ドストエフスキー– category –
江川卓と原卓夫の『カラマーゾフの兄弟』と米川正夫訳の『罪と罰』をメインに「人と社会」「愛と救済」について読み解くコラム。
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ドストエフスキー慈愛と優しさの違いとは ~いやな臭いのリザヴェータと聖俗(15)
シュメルジィ(臭い)の呼び名をもつ白痴女のリザヴェータに対する町民の優しさと男たちの下品な欲望について、江川卓氏の解説を交えながら、スメルジャコフのルーツを説く。 -
ドストエフスキー性があるから人間らしく生きていける 『好色な人々』の真摯な生き様(14)
カラマーゾフの兄弟の登場人物は揃って『好色』とされるが、ドストエフスキーは性を揶揄するのではなく、人間から切り離せない生きる力として描いている。科学の発達した現代と19世紀の性に対する考え方についての考察。 -
ドストエフスキー現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ! 時代の変化の先の『救済』とは (13)
社会の変化は人々の価値観やライフスタイルを否応なしに変え、それに付いていけない人は落ちこぼれて貧苦に喘ぐ。指針も見えず、救いもなく、混沌とした時代の中で神の教えにどれほどの意味があるのか、それよりもパンを寄越せのフョードル論。 -
ドストエフスキーラチーキンは裏切り者のユダ? 秘めた嫉妬が悪意に変わる時(12)
アリョーシャの秘めた好色と生きる意欲の源泉、ラキーチンの野心とカラマーゾフ一族に対する屈折した感情が見え隠れするスリリングな場面。江川卓氏の解説を交えて、幻の後編に描かれたかもしれない皇帝暗殺計画についてコメント。 -
ドストエフスキー『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を垂れたのか(11)
本作屈指の名場面。ドミートリィはなぜ「こんな人間が生きているんだ」と嘆き、ゾシマ長老は「お赦しくだされ」と彼に頭を下げたのか。その後の悲劇を示唆する内容で、非常にドラマティックな一幕の解説。 -
ドストエフスキーキリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ゾシマ長老とイワンの問答より(10)
国家が罪人に刑罰を科しても魂が救われるわけではない。真に人間を救済するのはキリスト教会であり、国家が教会そのものになるべきという熱い議論が交わされる難解なパート。『キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい』はアリョーシャの未来を示す? -
ドストエフスキー人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~愛の実践には厳しさを伴う(9)
声高々に愛を説く人ほど身近な人間を愛せなかったりする。愛を実践することではなく、慈愛の人と賞讃されることが目的になれば、面倒を避け、愛するという本来の目的からかけ離れてしまうからだ。ゾシマ長老は行動する愛の厳しさを説く。 -
ドストエフスキー神は罪を犯した者を、罪のままに愛してくださる ~ゾシマ長老の言葉(8)
高徳の僧ゾシマの元に救いを求めて信者の女性が次々の訪れる。子を亡くした母親、年寄りの連れ合いに虐げられた女性、彼女らの訴えに耳を傾けながら、ゾシマは慰めの言葉をかける。ドストエフスキーの『罪と罰』の思想がいっそう高められたパート。 -
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり)
絶版になって久しい江川卓訳『世界文学全集(集英社)』のカラマーゾフの兄弟を抜粋と写真で紹介。現代的で読みやすい訳文です。原卓也訳との比較も掲載。2021年はドストエフスキーの生誕200年のアニバーサリーイヤーにつき文庫化の可能性もあり。興味のある方は復刊リクエストにご協力下さい。 -
ドストエフスキー僧院の『薔薇の谷間』とフョードルの洞察力 田舎のオヤジは本当に道化なのか?(6)
父フョードルと長男ドミートリィの金の分配をめぐって一家で集うことになったカラマーゾフ家。高徳の僧ゾシマ長老に裁量を仰ぐ為、僧院に赴くが、さっそくフョードルの下卑た言動が始まる。ハチャメチャな未来を予感させる印象的な場面。 -
ドストエフスキー自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる フョードルの実体とは?(7)
僧院でもふざけた態度を取り続けるフョードルに、ゾシマ長老は「自分自身に嘘をつけば、自分のうちにも周囲にも真実が見分けられなくなり、自分にも他人にも尊敬を抱けなくなる」と諭す。長老の洞察力とフョードルの真の姿が垣間見える場面。 -
ドストエフスキー大審問官=悪魔の現実論を論破せよ《カラマーゾフ随想》 原卓也訳(10)
カラマーゾフの兄弟の命題ともいうべき『大審問官』。原卓也の訳本と江川卓の『謎とき・カラマーゾフの兄弟』のテキストを交えながら、人間が生きることと神の教えの矛盾、「イエス・キリスト VS 悪魔の三つの誘惑」などを解説。