独房から死刑執行室に向かう死刑囚を指す刑務所内の隠語
「死刑囚が行くぞ」 Dead man walking
当記事は何度も追記しているので、見出しに連続性はありません。
【コラム】 死刑の是非に正答はなし
最初に結論から言えば、この作品は「死刑反対」の立場から描かれています。
その為、死刑囚に同情的な演出も多々あり、人によっては腑に落ちないと感じるかもしれません。
というより、死刑の是非なんて、永久に答えの出ないテーマです。
「人が人を裁く」ということ自体が不条理ですから。
「人を殺すのは悪いこと」──これは明白ですが、じゃあ、どれくらい悪いのか。
三年刑務所に入れば許されることなのか。
皆で仕返しして、火あぶりにしてもいいくらい、罪深いのか。
その度合いを決めるのは人間であり、その人間自体が不確かで、どちらかに偏った価値観を持っている限り、「絶対的に正しい裁き」などあり得ないからです。
この世に本当に「神さま」がいて、その神さま自身が裁きを下さるなら、納得する部分もあるかもしれません。
しかし、同じ人間が、同じ人間を裁き、時にはその命を奪うこともある。
では、その判断の是非は誰が裁くのか?
万一、その判断に誤りがあった場合、処刑された人は、誰に助けを求めればいいのか?
もう答えに行き詰まりますよね。
ゆえに、死刑について考えるということは、社会正義や法律うんぬんにとどまらず、人間の領分を突破することであり、そこで「正論を得た!」と断言するのは傲慢以外のなにものでもありません(賛成、反対にかかわらず)
だから、私たちは、永遠にこのテーマの前に立ち止まり、何度でも考え直す必要があります。
それだけが唯一、誤りを防ぐ道だからです。
下記にも書いてますが、被害者の遺族が「こんな畜生は一日も早く死刑に! 同じ目に遭わせてやりたい!」と叫ぶのは、人間として当然の感情ですから、いっこうに構いません。
でも、無関係な人間が、ろくに事情を知りもせず、世論の尻馬に乗っかって、「こんなクズ、即死刑だよな」と軽々しく口にすることには甚だ疑問を覚えます。
いかなる理由があろうと、何の関係もない第三者が軽々しく口にすべきではないのです。
『デッドマン・ウォーキング』はそういう事を教えてくれる作品です。
持ち前の正義感から、盲目的に死刑囚を庇うのではなく、作中には、愛する子供を無残に殺された両親の生々しい叫びがあり、葛藤があり、死刑囚を弁護するシスターヘレンに厳しい批判を投げかける場面もあります。
ゆえに、見る者は、何度も、何度も、立ち止まって、自分に問いかけずにいられません。
私(世間)の考え、本当に正しいの──? と。
【追記 2012年12月15日】
【コラム】 日本の死刑制度について
【2010年10月11日 追記】
私が日本の死刑制度に興味を持ったのは、1990年代半ば、カルト教団による連続凶悪犯罪が毎日のようにメディアで報じられたのがキッカケだ。
首謀者のAは、救いようのない極悪人。
被害者と同じやり方でとことん苦しめるべき。
死刑は当然だ。
週刊誌やTVなどで、野次も含めた死刑肯定の意見をたくさん目にした。
確か、それ以前には、死刑反対の動きもあったはずなのに、あの死刑反対論者は何をしているのだろう。
相手がこれほどの凶悪犯にもなれば、世間を納得させる反論も出てこないのか。
今こそ安易な死刑肯定論に待ったをかけ、真剣に討論すべき時ではないのか。
彼らの犯罪は決して許されることではないけれど、死刑、死刑の大合唱には正直うんざりした。
死刑と言えば聞こえはいいけれど、要は「殺せ」ということだもの。
人ひとりが死ぬって、その程度のことなのか。
相手が凶悪犯なら、理由が合法的であれば、それが正義なのか。
いろいろ考えずにいなかった。
そんな時、たまたま深夜のTVロードショーで見たのがティム・ロビンス監督の映画『デッドマン・ウォーキング』だ。
ハリウッド屈指の演技派スーザン・サランドンがアカデミー主演女優賞を獲得し、マドンナの元夫で、暴力事件を繰り返していた鼻つまみ者のショーン・ペンも迫真の演技で高く評価された社会派ドラマである。
後述にもあるように、この映画は、死刑囚の心理カウンセラー、シスター・ヘレンと、ちょっとイカれた若者マシュー・ポンスレット(原作ではパトリック・ソニア)とのやり取りを通じ、アメリカの死刑制度および刑務所の実態や社会問題、被害者のおかれた状況などを浮き彫りにし、観客に是非を問いかける非常にシリアスな作品である。
人間にとっての罪と罰、被害者家族の深く激しい怒りと心の傷、永遠に決着のつかないテーマを目の前に突きつけられ、おそらく見終わった後は自分まで当事者になったような悶々たる思いに息苦しささえ感じるだろう。
しかし、この映画の「本当に死刑を肯定していいのですか?」という問いかけは、法治国家に生きる人なら、一度は立ち止まって考えるべきテーマだと思う。
普段、何気に「こんなヤツは死刑にすればいいよ」と世間に同調しているなら、なおさらに。
日本にも死刑制度を取り上げた本が幾つかあるが、坂本敏夫さんの『元刑務官が明かす死刑のすべて』には、死刑囚のみならず、死刑を執行する側の人間の葛藤やシステムなども詳しく紹介されている。
あまり話題にならないけれど、死刑には必ずそれを執行する人がある。積極的に刑の執行を望むシンパの集団ではなく、「公務員のお仕事」、いわばよき社会人であり、家庭人でもある、普通一般の人々である。
あなたなら、その部署に配属されたというだけで、よろこんで死刑の手伝いをするだろうか。
まともな感覚をもった人なら、たとえ相手が凶悪犯であっても、「人ひとりを殺す」という重さに打ちのめされ、できるならそういう任務に携わりたくない、と考えるのが普通だろう。
著書の坂本さんは、『死刑』というものをこんな言葉で表現されている。
どんな状況にあっても絞首して殺さなければ死刑にならないのだ。
暴れようが、気を失おうが、なんとしてでも踏み板の上に立たせ、首にロープを掛けなければならない。
この状況を思えば、事件がいかにエンターテイメントな要素を帯びようと、「死刑」など軽々しく話題にすべきではないし、死刑肯定者も、それを執行する人間の立場や気持ちを少し想像してはどうかと思う。
「だったらあなたが首にロープを掛けて、死刑囚を突き落としなさい」と言われたら、やはり何の躊躇いもなくできるものなのだろうか。
この著書もまた「考えさせる本」であって、死刑の是非を断言するタイプのものではない。
坂本さんご自身も、永遠に答えの出ないテーマを必死で模索しておられる途中、誰であっても、その是非を絶対的に言い切ることはできないだろうと思う。
最後に坂本さんが引用しておられる重松一重先生の文章、
死刑制度は恒星のごとく永久に存在してこそ人間の真価を問うものなのである。ひと口に言って、死刑の法条を法典から消去すれば社会の秩序が立ち、死刑廃止を看板として掲げれば文化国家の証であるなどというほど、人間は、社会・国家は単純なものではない。
いわば、「死刑制度は存続させ、処刑の反対」という立場が非常に興味深かった。
それに対し、「デッドマン・ウォーキング (徳間文庫)」の原作者、ヘレン・プレジャン女史の著作はもっと明快である。
死刑は「国家による合法的殺人」であると断言、死刑廃止のキャンペーンの先導に立つ一方、被害者家族の集まりにも積極的に参加し、「あんたは神に仕えるシスターのくせに人殺しを弁護するのか」と詰られても自らの立場を変えることなく、また被害者家族の意志や感情をリクツで変えようと試みることもなく、『魂の救済』という一つの大きな目的に向かって働きかけている。
ここに描かれる電気椅子処刑の生々しい描写はもとより、人種差別、教育格差、貧困問題など、日本より深刻かつ救いがたい現状にいっそう気持ちが沈むかもしれないが、「殺した者と殺された者」「裁く者と裁かれる者」「糾弾する者と弁護する者」という立場を越えた人々の手探りの努力に、何かしらの希望を感じずにいないはずだ。
死刑制度の是非に決着がつき、万人がその結論に納得したとしても、殺された側の傷は永遠に癒えないし、また殺人者にとって何が償いとなるかは一人一人によって違う。
だからこそ「皆が納得する意見で解決する」のではなく、どちらの側にもきめ細かなアプローチと時間が必要であり、死刑はそのプロセスを一方的に、また永久に断ち切ってしまうものだ、というのが、プレジャン女史のスタンスでもあるように思う。
こんなことは一人一人が考えても何かの助けになるわけではないし、絶対的に正しい答えも恐らく永久には出てこない。
そして、人間社会がどんな結論に辿り着こうと、やはり殺人はおき、傷ついた人間は取り残される。
おそらく、何かが完全に魂を救済するなどあり得ない話だ。
だからといって、殺人という絶対悪の前に、誰もが正義を唱えれば絶対的に正しいというものでもない。
少なくとも、「死刑」の現実を知らずに「死んで当然」と合唱するのは野次馬以外の何ものでもない。
無差別に人を殺すのも悪いが、安易に死刑と口にするのも根は似たようなものだと思う。
そういうことを教えてくれる作品である。
DVDと書籍の紹介
出演者 スーザン・サランドン (出演), ショーン・ペン (出演), ロバート・プロスキー (出演), レイモンド・J・バリー (出演), R・リー・アーメイ (出演), ティム・ロビンス (監督)
監督
定価 ¥2,480
中古 7点 & 新品 から
カトリックのシスター、ヘレン・プレイジョーンは、ある死刑囚から文通相手になってほしいと依頼される。囚人の名はマシュー・ボンスレット。10代のカップルを惨殺した容疑で死刑を求刑されていた。ヘレンは文通を始め、面会を重ねるうちに、死に怯えて反抗しながらもなお無実を主張する男に心を突き動かされるようになる。事件の遺族や刑務官たちとの出会いは、ヘレンの当惑をさらに深めた。彼女は自問する。目の前のこの男が本当に殺人を犯したのだろうか。そして、死刑という暴力を繰り返すことで何を得られるのか、と。それは自らの信仰の試練でもあった……。
仲間や若いカップルを惨殺した罪で死刑を宣告されている囚人マシュー(ショーン・ペン)と、彼を救うべく特赦査問会を要請する尼僧ヘレン(スーザン・サランドン)。
やがて嘆願が却下され、死刑執行の日が迫るなか、マシューの頑なな心は開かれていく…。
「死刑」という非常にシリアスな社会的テーマに真正面から挑んだ、ティム・ロビンス監督の意欲的傑作。
作中ではどのキャラクターも声高々に死刑反対を叫ぶことはないが、見終わった後、「それでもあなたは死刑制度に賛成ですか?」と問いかけるような内容である。
S・サランドンはアカデミー賞主演女優賞を、S・ペンはベルリン映画祭男優賞を受賞している。
実在のシスター、ヘレン・プレジャンによる原作はこちら。
アメリカの死刑制度をはじめ、凶悪犯が生まれる背景(人種差別や貧困)、被害者家族の過酷な日々、死刑支持者と反対派の確執などが克明に描かれています。
感情的にならず、自らを諫める形で書かれている点も秀逸。
アメリカで死刑制度廃止委員会の全国会長を務め、死刑囚の支援や被害者家族の救済にあたるカトリックのシスター、ヘレン・プレジャン女史の著書。
二人の死刑囚とのやり取りをヒロイックに描くのではなく、自身の反省も交えながら、人間としてのあらゆる可能性にスポットを当てている。アメリカ社会が根本的に抱える問題に関しても詳しく記述され、「死刑が決して解決策にはならない」という立場を貫いている。
映画では「薬を使った処刑」に設定されているが、原作では電気椅子による処刑の模様がリアルに描かれており、気の弱い人はそこでアウトだと思います。
絶版になっているのが残念。
【レビュー】 死刑制度を考える 映画『デッドマンウォーキング』
2000年発行・メルマガeclipseより
昨今、少年法改正について論議を呼んでいるが、「何が人間にとって本当の罰なのか」、「本当の改悛とは何なのか」についてはあまり論じられていないような気がする。
果たして、刑罰を重くすることによって、少年犯罪は激減するのか、罪を犯した少年は改悛し、きちんと社会復帰するのか──こればかりは施行してみないと分からない部分も多い。
何故なら、件数は減っても凶悪化する可能性はあるし、人を殺すような少年には社会復帰などして欲しくないという反感情もあるからだ。
「盗むな」「殺すな」という教えは数千年前から存在するが、相変わらず人は盗むし、殺しもする。単純に刑罰を重くしても、根本的な問題解決にはならないだろう。
少年法改正の問題は、ひいては死刑廃止論に繋がる。
果たして、死刑という極刑が被害者を救済し、犯罪防止の特効薬となり、罪人に罪を贖わせるのかという点で。
死刑廃止論も、以前は活発な討議がなされ、あちこちに支持者を見かけたものだが、オウム実行犯に次々に死刑判決が下っても、誰も何も言わなかった。
彼らは何所に姿を消したのだろう。
罪が罪だけに、こいつらは例外的に「死刑OK」とでも言うのだろうか。
本当に死刑廃止論を支持するなら、麻原に死刑判決が下りても擁護できるはずである。
人はなぜ殺すのか。
死刑は本当に罰となり得るのか。
凶悪犯でも弁護せねばならない理由は何なのか。
そうした命題に真っ向から取り組んだ作品がある。
ティム・ロビンス監督の映画『デッドマン・ウォーキング [DVD]』だ。
主演は『テルマ&ルイーズ』『依頼人』などでお馴染みの演技派女優スーザン・サランドン。死刑囚を演じたのは、マドンナの元旦那、ショーン・ペンだ。
*
ストーリーは、一人の死刑囚がサランドン演じる修道女ヘレンに一通の手紙を宛てるところから始まる。
死刑囚マシュー・ポンスレットは、6年前、悪友とつるんでデート中の若いカップルを車から引きずり出し、雑木林で惨殺した。なのに、悪友は死刑を免れ、彼は死刑判決を受けたのである。
「俺は殺していない、裁判をやり直してくれ」と訴えるマシュー。
神に仕えるヘレンは、彼の気持ちを汲み、審問会に上訴審を持ちかけるが、請求は却下され、死刑執行は確定してしまう。
その間、マシューはTVに出演してヒトラーを賛美し、釈放されたら政府の建物を爆破すると叫んだり、
「俺が悪いんじゃない。社会が悪い。法律が悪い。人種差別が悪い。あの雑木林にいたカップルが悪い」
とヘレンに毒づいたり。
しまいには、ヘレンも(私はこんな人間を助けようとしているのか・・)とウンザリしてしまうほどだ。
それでもヘレンは、事件への理解を深めるために、被害者の家庭を訪ねて歩く。
被害者少年の家庭は、息子の死の受け止め方をめぐって夫婦が対立、事件を忘れ、未来に希望を見出そうとする妻は、あくまで息子にこだわる夫を置いて、家を出て行った。
また被害者少女の両親は、今も犯人に激しい憎悪をつのらせ、マシューの弁護に当たるヘレンにも容赦ない言葉を浴びせ掛ける。
私は一体どうすれば良いのか。
何が彼らにとって救いになるのか。
ヘレンは苦しみながらも、『死刑』という現実に対峙し、マシューと被害者家族の救済に努める。
やがてマシューの死刑は確定し、死刑執行の日取りも決まる。
時間が迫る中、ヘレンは必至にマシューに訴えかける。
「友人として、私はあなたに尊厳ある死を迎えて欲しい。
あなたは、自分が死刑になったのは、社会のせい、クスリのせい、政府のせい、雑木林にいたカップルのせい、と言うけれど、“あなた自身”はどうなの。マシュー・ポンスレットという一人の人間としては?
あなたは、ご両親に、神様にしか癒せない悲しみを与えたわ。
あなたは死んだ二人の気持ちを考えたことがある?
残された家族の気持ちは?
二人が死んだことについて、責任は感じないの?」
すると、マシューは涙ながらに答える。
「今では自分のした事に責任を感じている……。夕べ、はじめて、消灯の後、ベッドの端にひざまずいて、二人の為に祈った」
「あなたは今、人としての誇りを得たわ。あなたは神の子よ、マシュー・ポンスレット」
「“神の子”なんて、はじめて言われた……。なあ、あんた、賛美歌を歌えるんだろう、歌ってくれよ」
ヘレンは鉄格子の向こうから、賛美歌を優しく歌って聞かせる。
「あなたが残されたご両親に出来る最善のことは、心の安らぎを願うことよ」
「俺は今まで、本当の愛がどんなものか知らずに来た。
女を本気で愛したことも無かった。
だが今、俺はやっと愛を知ることができた。……愛してくれて、ありがとう」
やがて時計が零時前を指すと、執行官はマシューに紙オムツを履かせ、両脇から抱えるようにして処刑室へと連れ出す。
『デッドマン・ウォーキング!(死刑囚が行くぞ)』
マシューは怯え、その場にへたり込むが、ヘレンはその肩に手を置き、聖書の一節を読んで聞かせる。その声に支えられるようにして、処刑室へ歩いて行くマシュー。
処刑は、被害者遺族らが見守る中、執り行われた。腕に薬液を注入する為の注射針を刺され、幅広のベルトで処刑用ベッドに固定されたマシューは、ガラス越しに刑を見守る被害者遺族らに言う。
「俺の死が、あなた方の慰めになるように」
スイッチ・オンと共に、シリンジの薬液が次々にマシューの体内に注入される。マシューは眠っているように見えるが、全身の筋肉は弛緩し、肺臓は破れ、やがて心停止へと至る。
ラストは、マシューの葬儀の場面で終わるが、墓地には被害者少女の父親の姿もあった。
「来て下さって、ありがとう」
微笑むヘレンに、父親は言う。
「それでもまだ、犯人への憎しみを忘れることはできない」
「……では努力しましょう」
望み通り、犯人が処刑され、この世から抹殺されても、被害者遺族と加害者家族の苦しみは続く。そして、マシューの死は、死刑という名の殺人であり、確かにひとりの人間の死に相違なかった。
映画は、遺族の救われない心情や家庭崩壊などの深刻な傷跡、世間から爪弾きにされる加害者家族の悲惨な状況、死刑制度の現実などを、決して感情に溺れることなく、公平な目で描いている。
死刑の是非については結論付けていないが、死刑執行を目前にした死刑囚とヘレンのやり取りを見れば、主張は一目瞭然だ。死刑によって犯人の命を絶つことが必ずしも遺族を救済し、犯人に罪を償わせるわけではない、という事を如実に物語っている。
殺された少女の両親は言う。
「歯科医の伯父は、娘の喉に詰まった泥を指で掻き出すまでは死刑廃止論者だった。だが今では死刑賛成派だ」
どんな奇麗事を並べていても、実際、自分の身内が理不尽な殺人に遭ったら、犯人を八つ裂きにしたいくらいの憎しみにかられるのが当然だ。
『人殺しは殺されて当然』というリクツでいけば、どんな殺人犯も死刑に値する。ならば、人権など全く無視して、遺族の手でなぶり殺しにすれば良い。衆目の中、被害者がされたと同じように、身を焼き、ナイフで刺し、ベルトで首を締めて、地中に埋めればいい。
だが、そうしないのは、彼もまた『人間』だからだ。たとえ法で報復が許可されても、実際にそうする遺族は少ないだろう。
それくらい、人ひとりの命を絶つということは重い事実なのだ。
刑の重軽はあくまで社会的な示しであって、根源的な救いにはならない。犯人が死刑になっても、遺族の悲しみは消えないし、死んだ人間も返ってこない。誰かが見せしめで死刑になっても、人殺しはまた現れるだろう。
大切なのは、『何をもって罰とするか』『何が遺族を救済するか』『真の改悛とは何か』を明確に打ち出すことである。
ただ刑の重軽だけを取り沙汰し、『罪』『罰』『改悛』『救済』といった本質的な問題に触れずに、法や制度だけを改正しても、根本的な問題は解決しないだろう。
ある人の話によると、例のバスジャック少年に乗客の女性が刺された時、側にいたもう一人の女性客は、自分も瀕死の重傷を負いながらも、その女性の傷口を必死に手で塞ぎ、『彼女が死んだら、少年は殺人犯になってしまう。少年の為にも、彼女を死なせてはならない』と踏ん張ったという。
もちろん、犯人には相当な罰を与えて欲しいが、全ての人がそれを最善策に考えている訳ではないということも知っておくべきだろう。
また、法だけでなく、被害者遺族のケアや加害者家族の保護、犯罪者予備軍らへの対策をどうするかという問題もある。これも本来なら社会的にサポートしなければならない、重要な課題である。「あなた方の望み通り、犯人を死刑にしましたよ」、それから後は知らん、というのでは、何の意味も無いではないか。
話は少年法改正に戻るが──
先日、某新聞に、少年刑と大人の刑の違いが掲載されていた。書いたのは、現役の弁護士さんである。
少年法を改正し、少年に大人と同じような刑罰を与え、大人の刑務所に入れても、刑期が終われば出所して終わりである。
その点、少年院だと、出所してからも面接や調査などのフォローがある。
刑期が終わっても、問題が生じれば、再び少年院に連れ戻すことが出来る。
“法的に拘束される”という点では、少年院に入れられる方がはるかに重いのだ。
もちろん、従来の少年法は、非公開で審問するなど、被害者家族の感情を無視してきた部分もある。そういう意味で見直しは必要である。
いたずらに刑を重くしても、少年が更生するわけではない・・・』
等々……考えさせられる内容だった。
私は、凶悪犯罪に走った少年を全面的に支援する訳ではないが、それでも『成人』の犯罪と混同してはならないと思う。
17歳の少年がバットで親を殺すのと、50歳の男が行きずりの少女をナイフで刺すのとは発生までの機序が違う。
また「目立ちたいから」と無差別に人を殺す『自己実現の為の殺人』と、親子間の激しい葛藤から発作的に凶行に走る『尊属殺人』も、根本から違う。
同じ少年犯罪でも、その一つ一つが全く違う意味合い、原因、機序を持つのだから、何もかも一緒くたに考えるのもおかしな話である。
誰でも、自分が17歳の頃を思い出してもらえば分かると思うが、大人のようでもまだまだ子供、情緒的にも極めて不安定で、自己制御する能力も未熟だったはずだ。
特に、今は青少年をしっかりサポートできる大人がいない。
社会情勢も良くはないし、大人からして間違いばかり犯している。
高度成長期やバブル期に青春時代を過ごした今の大人が17歳だった時とは、社会も文化も価値観も、何もかも違ってきているのだから、その感覚のズレから合わせていかなければ、いつまでたっても今の17歳世代の事など理解できないだろう。
右下がりの未来を見詰めて生きてゆかねばならない今の子供たちは、本当に気の毒に思うし、まだ問題が小さかった時に、良い大人にしっかりサポートしてもらえなかった事も残念に思う。そういう意味で、少年を大人と同じように裁くのは、それこそ大人の得手勝手──20年刑務所にぶち込もうが、死刑にしようが、少年も被害者も、誰も救われないような気がするのだが、いかがだろうか。
ともかく今は、「少年にも極刑を」「刑罰を重くせよ」の大合唱だが、一体、どれくらいの人が、実際の刑の内容を知った上で発言しているかは疑わしい。
何となく、『今の少年法は軽すぎる』『重くすれば懲らしめになる』みたいなノリで言っている部分もあるのではないだろうか。二年の刑期が長いか短いかは、本人にしか分からないものだ。
十年刑務所に入っても再犯を繰り返せば同じ事だし、二年の少年院服役で心が入れ替わることもあるかもしれない。
それから、少年にとって『最大の罰』とは何かを考えてみるといい。
私は、死刑より無視だと思う。
「お前のやった犯罪も、存在自体も、たいしたことないんだよ。誰もお前のことなんか興味ないし、お前のやった事なんか三日で忘れるんだよ」
そんな風に、少年の犯罪など、全国的に無視してやればいいのである。
なのにTVも新聞も大々的に取り上げ、あれこれ分析したり、評論したり。
そうやって、国民皆で注目し、大騒ぎするから、少年も誤った方向に自己顕示を求めるのではないか。
関心を持ちすぎるのも、一つの甘やかしだと私は思う。
『自己実現としての殺人』を作り出した(犯罪をワイドショーにしてしまった)、サカキバラ事件のフィーバーぶりこそ、非難されて然るべきだろう。
今は闇雲に改正を急ぐのではなく、まず少年刑の実際や少年院の機能、成人刑との差異などを明瞭にし(私も少年院がどんな所か知りたい)、実態を踏まえた上で、何が少年の更生と犯罪防止になるかをよくよく考えてもらいたい。
マシューの面会に来たヘレンに、刑務所専従の牧師は言う。
「ポンスレットの魂は罪を悔い改めることによってのみ救われる。あなたの使命はそのように導くことだ」
だが、こうした思想も、社会や文化にキリスト教という精神的基盤があっての話である。それをそのまま日本に持ち込んでも、日本の慣習や感性にはそぐわない。
それより、日本には、西洋社会におけるキリスト教のような精神的基盤が存在するのか。まずはそこから確立しないと、少年法はおろか、教育、政治、文化、福祉──あらゆる分野で、どんどん立ち遅れていくような気がする。
初稿: 2000/09/23
改悛の場面
処刑の場面
読者さまからのお便り
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■ デッドマン・ウォーキングを読んで 泉 ゆず様 ■
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感想を書かせていただきます。
まず・・・・確かに、死刑という刑罰に対して、考えさせられるところは多いです。時に、死刑と、無期懲役と、犯罪を犯してしまった本人にとってはより大きな「罰」なのだろうか、ということです。
成人であれば、自分の行為に対する責任をとるべきだとは思いますが、命を絶ってしまうことで、被害者やその家族の感情をなだめるどころか、本人を悔い改めさせることにもならないとしたら、一体何の意味があるのだろうか・・・・と思うこともあります。
むしろ、生きている限り罰せられつづける方が、責任の重さを実感させられるのではないか、などと思うこともあります。死んでしまえば、苦痛はなくなるわけですから・・・・。残酷な考え方かもしれません。
それに、法治国家が公然と殺人を行うことにも、抵抗があります。罰することと、命を奪うことが同列に語られてはいけないのではないかと・・・
うまく説明できませんが・・・・考えます。
次に、少年法についてですが。少年法の理念は、「罰する」ことではなく「教育」することにあります。その理念からいけば、死刑や無期懲役がないのは当然のことです。社会に復帰させることを前提に定められたのが少年法なのですから。
阿月さんもかかれていたように、少年時代の人間はやはり未熟です。判断能力が低いとは限らないと思いますが、敏感さや自制力、視野も、成人とはやはり異なっています。
しかし、凶悪事件が頻発する中で、今の少年法改正論議は、少年法の「教育」を重んじる立場を「罰する」方へシフトさせていこうとしているのだと思います。
私は、それはちょっと性急すぎるのではないかと思うのですが・・・・。
なぜなら、少年犯罪が頻発する背景には、いろいろな社会的要素が関わってきています。
さまざまな糸が絡み合った結果として表面に出てきたものが、凶悪犯罪であったわけで、犯罪を犯した本人のせいではないとは言いませんが、その背後にもいろいろと解決すべき問題があるのです。
それを、最終的に犯罪を犯した本人さえ厳しく罰すれば解決すると考えるのは、短絡的過ぎると思います。
私には、大人たちの尻拭いを子供たちにさせることになるような気がしてならないのです。
確かに、少年が犯罪を犯してもたいした罪にならない、というのを逆手にとって、やりたい放題の子供たちもいるかもしれませんが、ここで大人がうろたえていては、子供たちを不安に陥れるだけだと思います。
非行に走った子供たちを、精神発達障害のある人たちの施設で働かせてみた、という話を聞いたことがあります。
そこで、障害者の人たちから頼りにされることで、自分の存在意義を見出し、いいほうに向かっていった子供たちがいたという話でした。
犯罪に走ってしまう子供たちは、犯罪を犯す子供たちは、自分が愛されているとか、必要にされているとか、そういう感覚をもてないでいることがあるのではないかと思います。
彼らは、自分の存在意義、いるべき場所がみつけられないでいるのではないでしょうか?
(いや、大人になってもなかなか見つからないものですが)。
とすれば、大人が子供を守らないと公言することは、逆効果なのではないのでしょうか?
情けないことに、ことは重大なのに、では具体的にどうすればいいのか分かりません。しかし、大人は毅然と、子供の成長する権利を守りつづけるという態度を保ち続けるべきだと思います。
もちろん、彼等にはしかるべき教育的措置を行うべきだとは思いますが。
ことはそれほど簡単ではないでしょう。
今の社会では大人が大人になりきれていない、あるいは、大人が自身をもてないでいることが、子供たちを不安にさせている要因の一つのような気がします。大人の一人としては、他人事ではないのですがね。
大人が尊大である必要も、完全無欠である必要もないと思いますが、弱いところも持った、間違いを犯すこともある普通の人間であることを認めつつ、信ずるところのある生き方をしたいものだと・・・・結局は個人的な生き方論に走ってしまいますが・・・・思います。
右下がりの未来・・・・確かにそうです。
別に、だからって未来が真っ暗なわけでもなんでもないと思います。右下がりの未来には、それなりの喜び、楽しみがあるはずだと、今の大人が思えないところに問題があるのではないでしょうか?
今の社会、価値基準があまりにも単一化していて、「それぞれの」幸せっていうのが見えなくなっているのだと思います。
不安をかきたてるような記事ばかり書くマスコミもマスコミですが、それに踊らされる受けて側もあまりに主体性がなさ過ぎるのです。
・・・・・って、書いていくと、だんだん話が違うほうに言ってしまいそうです。
くどくどと、長い文章を書いてしまってごめんなさい。
ともかく、阿月さんのMGを読んで、そんなことを考えたのでありました。
今後の内容も期待しています。
☆.... ☆....☆....☆....☆....
泉さん。ご丁寧な感想を、本当にありがとうございました。
私としては、『少年法の「教育」を重んじる立場を「罰する」方へシフトさせていこうとしている』という箇所が印象的でした。
突き詰めれば、問題の根本は「教育」にある、というのは多くの人が感じていることだと思います。
でも、「誰がどう教育するか」となると、たちまち何も言えなくなってしまうんですよね。
泉さんもおっしゃるように、「子供を教育すべき大人自身が、教育者たるに必要な資質を欠いている」ということが一番問題という気がしてなりません。
子供が凶悪化したというよりは、『大人が幼稚化した』ことが、最大の原因ではないでしょうか。
泉さんも、いろんな思いや考えをお持ちでしょうし、それをまた自分の身近な所に還元していって下さい。
頑張ってくださいね☆
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■ デッドマン・ウォーキング感銘を受けました 富田 正通様 ■
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はじめまして
他所でデッドマン・ウォーキングを拝見いたしました。
私はキリスト教の牧師をしておりますので、考えさせられました。
<罪と罰>、<悪行と悔い改め>、<怒りと許し>は原罪を背負って社会生活を営んでいる人間存在の根源にかかわる問題の一つですね。
牧師として、今の社会現象にどう対処すべきか悩んでいます。
17歳問題は多くの評論家が意見を述べていますが、いくら解説をしても問題解決にならないでしょう。
わたしは、今の青少年に対しては無策、無力ですが、幼児に対して働きかけています。
それは、平成元年に公布された幼稚園教育要領の改正が17歳問題の遠因だと考えているからです。
それまでの教師主導の教育から、幼児主体の教育に改正された時に教育現場で大きな混乱が生じました。
教育ではなく野放し状態になったのです。
文部省は混乱を修復するため、一昨年教育要領を再改正しました。
複数の改正事項と追加項目が含まれているために、また公立の施設で宗教教育が行えないために改正の主眼がぼけてしまっていますが、絶対的な規範を身に付けること
社会人となるためにソーシャルノームスとモーリースを身に付けること。
他者を尊重すること、生命の尊厳さを体験することなどです。
死刑論について、これからも宗教者として取り組んで行きたいと考えますので、お許しいただけましたら当方のホームページに掲載させていただきたく存じます。
幼稚園のページではなく、教会のページに新たな場所作る所存です。
ぜひ、ホームページをご覧頂いてお考えくだされば幸甚に存じます。
『ようこそ! 福井の幼稚園へ!』
福井聖三一幼稚園のHP
http://www2.interbroad.or.jp/trinityk/
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私は、西洋美術や音楽、文学がとても好きで、作品への理解を深めるために聖書やキリスト教関連の本を読み出したのですが、その時、一番痛感したのは、現代は『父親不在』の時代であるということですね。
つまり、人間に道を示す『父なるもの』=『神(お祈りの時は、Father
と呼びかけますよね)』が欠如している為、行くべき道が見えず、闇に迷ってしまうのだ、と。
いつの時代にも、人間に道を示すのは、父親の役目です。
それが無くなれば、道に迷うのは当たり前です。
十九世紀末、ドイツの哲学者ニーチェは言いました。
『神は死んだ、俺たちが神を殺したのだ』と。
だけど今、私たちは、私たちが殺した神様を再び求めています。それを無くしては、正しく生きていけないことを知ったからです。
私は、高橋さんには、子供たちの良き父親であって欲しいなあと思うのですよ。
今は母親みたいな父親が多いから、とりわけ強くそう願います。
教育については、教育審議会の分科会報告『日本人へ』でお馴染みの曽野綾子さんが、良い著書を何冊か執筆しておられますので、そちらの方も是非参考になさってください。
・絶望からの出発―私の実感的教育論 (講談社文庫 そ 1-8)
・誰のために愛するか―すべてを賭けて生きる才覚 (角川文庫 緑 301-7)
・悲しくて明るい場所 (光文社文庫)
ヘレン・プレジャンの原作『デッドマン・ウォーキング』より
付記 2018/06/12
ヘレン・プレジャン(シスター・ヘレン)は、アメリカ南部の都市バトン・ルージュの中流・白人家庭に生まれ育ち、メダイル聖ジョセフ修道女会のメンバーとして貧困地区で活動していたが、死刑囚の精神アドヴァイザー(英語ではスピリチュアル・アドヴァイザー。宗教的あるいは教会のアドヴァイザーの意味もある)となってから、死刑制度反対の運動を展開している。
この著書がドキュメントとして優れているのは、死刑制度反対の主張だけを連ねるのではなく、彼女の心の葛藤が赤裸々に書かれているうえ、自分の行動や考え方に誤りがあった場合に、「それは私の誤りでした」と素直に記されている点だ――と、原作『デッドマン・ウォーキング』のあとがきにある。
実際、正義とも誤りともつかない、非常に難しい問題において、永久に交わることのない死刑囚と遺族感情の間を行ったり来たりし、どうにか万人の納得いく答を見つけ出そうとするシスター・ヘレンの尽力、および、寛容の心は、なみなみならぬものだ。
日本では今なお死刑制度が取り入れられており、凶悪事件が起きる度、「死刑にせよ」という声が堂々とまかり通る。
まかり通る――というのは、それが正義と信じて疑わないこと。
「死んで当然」という結論の元に話が進んでいく、ということだ。
これは一見正しいようで、非常に浅はかではないだろうか。
なぜなら、人の生き死にが、何の疑いもなく決定され、それを万人が了承しているからである。
そして、多くの人は、死刑の実際を知らずに賛成している。それはどんな場合も外に伝わることはないし、死刑囚の声に耳が傾けられることもない。せいぜい冤罪が疑われるケースぐらい。
にもかかわらず、私たちは何を根拠に死刑に賛成するのか……と問われたら、誰も明快な答はないのではないだろうか。ただ単に「死んで当然」と。
本書によると、アメリカのルイジアナ州では、長い間絞首刑が行われていたが、1940年より、「人道にかなっていて効率的である」との判断から電気椅子での処刑が法的に決められたこと。なぜなら、「絞首刑の場合は失敗することがある。死刑囚の首に縄を巻くとき結び目が正しい位置になければ、死に至るまでに時間もかかる。またひどいときには、落ちる距離と体重の釣り合いがとれてなくて首がもげ落ちることがあります」とのこと。
だからといって、電気椅子による処刑が安楽でない事実は次の通り。
「電気技術が発達した今日では、必要量を発電させ、即時に死に至らしめるに十分な電気を供給することが容易である。即時ゆえに痛みは感じない」と。
ケムラーの処刑に立ち会った『ニュー・ワールド』の記者はこんな報告を書いています。
「電流が彼の身体に流れていたのは十五秒間。頭につけていた電極が取り外されたとき、突然、彼の胸が隆起した。彼を縛っていたのは革ひもがぴんと張っていた。唇は紫色に変色し、口から吹き出したアワが顔中に飛んでいる。彼は生きていた」
刑務所長、医師、看守、誰もが言葉を失った。もう一度電流を流すという悲痛な叫び声があがった……肉と髪の毛の焼ける臭いが立ちこめ、一瞬、脊椎の下部から青い炎がでた。このとき流された電流の時間は四分間……」
これは1890年のことです。
1985年10月16日、インディアナ州で行われたウィリアム・ヴァンディヴァーの処刑にかかった時間は17分、電気の充電は5回。
1990年5月5日、フロリダ州でジェシー・タフェロが処刑される。彼の頭を覆っていた頭巾が燃えて50センチもの炎が上がり、2000ボルトの電流を2分間流すという基準を無視して執行人が一時中断させる。彼の頭が燃えてしまいスポンジ状になったと記録される。
何年にもわたって電気処刑に立ち会った者による生々しいそれらの描写を、ウィリアム・J・ブレナンは、グラス対ルイジアナ州事件における反対意見で引用している。
「手は赤くなり、やがて白くなった。首に巻かれたコードは鋼のバンドのように突き出ていた……囚人の手足、指、つま先、顔が激しくねじ曲がる……流れる電流の力は強烈で、ときたま眼球が飛び出す……囚人は何度も排尿、排便し、血を吐き、吹き出す……身体が萌えるときもある……ベーコンをフライパンで焼く音と、肉の焼けた甘い匂いが立ちこめる……処刑後の検死では、検死官が内臓が熱くて手では触られないと言った……死体はひどく焼け焦げていた」
一般的には、2000ボルトの電流を流せば気を失い、痛みを感じずに死ねるといわれています。しかしイギリスのサリー大学で応用神経学合同研究室の室長を務めるハロルド・ヒルマン博士の意見は異なります。博士は1983年から1990年にかけてフロリダ州とアラバマ州で電気処刑された13人の検死解剖を研究し、完全に意識がなくなるわけではないので、電気による処刑は「非常な苦痛を伴う」との結論に至ったのです。そして、即死にはかなり強力な電流が脳に到達しなければならないと主張します。電気処刑による囚人の検死報告書から、博士は皮膚が焼け焦げているのに比べ、脳へのダメージが少ないことを発見したのです。
博士の主張です。
「「大量の電流が流されたら筋肉は刺激を受け萎縮し始める。そのため電流がわずかなあいだ流れただけでも死刑囚は動けなくなるが、心臓の鼓動は止まるわけではない。電気処刑でこのようなことが多く起こっている。死刑囚が動かなくなったらその人間の感覚が麻痺していると考えるのは誤りである。その人間が動かないのは筋肉が最大限に萎縮したからにすぎないのだ」
そんな中、ヘレンは、クリスチャンとして次のように決意する。
これは犠牲者を裏切る行為でしょうか? 両方の立場に立つべきでしょうか?
死刑制度に関しては、自分に置き換えて考えてはいけないという信念を持っています。もし私の母親や兄弟のメリー・アンやルイが残酷な方法で殺されたら、はたしてその犯人に対して同条を寄せるでしょうか。
もし私の愛する人が殺されたら、怒りと喪失感、悲しみと無力感が死ぬまでつきまとうことでしょう。ただ、そういった不幸にあったときどうするかと予想するのは傲慢なのかもしれません。私はイエス・キリストが歩んだのと同じ道を辿りたいと思っているのですが、そのイエス・キリストは、憎しみに憎しみを、暴力に暴力をもって対処してはならないと説いておられます。
私もそのように言える強さがほしいと祈っています。
もちろん、これはヘレン自身の決意であって、皆に同じように求めているわけではない。
しかしながら、『死刑制度は真の解決にはならない』という強い思いのもと、死刑反対の立場で訴えかけていくことになる。
そんなヘレンが引き受けたのが死刑囚のエルモ・パトリック・ソニア(映画ではマシュー・ポンスレット)。
パトリックは、公園でデート中のカップル、デヴィッドとロレッタを森の奥深くに連れ去り、22口径のライフル銃で殺害する。その非情な手口から、パトリックは死刑を言い渡されるが、死刑は重すぎると、再審理および死刑中止の申し出をしている最中だった。
パトリックの要請を受けて、ヘレンは援助する為に刑務所を訪れるが、当然、風当たりは冷たい。
「彼が犯した罪は許しがたいものです。だからといって彼を殺していいことにはならないでしょう」
また別の事件の遺族は、ヘレンの死刑反対の立場を知って、
と憎悪を露わにする。
遺族の反感も十分理解しながらも、ヘレンは死刑囚と辛抱強く面会を続け、何が救いになるかを模索する。
「あなた次第よ」と私は答えました。「最後の言葉を憎しみの言葉にしたいのなら。あなたが怒っている気持ちはよく分かるわ。あなたが死んでいくところを見にくる人に、呪いと憎しみの言葉をぶつけたい気持ちもよく分かるわ。もし私があなたの立場だったら、同じことをするかもしれない。でもそれは本当のあなたかしら。憎しみや恨みを持ちながら死ぬのか、心を解放し、愛をしった人間として死ぬのか。その選択は容易なものではないけれども、あなた次第なのよ」
そして私は、デヴィッドとロレッタの両親がどれほど苦しみ悲しんできたか、あなたはまた新たなる悲しみを彼らに与えるつもりなのかと聞きました。パットは背を丸め、膝に肘をあててタバコを吸いながら考えこんでいます」
ヘレンはまた司法関係者に次のように問いかける。
反対派の要点は、死刑=人ひとりを死なせたところで、遺族の悲しみが癒えるわけでもなければ、凶悪犯罪がゼロになるわけでもない。
そうと分かって、なぜ死刑にするのか。
その絶対必要性を明快に答えられる人があるだろうか。
それについて、上記の関係者は次のように意見する。
人の死に立ち会う人たちが礼儀正しくあることを求められているからといって、殺される人の権利が守られているとは思いません。
「パトリックはひどく苦しみましたよ、フェルプスさん。私には、1900ボルトの電流を流されて肉体的に彼がどう感じたのかは分かりませんが、彼が感情的にも、心理的にも苦しんだことは確かです――死ぬ用意をし、死を待ち、夢でも死を見たのです。アムネスティ・インターナショナルは、拷問とは、無防備の人間に与える、非情に肉体的、精神的な攻撃だと定義しています。それが、パトリック・ソニアに起こったことはないでしょうか、フェルプスさん?」
フェルプスはうなずきました。
「最近の人は、復讐を必要とします。それは復讐なのです――『目には目を』、痛みには痛みを、苦痛には苦痛をです」
また、ある遺族は、次のようにコメントする。
ヴァーノンは殺人を防止するもっと効果的な方法をずっと考えていると言いました。「どうするかというと、テレビのゴールデンタイムにやつらを電気椅子にかけるんだ。そうしなきゃならん、電気椅子で死ぬところをやつらに見せる、そうだな、夜の八時くらいに、それで殺人を犯そうとしているやつが考え直すんじゃないか」
私は死刑を行うことは、他の人と同じように州だって人を殺せることを見せるだけかもしれないと言いました。そこから人々が学ぶことは、誰かとの間にひどい問題を抱えたときは相手を殺すしかないということだけだと。
ヴァーノンは私が冗談を言っているに違いないと言い、私たちは慣れ親しんだ役割をまた演じました。死刑についてお互い一騎打ちを始めたのです。
私は殺人を犯そうと考えている人と殺人犯とは同じではないと言いました。
「それは彼らを十分に殺してないからだ」とヴァーノンは言い返しました。「もっと頻繁にもっと続けて死刑をするべきなんだ。例外なしに。――本当にやらなきゃならんのは、やつらが被害者にやったことをそのままやつらにやるべきなんだ。ウィリーは17回刺されるべきだったんだ。それが当然なんだ」
それでもなお、ヘレンは確言する。
今後、どれほど議論を重ねても、何が正しく、何が救いとなるか、これという答は永久に見つからないだろう。
あるいは、「答を探す」という行為そのものが、答えであり、償いなのかもしれない。
何故なら、これは人間の領分を超えた問題だからだ。
シスター・ヘレンは、単なる反対屋と異なり、思想的に相反する遺族会にも積極的に出席し、その気持ちに寄り添う努力をしている。遺族に死刑反対を言い聞かせるのではなく、遺族の憎悪もありのままに受け止め、共に祈る道だ。
日本でも近く死刑が執行されそうだが、「それで何を達成できるのか」と問われたら、多くの人は答に詰まるのではないか。
宗教団体による凶悪犯罪は、ワイドショー的に騒がれるだけで、教育にも、政治にも、教訓は活かせなかった。それどころか、事件そのものが風化しかけているのに、今さら死刑にして、どんな効果があるのか、多分、忘却で終わるのではないだろうか。
内情がまったく伝わらないだけに、何とも言及しがたいが、何が怖いといえば、「死んで当然」という空気があることだ。
そして、それは、遺族感情にもとづけば、まったくその通りかもしれないが、本当にそれが社会的にも人道的にも正しい判断なのか、私たちは常に心に留めおく必要があるだろう。
なぜなら、司法判断というのは、私たちの社会の根幹を成す指針であり、道理であり、絶対的な力だからだ。

刑務官という立場から死刑制度や死刑囚の置かれた立場をリアルに描く良書。
私も「犯人と被害者」という構図でしか考えたことがなかったが、「刑を執行する人」というのも確かに存在し、その人たちが任務と割り切っていると思ったら大間違いである。
決して同情一色ではなく、「法」という観点から真実を見出そうとするスタンスがいい。
死刑の実際を描いたマンガも怖かった・・
子どもを襲い、残酷に殺害。そして死刑が執行された宮崎勤と宅間守。また、確定囚として拘置されている小林薫。彼らは取り調べでも裁判でも謝罪をいっさい口にせず、あるいはむしろ積極的に死刑になることを希望した。
では、彼らにとって死とは何なのか。その凶行は、特殊な人間による特殊な犯罪だったのか。極刑をもって犯罪者を裁くとは、一体どういうことなのか。
彼らと長期間交流し「肉声」を世に発信してきたジャーナリストが、残忍で、強烈な事件のインパクトゆえに見過ごされてきた、彼らに共通する「闇と真実」に迫る。
「存置」か「廃止」か、ではない。描かれるのは、徹底的にリアルな風景だけ。裁判員制度の導入で貴方が得るもの、それは、どこかの誰かを死刑にする可能性。加害者本人や被害者遺族、刑務官、教誨師、検察庁幹部…。それぞれの口の端から零れる懊悩と逡巡、そして、自らの手で死刑を確定させた男からの手紙に書かれる酷薄な論理。さまざまな現場の声を拾うことによって再現される、執行のボタンを押すという「作業」にまつわる、あるがままのリアル。
Photo:http://www.movieforums.com/reviews/902987-dead-man-walking.html