ドストエフスキー– category –
江川卓と原卓夫の『カラマーゾフの兄弟』と米川正夫訳の『罪と罰』をメインに「人と社会」「愛と救済」について読み解くコラム。
-
ドストエフスキーキリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ゾシマ長老とイワンの問答より(10)
国家が罪人に刑罰を科しても魂が救われるわけではない。真に人間を救済するのはキリスト教会であり、国家が教会そのものになるべきという熱い議論が交わされる難解なパート。『キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい』はアリョーシャの未来を示す? -
ドストエフスキー自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる フョードルの実体とは?(7)
僧院でもふざけた態度を取り続けるフョードルに、ゾシマ長老は「自分自身に嘘をつけば、自分のうちにも周囲にも真実が見分けられなくなり、自分にも他人にも尊敬を抱けなくなる」と諭す。長老の洞察力とフョードルの真の姿が垣間見える場面。 -
ドストエフスキー神は罪を犯した者を、罪のままに愛してくださる ~ゾシマ長老の言葉(8)
高徳の僧ゾシマの元に救いを求めて信者の女性が次々の訪れる。子を亡くした母親、年寄りの連れ合いに虐げられた女性、彼女らの訴えに耳を傾けながら、ゾシマは慰めの言葉をかける。ドストエフスキーの『罪と罰』の思想がいっそう高められたパート。 -
ドストエフスキーオレオレ詐欺と現代のラスコーリニコフ
つまり世の中には、あらゆる不法や犯罪を行い得る人……いや、行い得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい──というこの事実に対する暗示なのです。 -
ドストエフスキー一つの生命を代償に、数千の生命を堕落と腐敗から救う ~ドストエフスキーから永遠の問いかけ
「ひとつのちっぽけな犯罪は、数千の善行によって、つぐなえないものだろうか?ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ」 心の奥底の願望を映し出すような学生と将校の会話によって、ラスコーリニコフは斧を手に取る。永遠の問いに答えはあるのか。 -
ドストエフスキー人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~愛の実践には厳しさを伴う(9)
声高々に愛を説く人ほど身近な人間を愛せなかったりする。愛を実践することではなく、慈愛の人と賞讃されることが目的になれば、面倒を避け、愛するという本来の目的からかけ離れてしまうからだ。ゾシマ長老は行動する愛の厳しさを説く。 -
ドストエフスキーこんな男がなぜ生きているんだ! 淫蕩父と長男の修羅場《カラマーゾフ随想》原卓也訳(4)
神父さんたち、父親殺しの言うことをききましたかね? あれがあんたの『恥を知れ』に対する答えですよ! 本当にドミートリィが道理をわきまえない、ただの乱暴者であれば、恥は感じない。そしてゾシマ長老の一言「赦しておあげなさい。すべてを赦すことです」 -
ドストエフスキー現代の精神的指導者《カラマーゾフ随想》原卓也訳(2)
長老とは、すなわち、あなた方の魂と意志を、自分の魂と意志の内に引き受けてくれる人にほかならない。いったん長老を選んだならば、あなた方は自己の意志を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老の完全な服従下にさしだすのである。 -
ドストエフスキー大審問官=悪魔の現実論を論破せよ《カラマーゾフ随想》 原卓也訳(10)
カラマーゾフの兄弟の命題ともいうべき『大審問官』。原卓也の訳本と江川卓の『謎とき・カラマーゾフの兄弟』のテキストを交えながら、人間が生きることと神の教えの矛盾、「イエス・キリスト VS 悪魔の三つの誘惑」などを解説。 -
ドストエフスキー理想は生まれ出するも奇形ばかり《カラマーゾフ随想》原卓也訳(8)
いまだに彼らの叡知も、心の情熱も、その昔キリストの示された姿より、さらに人間とその尊厳にふさわしいような立派な姿を創出することができないのだからな。かりにその試みがあったにせよ、できあがるのは奇形ばかりなのだ。 -
ドストエフスキー屁理屈と無神論 その理論は本心ですか?《カラマーゾフ随想》原卓也訳(7)
「とにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか?」「ありませんよ、神はありません」「じゃ、悪魔はあるんだな?」「いませんよ、悪魔もいません」現代でも、理屈を並べるのが好きな人は多いし、自分も相手も理屈で説き伏せ、本音や問題を覆い隠すのが癖になっているケースも多いと思う。 それでも、どこかで破綻するのは、それが『真実』ではないからだろう。 -
ドストエフスキー無垢な涙の上に万人の楽園を築けるか?
アリョーヤの視点は、当事国から一歩離れて、調停する側にある。調停者はジャッジはしない。A国もB国も、それぞれに主張があり、どちらが正しいかジャッジを持ちこむ限り、問題は永遠に解決しないからだ。そうではなく、それぞれの言い分、それぞれの間違いを受け入れつつ、平和に導く。イエス・キリストは、そうした高次的な存在であり、当事国の理屈で解決しないものを平定する為に正義を説いている。