前回、『運命の女神は意地悪な顔でやって来て、勇者を試す』と書いた。
いつか本で読んだ。「人間に解けない問題は与えられない」と。
難問、難問、また難問……
それこそ血を吐くような思いで、これらの難問を解いてきた。
時には、投げたくなったこともあるし、天に唾して、世の中恨みまくったこともある。
それでもなお、希望を失わずに生きてこれたのは、過去に多くの人間が、同じような目に会い、そのすべてを克服して、自分の仕事を成し遂げてきた事を知っているからだ。
病床ではいつも、聴覚を無くしたベートーヴェンのことを思ったし、失恋した時は、ルー・ザロメに振られて「ツァラトゥストラ」を書いたニーチェのことを思った。
仕事が辛い時には、インドのスラム街を一人裸足で歩き回っていたマザー・テレサのことを思ったし、八方塞がりになった時には、晩年のレンブラントを思った。
耐えられるから「来る」んだと、いつもいつも思ってた。
――私は見所があるから「来る」んだとも。
そうして振り返ってみると、全てのことに意味が有った。
意地悪なフォルトゥナに受けて立ったら、いろんな悦びに巡り合った。
そして、今の『私』がここに居る。
全ての物事は無常であり、人生が禍福の繰り返しであることも、出会った人間とはいつか必ず別れねばならないことも、もうすでに知ってしまったから、恐くない。
こ~んな状況にあっても、いつかまた新しい未来に踏み出し、未だ見ぬ人に出会うことを知ってるから、絶望しない。
「安らぎ」というものは、ふかふかのベッドや温かい暖炉の側にあると思っていたけど、本当はいろんな物事を「知る心」の向こう側にあるのだなあ、と最近気付いた。
なんで悟れば、物事に動じなくなるのか不思議でならなかったけど、それはきっとこういう事なのかもしれない。
十年前なら、確実にヘコんでたワ(笑)。
でもいろいろ「知った」今は、けっこう余裕かましてる。
もっと知れば、もう何にも恐くなくなるだろう。
そして行くとこまで行き着いたら、人間も限りなく神様に近づけるのかもしれない。
初稿: 99/05/26 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より