ばかげたものに存在価値はないのか

世の中には「微笑ましい暴走」と「笑えない暴走」があって、このスレで話題にされている「羨ましい、ばかけんちく」は前者だと思います。
「微笑ましい暴走」とは、喩えるなら、元気のいいオヤジさんが祭の舞台でマイケル・ジャクソンのダンスを披露するようなものです。
本人は非常に一生懸命だけど、傍から見れば苦笑する他なく、止めさせたいけど、本人があまりに真剣なので、「止めろ」というのも憚られる。
が、なんとも微笑ましくて、周りも和むような、人間的魅力――ですよね。

そういう意味でいくと、「大阪の道頓堀にあるグリコの看板や、くいだおれの人形」は、微笑ましい暴走(暴走というほどでもないけれど)の典型ですね。
どん底から成り上がった、ギンギンの金満社長が上場企業になったのが嬉しくて、嬉しくて、よし、大阪の町に我が社のシンボルを作るぞぉ! と、自ら企画するほどの熱の入れようだけれども、「社長、そりゃ、どう見ても、イルカではなく、カモノハシでっせ」みたいな状況でも、傍は疑問を口にすることもできず、とうとう、そのまま建っちゃいました――みたいなノリです。

それでも構わないのですよ。それが何かしらユニークで、市民に愛されるものなら。
たとえグリコの看板をアンディ・ウォーホールがデザインしても、大阪のシンボルと言えるものにはならなかったと思います。

そしてまた、そういう「ばかっぽさ」を生み出すには、成り上がり社長みたいなパワーが不可欠です。
気持ちも、収入も、下向きでは、型破りなものは生まれてきません。
皆が皆、正しいことや、善いことを求め、些細なクレームに縮こまってしまう世の中でも、です。

「微笑ましい暴走」も度合いによりますが、うんこやグリコも共存しての多様性ではないでしょうか。

建築談義『ばかけんちくがうらやましい』より

ばかげたものに存在価値はないのか

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この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。古典文学からJUNEまで幅広く親しむ雑食系。マダム・ナナとパピヨン・シルエットについて熱く語り合える友達を募集しています。東欧在住。

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