聖書 本

心情の美しさ ~文学者に恋をして・江川卓の『謎とき 罪と罰』

人生には運命的な出会いが三つある。

一つ目は、天職。

二つ目は、良師。

三つ目は、作品。

特に三つ目においては、青春期の出会いが一生を決めることもある。

江川卓氏にとっても、ドストエフスキーとの出会いはそうだったのだろう。

ロシアの迷宮のような傑作『罪と罰』の世界を解説する「謎とき 罪と罰」の冒頭に記された「はじめに」が好きなので、ここに紹介。

はじめに――『謎とき』とは?

ドスとフスキーの『罪と罰』は、実にさまざまな読み方のできる小説である。どの年齢で、どのように四でも、それなりのおもしろさと感銘を味わうことができる。この小説が世界文学の傑作中の傑作として、これほどに長い生命力と人気を保っている秘密も、まずはこのあたりに求められるべきだろう。

私自身の読書歴をふりかえっても、たしかにそのとおりだったと思う。中学三年で初めてこの小説を手にしたとき、私はもっぱら探偵小説的なサスペンスにつられて、この大長編を一気に読みとおした。

<中略>

犯人の大学生ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹の白痴女リザヴェータを斧で殺害する場面のなまなましさ、そのあと、不安と焦燥におびえながら、偶然のたすけで、首尾よく犯行現場を逃げ出すあたりでは、文字どおり手に汗を握らされた。そして、ふしぎなことに、私は凶悪犯人のラスコーリニコフに強い共感と愛着をおぼえた。犯人が「善玉」で、探偵役のポルフィーリィ予審判事が「悪玉」であるようにも思えた。そこで、ポルフィーリィが意地の悪い巧妙なやり口で、じわじわと犯人を追いつめていく役になると、私はただもうはらはらして、愛するラスコーリニコフになんとか頑張ってほしいと、そればかり念じていたものだ。

<中略>

戦後になると、当時の時代風潮のせいもあったのだろうか、社会派的な読み方に強く傾斜した一時期があった。酔いどれの失職官吏マルメラードフの存在が、俄然大きく浮かびあがってきた。

「だって人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな」――このせりふは、十九世紀ロシアばかりでなく、現代日本の状況にも通ずる普遍的な真理のように思われた。そしてラスコーリニコフの犯行そのものも、たんなる殺人行為ではなく、時代のそうした閉塞状況を突き破るための積極的な行動と見えてきた。

大学を出て、銀座の小さな広告会社に勤めた当時、私が好んで通った飲み屋のカウンターは、マルメラードフの行きつけの酒場と同じように、「ウォッカとキュウリの漬汁」ではないが、バクダン焼酎とラーメンの汁で、いつもべとべとしていた。その汚らしいカウンターに肘をついて、私は自身のささやかなドストエフスキー体験をあたためた。

残念なことに、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」と叫ぶことができるような対象――「薄倖の少女」ソーニャにめぐり会うことはできなかったけれど。

私が高校時代の同級生なら、きっと江川っちに恋してたと思うよ。

それも切ない片想い。

両思いは要らない。

両思いは、『始まりの終わり』。

恋でも何でもないから。

*

現代は、誰もがSNSやブログで手軽に心情吐露できる時代。

それはそれで興味深いが、自分語りもほどほどにしないと、かえって自分を見失う。

とりわけ、ギャラリーなど持つと、いつしか自分の真情からかけ離れ、ギャラリーに期待される自分を演じるようになる。

そうなれば、心情吐露というより、芸人だ。

芸人になると、自身に正直になるより、周囲に受けることを優先するようになる。

それが楽しいなら、それでもいいけれど、そうなると本来の自分は何処に行くのか、多くの人は、いずれ苦しくなって、止めざるをえなくなると思うけれど。

自分の感情を高く保ちたければ、周りに対しても、自分自身に対しても、「謎」の部分を大事にした方がいい。

何でも見せてしまうと、すぐに飽きられるし、自分でも自分の事が分からないくらいの方が、自分とも付き合いやすい。

土台、人間のことなど、まるく理解できる方がどうかしてるのだから。

その点、ネット以前の著述家は、そうそう心情を吐露する機会もなく、まして不特定多数に向けて「己を語る」となれば、選ばれた人の特権だった。
またその機会も毎日ではなく、数ヶ月に一度、時には、生涯に一度(一冊)だけ。

だからこそ、生涯にただ一度の機会とスペースに、研ぎ澄まされた魂の一文、あるいは、その人柄がにじみ出るような、味わい深い一節が残された。
毎日、とめどなく自分語りを垂れ流す駄文とは違う。
二十マスにぴたりとはまる「この一言」の美しさだ。

『謎とき 罪と罰』の場合、「残念なことに、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」と叫ぶことができるような対象――「薄倖の少女」ソーニャにめぐり会うことはできなかったけれど」の一文に、著者の青春と人柄の全てを感じる。あっちの誌面、こっちのブログで多くを語らなくても、どんな想いで若い時代を過ごしてきたか、何となく目に浮かぶのだ。

私が江川の卓ちゃんを好きなのも、一人の作家、一つの作品と、共に生きる幸せを知っている人だからと思う。

現実の友達や恋人や周りの賞賛などなくてもいい。

ぶっちゃけ、誰に理解されなくてもいい。

一冊の本を心友に生きた青春時代。

またその一冊に導かれて道を開いたあの劇的な瞬間。

運命というなら、この一冊――みたいな出会いと感動があって、今がある。

夢もやる気もあるけれど、先行きが見えず、あれもこれも手探りで進むしかない若い日々、行きつけの飲み屋と『罪と罰』の世界観を重ねながら、「なんちゃってラスコーリニコフ」の気分を味わい、マルメラードフの孤独と絶望感に心を揺さぶられることもある。ああ、そんなボクに、ソーニャみたいな女性との出会いはなかったな……という心情の吐露が、何とも純朴で、親しみを覚えるんだな。ここだけに書いてあるから、尚更に。

現実社会でも喋りは敬遠されるのと一緒。

他人の胸の内も日常的に目にすれば、すぐに飽きるし、よく知れば愛情が増すというものでもない。

それより、生涯にただ一度、ただ一冊の序文に綴られた「この一文」に、より美しい心情を感じる。

そして、文学者に恋するのは、いつでもそんな瞬間なのだ。

作家はあれこれ喋りすぎるけど、文学者は、作家と読者の中間にいて、自分自身は決して出しゃばらないから。

それでいて、言葉の端々に思想や人柄を感じさせる。

今、そこになくても、その言葉を通して、作家や作品のことをより深く知ることができる。

それは本当に文学を本当に愛した人でないと分からない、夢と現実の架け橋みたいなもの。

誰の目を通した世界であれ、私たちは時代を超え、言語を超えて、一つの想い、一つの物語を共有することができるのだ。

私も江川っちのドストエフスキー観を通して、いろんなことを教えてもらった。私一人では到底知り得なかったことを、たくさん。言葉では語り尽くせないほどに。

そして、その想いは何処へ行くのかといえば、私にも分からない。

次の持ち主、あるいは、未来の読者。

ただ一つ確かなのは、私の青春時代、残念なことに、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」という一文を共有できるような対象――江川っちのような文学青年には巡り会えなかった、ということだ。

そんなわけで、私も酒と脂でベタベタしたテーブルに頬杖をつきながら、こう呟こう。

「だって人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな」

文学上の片想いは辛い。

どれほど求めても、この世で直に語り合うことは決してできないから。

 謎とき『罪と罰』 (新潮選書) (単行本)
 著者  江川 卓
 定価  ¥ 1,512
 中古 36点 & 新品  ¥ 347 から
 5つ星のうち 3.9 (8 件のカスタマーレビュー)

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