体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと。

体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと。

「創造的に生きる」とは、絵を描いたり、詩を書いたりすることではありません。

無の平原から、意味のある何かを立ち上げることです。

より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。

どんなに小さくても、昨日よりは今日、今日よりは明日、少しずつでも歩みを進め、善きものを積み上げることを創造的な生き方と言います。

– MORGENROODより

引用元

自分を恥じない多くの人は、「今の自分が好きになれない」と悩んでいるものです。好きになれない原因は、「理想通りにならない」「欲しいものが手に入らない」「周りと比べて劣っている」といった不満や不安が根底にあります。それが、つのりつのって[…]

創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を解き放ってくれる

「創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を解き放ってくれる」の源泉は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』(手塚富雄)の『そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者がはじめて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのであると』。

だが、その続きは「そしてわたしは人間たちに、われらの古い講座を、またおよそあの古い誤信が坐している場所をくつがえすことを命じた。わたしはかれらに、かれらの徳の大教師、聖者、詩人、世界救済者に笑いを浴びせることを命じた」と続くので、必ずしも、純粋に「創造」を悦ぶ気持ちで書いたわけではない。

だとしても、『創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である』という言葉はよい。

多くの場合、人間の苦悩は、他者の物差しによって、無価値巻や虚無感を植え付けられるところから始まる。世の道徳やキリスト教なども例外ではない。

そうではなく、自ら生の価値を見出し、己の内側に人生の指針を求めよ――というのが、本作の意味するところだ。

また、ニーチェのいう善悪とは、罪の観念ではなく、人生にとって価値のあるもの、ないもの、と捉えると分かりやすい。

うっかりすると、個人が有罪・無罪を決定して構わないと受け取ってしまうが、人生における善悪とは、自己無価値巻や虚無感からもたらされる無為、怨念、攻撃、怠惰、といった負の感情であり、社会の裁判官になることではない。

いわばニーチェの「創造的」の真髄は、価値観の再構築と生き直しである。

思い込みを捨て、頭の中を真っ新な更地にして、今日から一つずつ、積み上げていく。

それはさながら、無の平原に人生という建築物を打ち建てるが如くだ。

自分自身と真剣に向き合い、日々の慣習を打ち破る勇気があれば、我々はいつでも新しい人生を手に入れることができるのである。

体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと。

Tags:

詩想と引用の関連記事

秋 孤独

「死にたい」の反語は「生きろ」ではなく、「そんなあなたの側に居たい」。傷ついた子供に「頑張って生きるのよ」と言葉で励ますのは簡単ですが、絶望しきった人間に、生きる力など、そうそう湧いてくるものではありません。まして死んだ親への愛着に対し、慰める術もないというのが現実ではないでしょうか。

赤ちゃん

ユキちゃんの手。 生まれた時は、鶏の足みたいにシワシワで、 皮膚なんか今にも破けそうなぐらい薄かったのに、 今はおまんじゅうみたいにプリプリしているよ。 あんまり柔らかくて、温かいので、 いつも両のゲンコツにプチュプチュとキスすると、 甘い […]

銀河

『善行を積めば、あの世にとこしえの幸せが用意されている』というファンタジーは、名も無き善人にとって、最後に残された砦といえる。 現世で栄耀栄華を味わっている人は、あるかどうかも知れない『あの世の幸福』とやらに何の興味も持たないだろうし、それ […]