当にデフォルメしています。

デフォルメとしても、個人の野心や虚栄心が時の権力と結びつけば、無茶な事でも通るのは世の常で、一度走り出したプロジェクトはそう簡単には変えられないところがあります。

では、何が抑止力になるかといえば、住民一人一人の知識とセンスに他ならず、どのように手綱を取るかは、世界共通の課題と言えましょう。

何にせよ、建築家が、物理と、予算と、行政と、施主と、日夜闘っているのは紛れもない事実で、それでも遂にはやってのける意思の強さは尊敬に値します。

そして、彼等が良心をもって闘う限り、家も倒れず、町も発展するのです。

参考
・ 安藤忠雄に関するコラム
・ 「ばかけんちく探偵団」アーカイブ

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