猫が人間に教えてくれること ~猫を愛する人の日記

不本意ながら猫を飼い始めた筆者が、いつの間にか、無類の猫好きになっていた(あるある)。

猫の想いと人間の学びを綴る日記です。

猫以外の犬の想いも綴っています。

本記事の内容
  • 我が輩も猫である 名前は付けない
  • 外の世界に憧れる猫と閉ざされた窓
  • ハムスターとネズミ講と世界の不公平
  • 僕の居場所 ~僕は淋しい野良猫~
  • 僕が犬やった時
  • ある午後の風景 ~今度、生まれ変わったら~
  • 我が輩も猫である 名前は付けない

    『我が輩は猫である。名前はまだない』の精神に則り、私も飼い猫に名前は付けてない。

    日本文学を愛する者は、蜘蛛を殺したり、トンネルを抜けて鹿児島に行ったり、「あたくし? デュボワ」なんて真似してはいけないのだ(出典:三島由紀夫『女神 (新潮文庫)』)。

    ゆえに、私だけは「ニャーコ」と呼んでいる。男の子だけど、ニャーコ。

    うちの子たちは『パズー(ポーランド語で『爪』のもじり)』などという洒落た愛称で呼んでいるが、うっかり『バルス!』の一言で家が崩壊したらどうするんだ。

    そもそも私は犬猫にはまったく興味がないし、生き物を飼いたいとも思わない。

    ペットは確実に自分より早く死ぬし、死ぬと別れが辛いからだ。子供の頃、金魚だの、文鳥だの、次々に死なせた痛い思い出もある。

    私に生き物を飼う資格など無いし、大事に育てる自信もない――というのが、私の長年の考えだったが、子供らに「猫飼う、猫飼う」としつこくせがまれて、、とうとう折れた。最後まで強硬に反対したが、「自分たちで糞の始末や餌の世話をする」という条件付きで受け入れた。

    もっとも、こんな口約束は三日で反古にされると知っている。

    実際、ハムスターを飼う時も、歴代政権並だった。

    やつらの「絶対に世話するから」という言葉は、絶対に信じてはいけないのだ。

    今も飼い猫に名前を付けないのは、そういう理由もある。

    これは私の猫じゃない。

    君たちの猫なんだから、君たちで責任もって世話するように、という意思表示の一環だ。

    私までもが愛称で呼び出したら、いつしか「ママの猫」になり、「世話ヨロシク!」になるのが目に見えている。

    だから、絶対に付けない。

    意地でも、「ママの猫」にはしない。

    一方、ペットに名前を付けないのは、生き物に愛着をもちたくない理由もある。

    ティファニーで朝食を』にもあるように、名前を付ければ、誰かの所有物になる。自分の所有物になれば、愛着も湧く。愛情が深まれば、死に別れた時に悲しい。だから深入りしたくない。名前を付けて、一対一の関係性を持ちたくない。

    そんな訳で、ニャーコは、今日もニャーコという名無しのまま、自由気ままに生きていく。

    誰の所有物でもなければ、誰かに飼われているわけでもない。

    猫という、一つの生き物。

    誇り高い、ネコ族の末裔。

    今日のニャーコ。よく寝てます。
    ニャーコ

  • 外の世界に憧れる猫と閉ざされた窓

    猫には、外に憧れる気持ちはあるけれど、自分でドアを開ける力はない。

    誰かが開けてやらないと、いつまでも家の中に閉じ込められたまま。

    どれほど外に出たくても、ドアの前でにゃーにゃー鳴くだけ、夢を叶えるには、大人の手が必要なのだ。

    近頃はドアや出窓の近くでウロウロするだけで外に出たいのだと分かるようになった。

    こちらが気付かないと、「にゃぁ~」と甘えることもある。

    ああ、外に出たいのね、と、窓を開けてやる時だけ、ちょっぴり優越感。

    そして、夢の天使。

    たとえ相手が猫でも、願いを叶えてやるって、なんていい気分だろう。

    窓を開けると、窓枠のところで少し考えた後、とことこと屋根を降りていく。

    行ってらっしゃい。あまり遠くへ行くんじゃないよと、見送って、こちらはちょっぴり淋しい気分。

    うちの子たちが成人する時も、きっとこんな感じだろう。

    家に居る間はせっせと餌をやり、ぐうぐう昼寝している時は起こさぬように物音に気を遣い、あれやこれやで世話を焼いて、出て行く時は一瞬だものなぁ。

    今でも犬猫を我が子のように可愛がる気持ちなど知らないし、分かりたくもないが、こんな日常が三日、四日と続けば、そのうち、こう言い出すんだろうな。猫に向かって「うちの子が」。いやもう、猫は猫だよ。三人も子供いらネ。

    それにしても、じっと窓に向かって何を考えているのやら。

    人間だけが知的で、魂を有するなどと誰が言い出したのか。

    猫にも知性はあるし、多分、心もある。

    自分の言葉を持たないだけで、胸の中にはいっぱい、やりたい事、気になる事、あるだろう。

    ただ、彼らには、自分でドアを開ける力がない。

    足りないのは、本当に一点、それだけだ。

    そして、人間も、時にはドアを開けてくれる誰かを必要とする。

    どれほど焦がれても、自分の力では、決して越えてゆけないドアがあるから。

    それが自分のドアであれ、他人のドアであれ、『求めよ、さらば開かれん』。

    こんな猫一匹でも、ドアを開けてくれる誰かの手があるのだから。

    今日のニャーコ。いつもこうして外を眺めています。
    ニャーコ

  • ハムスターとネズミ講と世界の不公平

    我が家の庭には、五匹のハムスターが埋まっている。

    最後まで愛情たっぷりに育てられた子、生まれた時から虚弱体質で、いまいち顧みられることなく、小さなケージの中で一人淋しく死んでいった子、一人で淡々と暮らし、いつの間にか事切れていた子、それぞれに個性も生き方も異なる。

    我が家で最大の悲劇は、「どちらもメス」といわれて購入した二匹のハムスターが、実はオスとメスで、一ヶ月ほど経ったある日、六匹の子供を産んだことにある。
    いつの頃からか、巣箱の中からミィミィ音がするので、メス同志、愛に目ざめたのかと思ったら、なんと子供に授乳中ではないか。

    ハムスターチューブの中で、二匹、折り重なったようになっていたのは、サフォーの愉悦ではなく、子作りだったらしい。

    当然のこと、うちでは八匹も飼いきれないから、(捨てたい……)という邪悪な考えが脳裏をよぎった。

    しかし、せっかく生まれた子供たちを、こっちの勝手で捨てたりしていいものか。

    ペットショップにも問い合わせたが、衛星上の問題で、家庭で生まれたハムスターを引き取ることはできないと。

    どうするんだよ、どうするんだよ、と、とにかく、飼育ケージを2個買い足し、八匹のハムスターを世話をしていたが、子供たちがトコトコ歩き出したのも束の間、このカップルはまたも子供を産んだ。今度は5匹。

    ほんの2ヶ月の間に、2匹のハムスターが、13匹に増えたということは……

    四ヶ月後には、30匹以上。

    六ヶ月後には、100匹以上。

    一年後には……

    これぞ本当のネズミ講。

    ●●みたいに、元締めにお金がガポガポ入ってくるわけじゃなし、今、ここで処分しなかったら、我が家は大変なことになる……というので、ある晩、とうとう決心した。

    わざとケージの入り口を数センチ開き、「ここから先の人生は、お前たちで決めなさい」と、一晩放置したのだ。

    すると、ハムスター母さんはどうしたか。

    一夜のうちに、新たに生まれた5匹のベビーハムスターを口にくわえて、冷蔵庫と壁の隙間に引越し、第二の巣作りを始めたのだ。

    ということは……二ヶ月もしない間に、冷蔵庫の裏手でまた子供が何匹と産まれ、結局、ネズミ講ではないか!

    こちらの恐怖をよそに、ハムスター母さんは夜な夜な冷蔵庫の裏から現れては、私が用意した餌を頬いっぱいにくわえて、子供たちに与える日々。

    我が家がハムスターに食い潰されるのは、いつの日のことか。

    戦々恐々と暮らしていたら、いつの頃からか、ハムスター母さんの姿も、子供たちの姿も見えなくなった。

    どうやら巣の場所を変えたか、独り立ちしたのだろう……と安心していたら、数週間後、家人が庭先の物置の影に、食い殺された五匹の子供たちの死骸を見つけた。いずれも頭をかじられて、無残な最後であった。ストレスに耐えきれなかったハムスター母さんは、子供を食い殺して、どこかに去ったらしい。

    こんな事があってから、私は二度と生き物は飼わないと決めたし、子供たちにもそう言い聞かせてきたのだが、ほとぼりが醒めると、今度は「猫飼う」。

    結局、飼ってるけど、今度はパイプカット手術を受けさせて、とにかく子供は作らないようにしている。

    人間のエゴといえばその通りだが、面倒みきれず死なせるぐらいなら、きっちりバースコントロールした方がいい。

    その後、ほどなく最後のハムスターも死亡し、数年続いたハムちゃんとの暮らしも終わりを告げた。

    十分に愛したかと問われたら……なんともいえない。毎日、数匹の世話をして、精神的にプレッシャーだったから。

    ハムスター

    ハムスター

    海の向こうでは、人間がゴミみたいに殺されて、食うや食わずやで苦しんでいるのに、一方では、猫やハムスターが毎日たっぷり食事を与えられ、手厚く世話されている。彼らの命は、猫やハムスターにも劣るのだろうか。何なのだ、この異様な地上の不公平は。

    人間の生命は尊いとか、どんな命も平等とか、あんなのきれい事とつくづく思う。

    現実には、ゴミみたいに殺される方が圧倒的に多く、オギャアと生まれた場所で人生の大半が決まる。

    人間が努力して変えられる部分など10%か20%くらい。

    後は、生まれた場所、生まれた時代、外的な要因に左右されて、荒波に揉まれる小舟みたいに無力なものだ。

    本当はそうだと誰もが知っているくせに、命の平等や努力の尊さを説くのは、半分ホントで、半分インチキというものだろう。

    あなたも、私も、運がよかっただけ。

    ただ、それだけに過ぎない。

    能力や人柄のおかげ(だけ)では、断じてないのだ。

    こんな家庭(家)に生まれさえしなければ……という例を多々目にするので、余計でそう思う。

    何事も、一概に責めることはできない。

  • 僕の居場所 ~僕は淋しい野良猫~

    僕は淋しい野良猫で、帰る場所を探している。
    いつでも、どこからでも、帰って行ける場所だ。

    夕べ、犬に言われたよ。
    「犬はどこででも眠ることができる。自由を愛しているからさ」

    だけど帰る場所のない自由なんて、ただ浮いてるだけだ。
    もし君が死んだら、君には泣いてくれる人がいるの?

    次の日、交差点で、車に轢かれた犬を見た。

    待つ人のない犬は、そこに放置されたまま、誰かに名前を呼ばれることもない。

    ずたずたになって、跡形もなくなっても、次から次に人に踏まれて、静かに眠ることさえできない。

    これが君の望む自由なら、僕は鎖で繋がれても、僕の帰りを待ってくれる人を探すよ。
    二人の間が窮屈なら、鎖は幾らでも伸びる。
    肝心なのは、その端っこを、誰かがしっかり握っていてくれることなんだ。

    僕は交差点を通り過ぎると、大きな和菓子屋の軒先にうずくまった。

    今はまだ誰に気付かれなくてもいい。
    とりあえず空腹さえしのげれば。
    たとえ雨に打たれても、百夜ぐらいなら一人だって平気だ。
    僕はそんな夜にもうずっと馴れているんだ。

    そして、いつか僕の帰る場所を見つけたら、僕はもう二度と自由を羨んだりしない。
    いつまでも君の側にいるよ。
    心地良い距離の間で。

    記 2005年? 

    いつ、何の目的で書いたのか、まったく記憶になし。

    犬

  • 僕が犬やった時

    僕が犬やった時
    君は猫やった

    誰でも無条件に味方して欲しい時がある
    主義信条が違っても 
    明らかにその人が間違いでも
    stand by you の気持ちが
    相手を素直にし
    心を奮い立たせることがあります

    正論を説いて聞かせるばかりが正義ではない

    僕が犬やった時

  • ある午後の風景 ~今度、生まれ変わったら~

    ベランダに出たら、中庭で居眠りする猫を見つけた。

    あんまり気持ち良さそうなので、

    今度生まれ変わるなら、猫でも良いなあと思った。

    人間はよけいなことを考え過ぎる。

    ただ陽の温もりだけを感じて生きていればいいのに。

    日の出とともに目覚め、日の入りとともに眠る、

    原始の時代が懐かしい。

    自分が何者であるかなど考えもしなかったのだろう

    あの頃は。

    初稿:1999/06/12

    今度生まれ変わったら

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

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