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僧院の『薔薇の谷間』とフョードルの洞察力 田舎のオヤジは本当に道化なのか?(6)

『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』

(1) 僧院に到着

子は永久に『子』~父親という人生の負債(5-2)の続き

長男ドミートリィと父フョードルの金銭トラブルがきっかけで、生まれてこの方、ただの一度も一つ屋根の下に揃って暮らしたことのない“カラマーゾフの三兄弟”と淫蕩父フョードルは、高徳の僧ゾシマ長老の元で、家族会議を開くことになる。会議の場は、僧院内の、長老の庵室だ。この家族会議には、フョードルの先妻(アデライーダ・イワーノヴナ=ドミートリィの実母)の従兄で、西欧かぶれ(自由主義者)のミウーソフ、そして、ミウーソフの遠縁にあたるカルガーノフという二十歳の青年も同行することになった。一家の将来を案じてというよりは、下卑た好奇心ゆえである。

だが、アリョーシャが嫌な予感をした通り、一行は出だしから、ちぐはぐだ。

その様を、ドストエフスキーは次のように描写している。

ピンクがかった葦毛の老婆一対に、がたびしきりすひどい時代ものだが、それでも席だけはたっぷりと取ってある辻馬車を曳かせて、フョードルと息子のイワンは、ミウーソフの馬車からすっかり遅れて到着した。

ドミートリィにはもう前日のうちに時間と刻限を知らせてあったのだが、彼は遅刻だった。

訪問客たちは、塀がこいの外の宿泊所で馬車を乗り捨てて、徒歩で僧院の門をくぐった。

フョードルを除く他の三人(イワン、ミウーソフ、カルガーノフ)はこれまでに一度として僧院なるものを目にしたことがなかったらしく、ミウーソフにいたっては、三十年この方、教会にさえ足を踏み入れたことがなかったようである。彼は、ことさら平然としたふうをよそおいながらも、さすがに好奇の眼差しをあたりに走らせていた。

<中略>

礼拝堂からは、最後まで残った人たちが、帽子をとり、十字を切りながら出てくるところだった。

一般民衆の間にまじって、遠方から馬車でやって来たもっと上流の人たち、彼等は宿泊所に逗留している人たちだった。

乞食たちがたちまちわが訪問者の一行を取り囲んだが、だれひとり施しをしようとする者はなかった。

若造のカルガーノフ一人だけが、財布から十コペイカ銀貨を取り出し、どういうわけか妙にせかせかとうろたえた様子で、一人の女乞食の手にそそくさとそれを握らせると、「みんなで同じように分けるんだよ」と早口に言いそえた。

同行の者のうちでこのことについて彼にとやかかう言う者のうちでこのことについて彼にとやかく言う者は一人もいなかったのだから、彼がうろたえる必要はひとつもなかったのだが、それに気がつくと、枯葉いっそうどぎまぎしてしまった。 (44P)

家族会議の目的が「父子間の金の分配」という生々しいものである為、のっけから異様なムードなのは、頷ける話だ。

思い出語りに花を咲かせるわけでもなければ、世間話を交わすわけでもない、どんよりとした、なんとも居心地の悪い様子が伝わってくる。

しかも、皆が足並み揃えるわけではなく、フョードルとイワンは遅刻、ドミートリィもいつ到着するのか、誰も知らない、そして、1番の問題は、出席者の半分は神とも僧院とも縁のない人たちで、アリョーシャがどれほどゾシマ長老の『高徳』を言い聞かせても、彼等には何がどう偉いのか、いまいちピンとこない点だ。分かりやすく言えば、日本人相手に、外国の王室の存在感の大きさを説いたところで、「あ、そうなの?」ぐらいにしか思わないのと同じである。

前節にもあるように、アリョーシャがもっとも懸念しているのは、この「神とも僧院とも縁のない人たち」が、高徳の僧であるゾシマ長老を前に、意地悪く冷笑したり、面と向かって非難したり、くだらぬことを口にして、侮辱しないかということだ。

その予感は、すでに的中し、僧院の敷地内に辿り着いても、異物が迷いこんだような違和感がある。

この描写で興味深いのは、女乞食に施しをする場面だ。

「物乞いに出会って、素知らぬ振り」といえば、冷たい印象を与えるが、それが全てではなく、この「神とも僧院とも縁のない人たち」の中で、一人だけ善行を為すのが気恥ずかしくもあり、面倒でもある。いわば互いに牽制しているわけだ。

そんな中で、「若いカルガーノフ」だけが、純粋な正義感から、女乞食に施しをする。

それでも、なんとも決まりが悪いのは、「自分だけ目立ってしまった」という居心地の悪さだ。

日本の同調圧力でも、よくある場面である。

さて、そんな一行の前に、トゥーラ県の地主、マクシーモフが現れる。

作者いわく「ゆったりした夏外套を着て、甘ったるい目つきをした、髪の毛のかなり薄い年配の紳士」だ。年齢は六十歳ばかり。

偶然、その場に居合わせただけだが、この奇妙な一向に関心をもち、ぺらぺらと喋りかけてくる。

マクシーモフは敬虔な信者であり、ゾシマのことも「僧院の名誉であり、栄光でございます」と熱っぽく語る。

そんな中、一人の痩せこけた修道僧がゾシマ長老の使いとして迎えに上がる。

フョードルが“フォン・ゾーン”の話をしだすと、ミウーソフは重ねて彼の言動に釘を刺す。

「それはそうと、フョードルさん、たったいま、ご自分からいわれましたね。おたがい行いには気を付けると約束したって、覚えていますね。言っておきますけど、自重してくださいよ。あなたが道化のまねをはじめるようなら、ぼくとしては、ここであなたと同列に置かれるつもりだけはありませんからね……まったく、こういう人なんですよ」

と彼は修道僧に話しかけた。

「こんな男といっしょにちゃんとした方々の前に出るのは心配でしてね」

『カラマーゾフ随想』でも繰り返し書いているが、フョードルというのは、根っからの悪人ではなく、いわば『田舎のオヤジ』。

祭になると、意気揚々とやって来て、葬式だろうが、結婚式だろうが、浴びるほど酒を飲んで、給仕の女にちょっかいを出し、誰彼と捉まえては、人生の心構えだの、男の性分だの、大きな声で説いて聞かせて、周りはうんうんと頷きながらも、(あのオッサン、また始まった……(゚_゚) と辟易する、よくあるタイプだ。

周りもそれが分かっているから、下手な皮肉にも、猥談にも、辛抱強く付き合えるし、これでなかなか物わかりのよい所もあり、なんだかんだで縁が続いてしまう。

それでも、ある場所においては、「非常に恥ずかしい存在」であることに違いはなく、周りもその一点だけを気にして、ハラハラしているのが面白い。

また、ミウーソフとフョードルのやり取りを傍で聞きながら、修道僧もそれと分からぬよう冷笑を浮かべる。

修道僧の血の気の失せた青白い唇に、ある種のずるさのこもった、わずかにそれと知れる無言の微笑が浮かんだが、別段なにも応えなかった、
彼の沈黙が自分の品位を落とすまいとする気持から出たものであることは、あまりに見えすいていた。 (47P)

神の庭でありながら、そこに居る人は、どれもこれも人間臭い。

どこに属そうと、誰に従おうと、聖なる魂は誰に教えられなくても聖だし、卑俗なものは、どこまでも卑俗ということか。

*

そして、いよいよ長老の庵室に辿り着くと、フョードルは早速、長老と女性の関係に興味を剥き出しにし、

すると、なんですな、やはり庵室からはご婦人方のところへ抜道が通じておるわけですか。

いえ、神父さま、べつにヘンな意味で申しておるんじゃなくって、ただ言ってみただけのことですがね。

ただ、アトスでは、御存知かどうか、女人牽制どころか、女と名のつくものは、牝鶏だろうと、七面鳥だろうと、仔牛だろうと、めすはいっさいご法度と聞きましたのでね……。

<中略>

これはこれは、なんてすばらしい薔薇の谷間にお暮らしなんだろう! (48P)

『薔薇の谷間』について、江川卓氏は『謎とき カラマーゾフの兄弟』の『薔薇と騎士』の章で、こんな風に解説している。

ドストエフスキーがたいへんなカトリック嫌いであったことは、よく知られている。ローマ・カトリックについての彼の次のような言明を引いておくだけでも十分だろう。
『ローマ・カトリックは、地上の支配のために早くからキリストを売り、人類をして自分にそむかせ、このようにしてヨーロッパの唯物論と無神論の最も主要な原因となったのだが、このカトリックこそ当然のことながらヨーロッパに社会主義をも生み出したのである』(「作家の日記」 1877年11月)

これと似たような言明は、『作家の日記』の各所で繰り返されているし、この『カラマーゾフの兄弟』でも、「大審問官」伝記は明らかにローマ・カトリックを念頭に置いて書かれている。

ところが奇妙なことに、どう見てもドストエフスキーの宗教的理想を託した人物像と目されるゾシマ長老の描き方に、ことさら彼をカトリックと関係づけようとする節が見られるのである。このことは第二編「場ちがいな会合」で、フョードルが僧院ゾシマ長老の庵室に入ろうとする瞬間から、早くも暗示される。庵室の囲い内に一歩足を踏み入れた瞬間、フョードルがすっとんきょうな声を出すのだ。

「これはこれは、なんてすばらしい薔薇の谷間にお暮らしなんだろう! 」

語り手(作者)はすぐに注釈を入れて、「事実、薔薇の花こそいまはなかったけれど、ここにはかずかずのめずらしくも美しい秋の花々が、ところ狭しとばかり咲き乱れていた」と述べている。

つまり、実際には薔薇の花はなかったのであり、フョードルの叫びは何か別の意味合いをもっていたのだろう、と断ぜざるをえない。 

<中略>

『ファウスト』(ゲーテ)では明らかに薔薇の花に魔除けの機能が託されている。フョードルはひょっとしてそのことを踏まえて、ゾシマ長老のもとに女人の出入りが許され、いわば、「悪魔の誘惑」にゾシマ長老がさらされているらしいのを(『すると、なんですな、やはり庵室からはご婦人方のところへ抜け道が通じておるわけですか』)、薔薇の花の霊験で撃退できるとでも考えたのだろうか。

<中略>

「地獄とはなんぞや?」と設問して、そこではゾシマ長老が「それはもはや愛することができないという苦悩である」と応え、さらに地獄に落ちた人間に「いま私は、地上にいたときあんなにも軽んじていた愛の炎に身を焼かれている」と語らせている。

『ファウスト』と『カラマーゾフの兄弟』の間には、一見そう見えるものより、はるかに密接な関係があるようであり、そのことにはここでも、もう一度立ち返らなければならない」 (94P)

この章も濃密な解説がなされているので、とても要約できないが、フョードルの言う『薔薇の花』が何を意味するのか、江川氏もはっきりと言及はされていない。

「魔除け」の意味もあれば、「美しい夫人たちに囲まれて」という揶揄かもしれないし(ちょっと羨ましい?)、どうとでも取れる文章である。

江川氏いわく、『薔薇の花』あるいは、前述のマクシーモフの台詞、「あたくしは伺ってまいりました。先刻、もう伺ってまいりましたので…… Un chevalier parfait ! (申し分ない騎士でいらっしゃいますなあ!)=ゾシマ長老のこと」、等々から、ゾシマ長老は、ドストエフスキーには珍しく「カトリックのモチーフ」の上に描かれている……という結論なのだが、私も同感。

薔薇は聖母マリアのシンボルでもあり、大審問官をはじめ、作品全体を見渡しても、その影響を感じる。

恐らく、ドストエフスキーは、カトリック教ではなく、『教会の体制』に対して批判的だったのだろう。

経済や自然科学が発達し、無神論が当たり前になった現代人には想像もつかないが、当時のカトリック教会の存在感は、国政も揺るがすほど重大で、国王さえも跪かせるような影響力を持っている。まして庶民に対する影響力は言わずもがな。暮らしにも、文化習慣にも、深く食い込み、「教会の教えに背けば、村八分」「そのコミュニティで生きてゆかれない」ぐらいの影響力を持っていたはずだ。

その反動としての、無神論、実存主義、自由主義=イワンのような人間の爆誕であり、神の教えを説く為のカトリック教会が、逆に、真の信仰から人間を遠ざける原因になっている――というのが、ドストエフスキーの怒りの原点ではないだろうか。

そう考えると、フョードルの揶揄は、ドストエフスキーの揶揄でもあり、美しい言葉の響きとは対照的に、『薔薇の谷間』が決して褒め言葉でないのは誰の目にも明らかだ。

そう考えると、ますます、道化・フョードルの中身が、実は誰よりも洞察力が深く、頭のいい人間である様が見えてくる(イワン的な頭のよさ)。

『カラマーゾフ三兄弟』といえば、それぞれが独立してパーソナリティを築いたような印象があるが、実は、めいめいがフョードルの長所と欠点を受け継いで、これ以上、有り得ないほど濃厚な血族であり、忠実な分身なのだ。

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

カラマーゾフ随想について

絶版となった江川卓・訳『カラマーゾフの兄弟』を読み解く企画です。
詳しくは「江川訳をお探しの方へ」をご参照下さい。
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