ドストエフスキー– category –
江川卓と原卓夫の『カラマーゾフの兄弟』と米川正夫訳の『罪と罰』をメインに「人と社会」「愛と救済」について読み解くコラム。
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ドストエフスキー慈愛と優しさの違いとは ~いやな臭いのリザヴェータと聖俗(15)
シュメルジィ(臭い)の呼び名をもつ白痴女のリザヴェータに対する町民の優しさと男たちの下品な欲望について、江川卓氏の解説を交えながら、スメルジャコフのルーツを説く。 -
ドストエフスキー現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ! 時代の変化の先の『救済』とは (13)
社会の変化は人々の価値観やライフスタイルを否応なしに変え、それに付いていけない人は落ちこぼれて貧苦に喘ぐ。指針も見えず、救いもなく、混沌とした時代の中で神の教えにどれほどの意味があるのか、それよりもパンを寄越せのフョードル論。 -
ドストエフスキーガッデム! 料亭『みやこ』-カラマーゾフの迷宮-
先行き不透明な時代に、人生を懸けて、人類救済の処方箋を書いた作家は三人いる。私の中では、ニーチェ、マルクス、ドストエフスキー。突き詰めれば、いかに生き、いかに変革するか、という話なのだけど、それでも時代背景や文化が違うと読み解くのも一苦... -
ドストエフスキーいかにして我は無神論者となりしか《カラマーゾフ随想》 原卓也訳(9)
たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ。 -
ドストエフスキーイワン&アリョーシャと楽しむ『カラマーゾフのロシアンティー(さくらんぼのジャム)』 ー江川卓の解説より
難解で知られるドストエフスキーの名作を分かりやすく解説するロシア文学者・江川卓氏の名著。イワンとアリョーシャが大審問官について語り合う料亭に登場する桜んぼのジャムを、実際にロシアで食して感激したという、江川先生のエピソードからロシアンティーを制作。該当箇所の抜粋とオタクフードに関するコラム。 -
ドストエフスキー偽善と不信 真の救いはどこにある?《カラマーゾフ随想》 原卓也訳(6)
そもそもわが国の現状はどうですか? 我が国では倒れたものは倒れっぱなし、倒れたら最後、永久に倒れてなけりゃならないんでさ。なんとかこれを変えられないものでしょうか……というのは現代日本も同じです。 -
ドストエフスキー幸福とはどこにあるのでしょう?《カラマーゾフ随想》原卓也訳(5)
かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることですな。実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。 -
ドストエフスキー育児放棄された三兄弟の行く末《カラマーゾフ随想》原卓也訳(3)
彼らは既に父親に殺された息子たちであり、その代わりとなるものを修道に見出したアリョーシャを除いては、いずれも父=神不在の人間である。現実に生じる父親殺しの種をまいたのは、他ならぬ父親自身であり、ドミートリィもイワンも育児放棄された時点で正道から見放されたといえなくもない。 -
ドストエフスキー社会主義と宗教《カラマーゾフ随想》原卓也訳(1)
『罪と罰』もそうだが、本作にも「神の在・不在」をテーマにしたエピソードが繰り返し登場する。その中で、ドストエフスキーは存在するとも存在しないとも断言してないが、結局のところ、人は『それ』を求めずにいない……というのが彼の解釈ではなかろうか。 -
ドストエフスキー現代に生きる『カラマーゾフな人々』~血と金と救済~【はじめに】
現代においてカラマーゾフの兄弟を読み直す意義について、江川訳の立場からコメント。バーチャル僧侶が死者の為に読経し、教会のミサもオンラインでシェアされる時代、アリョーシャの言葉は誰の心に響くのか。 -
ドストエフスキードストエフスキーの名作『罪と罰』米川正夫(訳)の抜粋 / 『謎とき 罪と罰』江川卓
超個人主義に徹する貧しい大学生ロジオン・ラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という論理のもと、強欲な高利貸の老婆を殺害し、奪った金を有効に使おうとする。不朽の名作を米川正夫訳で紹介。 -
ドストエフスキー俗界で生きよ ~何が人間を強くするのか~
死の床にあるゾシマ長老は、心から慕う若いアリョーシャに「家族のもとへは行ったのだな、兄には会ったかの? あすも行くのじゃ、あとのことはほうり出しても、いそぐがよい。ことによると、まだいまなら恐ろしいことが起るのを防げるかもしれぬ。わたしは機能、あの人の大きな未来の苦しみの前に頭を下げたじゃ」と将来カラマーゾフ家で起きるであろう、不吉な出来事を予言する。