なぜ子供は「死にたい」と言うのか
自殺について考える時、「大人の自殺」と「子供の自殺」は分けて考えなければなりません。
大人の自殺は、「お金がない」「仕事がない」「安心して住める場所がない」「頼れる家族も知人もない」「健康でもない」等々、社会的要因が非常に大きなウェイトを占めます。
失業、離婚、孤絶、破産といった社会的要因が心の危機を引き起こし、自死へと駆り立てる場合、要因を取り除くには、医療、福祉、行政、司法といった、複数分野の連携プレーが求められ、励ましや慰めでどうにかなるものではありません。具体的に生活を保障し、就職や入院、補助金申請や社会参加など、非常に多くのプロセスを必要とします。
それに対して、子供の自殺は、生活がかかってない分、比較的簡単に環境を変えることができます。心の負担となっている塾やお稽古をやめる、いじめグループから引き離す、学外の児童支援サークルに参加する、家族のライフスタイルを見直す(親の勤務や食生活など)、等々。
親の虐待や生活苦が引き金になっている場合は、親の人生も含めて支援が必要な為、そう簡単にはいきませんが、両親の経済状態も安定し、目立って社会的な問題もない場合、家庭内の工夫で変えられることも多いので、大人の自殺に比べると、まだ手を差し伸べやすいところがあります。
言うなれば、周りの大人が本気を出せば、助けられる可能性は非常に高いわけですね。
大人の自殺は社会的要因が深く関わってくる為、仕事を変えるのも、借金を返済するのも、そう簡単にはいきませんけども。
そこで考えて欲しいのが、大人の「死にたい」と子供の「死にたい」は微妙にニュアンスが違う、ということです。
大人の場合、「死にたい」という言葉は、かなりの部分で社会生活に根ざしたものであり、過労、失業、離婚、病気など、自分の努力でどうにも変えられない要因がトリガーとなって、人生に絶望し、自己無価値感や自責の念から自己崩壊に向かいますけど、子供の「死にたい」は、どちらかといえば、SOSに近いものがあるんですね。
子供は大人と違って処世の知恵もありませんし、自分の感情や思考を表現する為の語彙も欠いています。
語彙の少ない二歳児が、「お腹が空いた」も「自分でやりたい」も「眠たい」も、何でもかんでも「ママの馬鹿」か「イヤ!」で表現して、泣いてばたばたするしかないように、小学生や中学生の子供も、大人みたいに、ぺらぺら言葉で表現する術を持ちません。
とりわけ、今はコミュニケーションを苦手とする子供が増えていますから、納得いかない時も、矛盾を感じた時も、「うざい」「ムカつく」「死ね」の三語しかなかったりします。
大人に比べて、まだまだ思考力や語彙に乏しい子供が、自分の辛い状況や救いを求める気持ちを、どうやって言葉に表せばいいのか。
そこで便利な言葉が「死にたい」です。
この一言に、怒りも、絶望も、苦痛も、全てを集約することができます。
大人の「死にたい」がとことん自己消滅に向かっていくのに対し、子供の「死にたい」は周りの大人に対して開かれている部分があります。
いわば、「今すぐ、この生き地獄から、僕を救い出してくれ」という悲鳴です。
考えてもみて下さい。
多くの子供にとって、『世界』といえば、学校と家庭だけです。そこに塾やスポーツクラブが加わることもありますが、基本的には学校と家庭の延長、いわば、どこにも逃げ場はなく、辛くても、苦しくても、そこに居続けなければなりません。
大人みたいに、いざとなれば転職する、離縁する、という選択肢もなく、さながら鎖に繋がれた奴隷みたいに、親や教師や周りの人間関係に束縛され続けます。
そんな子供が、死ぬほど辛いことがあった時、どうやって逃げ出せばいいのでしょう?
18歳の子供なら、荷物をまとめて、家を飛び出すこともできますが、8歳や10歳の子供なら、そうはいきません。
一歩家を出て、親の保護から離れたら、今夜寝る場所も、明日食べる物もなくなってしまうのですから。
どれほど理不尽に感じても、周りの大人に従う他なく、学校にも通い続けなければならない。
そんな状況で、死ぬほど苦しいことがあった時、あなたならどう考えるでしょう。
『死にたい』
死んで、苦しみから逃れたい。
死ぬ以外に、この生き地獄から逃れる方法はない。
それが全てではないでしょうか。
子供が「死にたい」と口にするからといって、決して命を粗末にしているわけではありません。
命が大事なことぐらい、幼稚園児にも分かります。
にもかかわらず、「死にたい」というのは、「逃げたい」に他なりません。
では、何から逃げたいのか。