オリジナル原理主義者のつぶやき
珍しく『続編』にYESと言う
遅ればせながら、映画『ベンハー(2106年)』を見ました。
プロフィールにも書いているように、私は強固なオリジナル原理主義者で、こじつけみたいな設定の続編、キャラの神秘性を破壊するような前日譚(エイリアン・コヴェナント)、シリーズ化、スピンオフ、リメイクといった、いじくり系が苦手。(制作する気持ちは分かります)
一応、観ますが、「観なきゃよかった」と後悔するケースが圧倒的に多い。
唯一、満足したのは、ジェームズ・キャメロンの「エイリアン2」「ターミネーター2」、フランシス・コッポラのゴッドファーザー3部作ぐらい。
それ以外に関しては、劇的に結ばれたカップルを続編では無理矢理、別れさせたり(相手役の役者の都合がつかないとか、しょうもない理由で)、「さようなら ヤマトを愛してくださったみなさん」とファンの涙を誘っておきながら、舌の根もかわかぬうちに、しゃあしゃあと新編を作ったり、決死の脱出劇で生き残ったキャラを「やっぱり事故で死にました」と、物語の構成上、邪魔になったからという理由で死亡認定したり……
本当にろくなことがない。
先日も、とうとう『ブレードランナー2050』を観てしまいましたが。
あれに拍手を送ってる奴って、どういう感性だよ、ゴラ!! (`・ω・´) と絡みたくなるぐらい。
個人的にはトホホな印象でした。
もういい加減、リメイクだの、ビギニングだの、止めませんか、皆さん。
それなら、既存のDVDの画質や音質をスケールアップして、秘蔵の特典映像でも盛り込んだ方が、よっぽど美しいのではないかと思ったり。
とにかく、続編にはうんざり太郎の私が、珍しく続編にYESと言ったのが、意外や意外、『ベンハー(2016年)』。
かのチャールトン・ヘストン主演、ウィリアム・ワイラー監督の歴史的名作『ベンハー(1959年)』の、堂々たるリメイクです……というか、なんでまた? と突っ込みを入れたくなるような、大胆不敵な試み。
あらすじやレビューはAmazonなどにたくさんあがっているので、ここでは「見どころ」と「リメイクに関するコラム」だけを掲載します。
なぜ最先端のCGは1959年の映画に勝てないのか
恐らく、1959年版に精通しているファンが一番がっかりしたのはガレー船の場面ではないでしょうか。
ローマに対する反逆と、いわれのない理由でガレー船に送られたベンハーは、薄暗い甲板下の船倉に閉じ込められ、足首を鎖で繋がれて、死ぬまでガレー船を漕ぐことを運命付けられます。
しかし、ローマ海軍の総司令官アリウスは、奴隷の身となって、なお闘志を失わないベンハーに高貴な精神を感じ、マケドニア戦を前に、ベンハーの鎖だけ解いてやります。同情ではなく、彼がいかに運命を切り開き、自由を勝ち取るか、見届ける為です。
激戦となり、ベンハーの漕ぐ船も大破しますが、ベンハーは必死で船倉から抜け出し、敵兵の攻撃をかわして、海に投げ出されたアリウスの命を救います。ベンハーの行動力と気高さに心を動かされたアリウスは、自身の養子に迎え、不幸な境遇からベンハーを救い出すのです。
このエピソードは、1959年版では、信心深いベンハーの奇跡の一つとして描かれています。
「天は自ら助くる者を助く」といったところでしょうか。
ところが、2016年版には、この重要なエピソードがありません。
アリウスは海戦で死んだことになり、ベンハーは自力で泳いで、島に辿り着きます。
CGを使った演出はなかなか迫力がありますが、単なるヒーロー活劇みたいで、オールドファンにはがっかりの仕様です。
その点、1959年版は、男たちが皆汗をかき、見ているこちらまで目眩がしそうな重圧感。
舵取りの音楽「チャ~ラ、チャ~ラッ、チャ~ラ、チャ~ラッ」も息が詰まりそうな迫力です。(倒れてるエキストラ、本当に倒れてそう。悲壮感を演出する為に、皆、朝ご飯抜きでやってるんじゃないか)
ここでベンハーとアリウスが目と目を見交わし、優れた戦士にだけ分かる闘気(オーラ)を感じ取るのがポイントなんですね。
さらには、ベンハー最大の見どころである戦車競技。
2016年もけっこう頑張ってましたが、やはり1959年に軍配が上がります。
何が物足りないって、カメラワークもそうですが、闘っている主役の二人が、どちらも坊ちゃん顔で、いまいち怨讐が感じられないのが原因だと思います。
その点、1959年でメッサラを演じた、スティーブン・ボイドはよかった。全身から殺気が漂っていましたからね。
二つ目には、走者の乗り物が「ギザギザ戦車」ではなく、「やわらか戦車」だった理由も大きいと思います。
それでも、マスコットのイルカ(何周回ったかをカウントする)だけは、しっかり強調されていた点を見ると、「考えることは、皆同じ」って感じですね。あのイルカは結構インパクト大ですから。
1959年版は、とにかくリアルなんですよ。Amazonのレビューにもあったけど、「このスタント、死んだんちゃうん?」と本気で心配するほどのレベルです。
そんでもって、馬が綺麗なんですね。白馬も、黒馬も。
四頭の馬、二組が、一列に並ぶ場面が何度も登場するのですが、よく歩調を合わせたものだと感心します。
馬の調教も、今とはレベルが違ったのかも。
また、メッサラの事故も、ベンハーの一撃ではなく、「自らの過ち」というのがポイントです。
ベンハーを殺すことに躍起になって、戦車が損傷しているのに気付かなかったんですね。
憎しみに囚われた人間が、自ら滅びる構図です。
そして、最大の失策は、1959年版の、イエスの血による奇跡の場面を省いたことでしょう。
1959年版では、イエスの磔刑に立ち会ったベンハーの母と妹が、十字架から流れ落ちるイエスの血が混じった雨水を浴びることで、業病が治り、元の美しい姿に戻ります。
2016年版が、これを省いたのは、あまりに宗教色を出したくなかったからでしょう。
現代の若者は、キリスト教徒といえど、心の底から奇跡を信じているわけではないですしね。
もう一点。2016年版では、イエスから水をもらう場面が非常にシンプルです。
1959年版を見れば分かるように、これは『洗礼』を示唆しているんですね。
少し傲慢なところのあったベンハーが、心の底から神の救いを求め、イエスの水=洗礼によって、生きる力を頂く感動の場面です。
1959年当時は、イエスの顔を描くことは許されなかったので(恐れ多い)、全て後ろ姿、もしくは、うつむきです。ちなみに、この慣習を破って、イエスの顔出しをしたのは、ウィレム・デフォー主演の『最後の誘惑』が最初です。(世界的に顰蹙をかいました)
こうした違和感は数あれど、2016年版は、「これはこれでいいんじゃない」と思えるのは、作り手の大胆な試みが垣間見えるからでしょう。
2016年版は、メッサラの内面によりフォーカスしていて、エンディングもあっと驚く展開です。
いつもの私なら、ちゃぶ台返ししたくなるような結末ですが、全編、「キリスト教ベースの歴史ドラマ」というよりは、「愛と青春の旅立ち」といった作りで、無理なく話を収めたと感じるからです。
役者はいまいち迫力にかけるし(端役も含めて)、脚本も民放の2時間ドラマみたい。知性もなければ、厳かな雰囲気もなく、これなら、わざわざ『ベンハー』のリメイクにしなくても、他の設定でも良かったんじゃないかという感がなきにしもあらずですが、それでも好感が持てたのは、なんだかんだで1959年版へのリスペクトを感じたからです。
これが、役者のギャラ問題とか、ストーリー上の都合とかで、要となる設定を壊してしまう続編とは大きく異なるところです。
その点、2016年版は、よくぞこの大作に挑んだと、それだけでも心意気を買うし、今時の視聴者にフィットした世界観で、そつなくまとめた印象があります。デジタル坊主が読経する時代に、今さら、イエス・キリストの奇跡もないでしょうしね。
この作品をきっかけに、1959年版を観た若い世代も多いなら、新旧の橋渡しの役目は十分に果たしたと思います。
↑ 私も今回のリメイクには好意的。意外。
【映画コラム】 若者に媚びるか、年寄りに忖度するか
リメイクや続編の難しさは、突き詰めれば、「若者に媚びるか、年寄りに忖度するか」にあるのではないかと思います。
たとえば、鳴り物入りで製作されたジェームズ・キャメロンの「ターミネーター最新作」が世界中でコケた理由」にもあるように、今の若い世代は、私たちオールドファンほどシュワルツェネッガーに思い入れもないし、第一作の衝撃もしりません。せいぜい、パパやママに思い出話を聞いて、Netflixなどで予習がてらに観るぐらい。今となっては、第一作のターミネーターの造形も、ショットガンのアクションシーンも、若い世代にはただただ古くさいだけで、理解できない人も少なくないのではないかと思います。
でも、それはキャメロンのせいでもなければ、シュワルツェネッガーのせいでもない。ひとえに時間の残酷さです。
ドッグイヤーどころか、マウスイヤーで、ちょこまかと世間の好みが移り変わる時代、上にも下にも忖度するような映画作りは、スピルバーグやキューブリックでも至難の業でしょう。
若者に媚びれば、「思い出を壊すな」と年寄りの怒りをかうし、年寄りに忖度すれば、若者には退屈だし。
ここまで好みも、経験も異なるものを、『設定』という共通の枠組みだけで惹き付けるのは、このあたりが限界という気もします。
何故かといえば、今のバブル世代以上は、映画でも、音楽でも、70年代から90年代にかけて、「凄いもの」を体験して育っているからです。スターウォーズしかり、QUEENしかり。
手垢のついたリメイクや続編ばかり見せられる今の若い世代とは衝撃の度合いが違います。
スピルバーグも、キャメロンも、ルーカスも、野心に燃えた若者で、チャレンジ精神に溢れていました。
「宇宙飛行士の腹を食い破って、エイリアンの幼虫が出てくる」なんて、若いリドリー・スコットにしか思い付かないですよ。今では普通かもしれませんが、当時は前例もなく、視聴者はみな手の平サイズのスマホではなく、映画館の大型スクリーンで見せられたのです。
ばーっと血が飛び散って、「キイィィィィ~」とチェストバスターが出てくる、あの場面をね。(興味のある人は、YouTubeでどうぞ)
最近になって、「プロメテウス」や「エイリアン・コヴェナント」の予習として、Amazonプライムあたりで旧4部作を観ている層とは、目に映るチェストバスターの大きさからして違うでしょう。スマホで観るエイリアンなんて、せいぜい手乗りのハムスターですよ?
そう考えると、いいかげん、80年代のキャラや思い出に頼るのはやめて、若年層も年寄りも夢中になるような、新しいキャラをを創出してはどうかと思うんですね。
実際、21世紀になってから、時代のアイコンになるようなキャラって、登場しました?
エイリアン、ターミネーター、ダース・ベイダー、プレデター、ブレードランナー、バットマン、スーパーマン、ジュラシック・パーク、等々。
大半が、20世紀に作られたキャラではないですか。
マーベルやDCエクステンデッド・ユニバースあたりも頑張ってますが、それも元を辿れば20世紀のアメリカンコミックで、まったく新しいとはいえません。
いつまで新シリーズだの、リメイクだの、やってるのか。
もうそろそろ、若い人たちの手で、21世紀のレジェンドとなるような新キャラを作りだして欲しいと思いますよね。
ディズニーにも、マーベルにも与しない、まったく新しい造形です。
もっとも、人種差別だの、女性蔑視だの、これだけ表現にうるさくなれば、そうそう冒険はできないと思いますが、それでも、ここで旧時代の恩恵を捨てないと、焼き直ししか作れない、亜流のクリエイターばかりになってしまうのではないでしょうか。
そうすると、行き着く先は、個人設定のヴァーチャル・リアリティ。
個人が、自分主役の物語を自由に設定して、仮想現実を体験できる、トータル・リコールの世界です。
似たような作品ばかり見せられるより、自分が実際、スパイになったり、絶世の美女になったり、映画の世界をリアルに楽しめる方が面白いでしょう。
本当にそうなってしまうかどうかは分かりませんが、今やらなければ、どんどん映画界も廃れて、「スマホで十分」みたいな安っぽい世界になってしまうのではないかと心配します。