『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第1編 『ある一家の由来』 より
(1) フョードル・カラマーゾフ
長大な物語は、カラマーゾフ一家の主、フョードル・カラマーゾフのエピソードから始まる。
後に、身近な誰かに裏切られ、悲劇の主人公となる、田舎の小金持ちだ。
彼はまた筋金入りの好色であり、その時々、不幸な女に目を付けては、次々に孕ませ、不幸の種を蒔く。
もちろん、父親としての責任感など皆無であり、それぞれ異なる腹から生まれた三人の息子が、曲がりなりにも立派に成長したのが不思議なくらいだ。
三人の名は、長男・ドミートリィ(ミーチャ)。次男・イワン。三男・アレクセイ(アリョーシャ)という。
三人は、まさに、天界、人界、冥界に運命付けられた申し子であり、父親の金銭問題を発端に、悲劇の渦に巻き込まれる。
だが、不思議と悲壮感はない。
それは、なんだかんだで、彼等が一つの血で結ばれた家族だからだろう。
この泥臭さと温もりが、カラマーゾフの魅力であり、永遠のロングセラーたる所以だろう。
同じく、さくらんぼのジャムの香りがする江川氏の訳文にも感謝。
父のフョードルは、いまからちょうど十三年前、悲劇的な謎めいた最期をとげたことで、一時はなかなか評判になった(いや、いまでも当地ではまだ噂にのぼる)男だが、その事件のことはいずれしかるべき場所で、お話したい。
いまはとりあえずこの≪地主≫(生涯を通じて持村で暮らすことはほとんどなかったのに、当地ではこう呼んでいた)については、だいぶ変わった部類の、だが、それでいてけっこうあちこちで見かけるタイプの男だったとだけ言っておこう。
つまり、たんに鼻つまみの放蕩者というばかりでなく、同時に常識はずれのでたらめな男でもあるのだが、同じくでたらめといっても、自分の財産上の諸雑務は実にみごとに処理してのける。
ただし、どうやらそのほかにはなんの取り柄もないといったタイプの人間なのである。
事実、フョードル・パーヴロヴィチはほとんど無一物で出発し、地主とは名ばかりのほんの小地主で、よその家で食事にありついたり、居候にころがりこんだりする機会ばかりねらっていたが、いざ死んでみると、現金で十万リーブルもの金を残していた。
そのくせ彼は生涯を通じて、当郡きってのでたらめきわまる常識はずれの一人として押し通してしまったのである。
念のため繰り返すが、これは頭が悪いというのとはちがう。だいたいがこういう常識はずれの大半は、なかなかに頭もきれ、抜け目もないものである。
――要するにこれは、でたらめとしか言いようのないもので、それも一種独特の、いかにも国民的、ロシア的なでたらめさなのである。(11P)
ドストエフスキーが生きた時代はロシア革命前夜。
フランス革命、そして産業革命による、急速な民主化、工業化がロシアにも広がっていった時代。
おおよその流れは次の通り。
年表
1979年 フランス革命
1815年 ナポレオン没後、ウィーン条約(ヨーロッパにおける国際秩序の取り決め)
1818年 カール・マルクス誕生
1821年 ドストエフスキー誕生
1830年 イギリスの産業革命が最盛期
1840年 ドイツにも産業革命が波及し、急ピッチで工業化が進む
以降 欧州・ロシアに広範に広がる
1844年 ニーチェ誕生
1845年 ドストエフスキー『貧しき人々』(24歳)が注目を集める。
1848年 マルクス&エンゲルス共著『共産党宣言』が発表(マルクス30歳)
1867年 マルクス『資本論』の第一巻出版(49歳)
1879年 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(58歳)をロシア報知に連載開始。
1881年 ドストエフスキー死去(59歳) ニーチェ『曙光』を発表(37歳)
1905年 ロシア「血の日曜日」事件(労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。ロシア第一革命のきっかけとなった。)
1917年1月 ペトログラードで「血の日曜日」事件を記念する5万人の労働者によるストライキとデモ
1917年3月 ニコライ二世の退位
1917年6月 ペトログラードにて『第一回 全ロシア・ソヴィエト大会』が開催
1917年10月 レーニンひきいるボリシェヴィキ単独政府<人民委員会議>が誕生
1922年 ソビエト社会主義共和国連邦
ロシア的なでたらめというのは、これといった指針も持たず、右に左に迷走する社会の象徴かと。
このでたらめな男は、愛も責任感もない結婚を繰り返し、次々に三人の息子をもうけて、不幸の種を蒔く。
長男のドミートリィは先妻の子で、あとの二人、イワンとアレクセイが後妻の子である。
フョードルの妻(アデライーダ・イワーノヴナ)は、かなり裕福な名門の貴族で、やはり当郡の地主であったミウーソフ家の出であった。
いったいどういうめぐり合わせで、持参金つきの、おまけに美人の、しかも、そのうえ、いまの世代にはもうめずらしくもなんともないが、一世代ほど前にもそろそろはしりの出はじめていた、才気煥発な当世風のお嬢さんが、当時みなから≪愚図のひょうろく≫などと呼ばれていたつまらぬ男との結婚などに踏み切れたのか、そのわけはくどくどと説明しないことにする。
<中略>
アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソワの行動もこれと同じことで、明らかに外来の風潮にかぶれた結果であり、これまた囚われた思考の焦燥のあらわれにほかならなかった。
おそらく彼女は女性の独立を地で行き、社会の規範や、一門、家族の圧政に反旗をひるがえしたい気持にかられたのだろう。そして得手勝手な空想のおもむくまま、実際にはたんなる腹黒い道化にしかすぎないフョードルのことを、ほんの一瞬間にもせよ、いまでこそ居候に身を落としているが、実は、万事が進歩へと向かいつつあるこの一大転換期にあって、もっとも勇気のある、もっともシニカルな男性のひとりに相違ない、と思い込んでしまったのだろう。(12P)
駆け落ちの直後から自分が夫に対して軽蔑以外のなんの感情も持ちあわせていないことを、即座に見抜いてしまった。(13P)
美しく、才気煥発な名門の令嬢が、威勢だけはよい田舎の好色親父を、田中角栄かドナルド・トランプみたいに思い込んだのが運の尽き。
ちと冷静に考えれば、これがどれほどリスキーな結婚か察しがつくだろうに、思い込みの激しいアデライーダは、フョードルのことを大人物と錯覚し、不幸な結婚に突っ走る。
「外来の風潮にかぶれた」というのは、ロシアにも入り込んできた西欧的な価値観であり、これは後のロシア革命に繋がっていく。
また、アデライーダの激しやすい人物像は、息子ドミートリィに受け継がれ、夫婦間の金の悶着を、次は父と子で再現することになる。
フョードルは、二万五千ルーブリにのぼる持参金をすべて巻き上げ、それでもまだ飽き足らず、「小さな持ち村」と「立派な町の邸宅」も、「なにか適当な証書を作成して自分名義に書き換えてやろう」と欲望を燃やす。
夫婦は金銭をめぐって、つかみ合いの喧嘩を始め、とうとう夫に愛想が尽きたアデライーダは、三歳になる長男のミーチャ(ドミートリィ)をフョードルの手に残し、貧乏な神学校出身の教師と駆け落ちしてしまう。
その後、アデライーダは、「どこかの屋根裏部屋でぽっくり急死」。
注釈によると、「大願成就」はルカ復員省第二章二十九節に出てくる表現で、原義は「いまこそ去らせてくださいます」。エルサレムのシメオンという人が、キリストを見るまでは死ぬことはないとのお告げを受けてその日を待ちわびていたが、ある日≪神殿≫にはいると、そこに幼いイエスが両親に連れられて来たので、彼は神をたてて、「主よ、いまこそあなたのしもべを安らかに去らせてくださいます」と言った。転じて「大願成就」の意で使われる。
「キリストの御姿を目にする」という人生最大の願いが叶ったことで、シメオンは、もういつ死んでも構わないほどの至福を感じた、という喩え。
フョードルも、うるさい妻が死んで、なぜそれほどに狂喜したかといえば、『憎い』というより、良心の重石だったからだろう。
相手がこの世にある限り、不幸にした事実は消えず、良心も疼く。
これでやっと良心の呵責から逃れられる。バンザイ……と思ったが、罪などそうそう簡単に消えるものではなく、結局、おいおい泣きじゃくることになる。
ただし、アデライーダの為ではなく、自分自身の為に。
その時、長男のミーチャ(ドミートリィ)は3歳。
父からも母からも厄介払いされ、従僕のグリゴーリィの手元に置かれる。
後の、息子ミーチャとの金の確執は、母アデライーダの怨念かもしれないね。
因果は巡る。
フョードルの人物像を、ドストエフスキーは次の一文で締めくくっている。
だいたいが人間というものは、たとえ悪人であっても、われわれが一般に考えるよりは、はるかに素朴で純真なものである。いや、そういうわれわれ自身だって、そうなのだ。
ここでいう「悪人」は、冷酷無比ではなく、下品、欲深、大洞吹き、野卑、無教養な人物を指す。
一見、救いようもなく感じるが、欲深い人間は、欲望に振り回されているだけであって(あるいは自制心がない)、心の芯まで汚れきっているわけではない――といったところ。
ある意味、自分自身の感情に素直だから、欲望に振り回されるわけで、“純真”といえば、純真である。
分かりやすくいえば、我が侭な子供がそのまま大人になった感じ。
出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓