ある土葬の思い出

ある田舎の『土葬』の思い出  ~現代のシンプル葬と葬儀の本質~

ある土葬の思い出

ある田舎の『土葬』の思い出

先日、同僚のお父さんが亡くなった。

十数年ぶりにお通夜に弔問したら、一昔前とはすっかり様変わりしているのに驚いた。業者さんによる司会、運行、お茶サービス、「ただ今より、**様のご入場でございます」という坊さん入場アナウンスなどなど、披露宴を悲しみの色にアレンジしたような、不思議なセレモニーだった。

もちろん、悲しみに暮れる遺族や、何から手を付けていいか分からない親族に代わって、業者さんが何もかも準備し、取り仕切ってくれるのは有り難いものだ。おかしな振る舞いをして、参列者の顰蹙をかうこともない。

反面、一分の乱れもない『セレモニー』としての葬儀を見ていると、どこか本質から遠ざかっているような気がしてならない。

まるで機内のスチュワーデスのように弔問客の前に等間隔で並び、「本日は、お忙しい中、ご弔問下さいまして誠に有り難うございます」と、遺族とは何の関係もない業者さんに一斉にお辞儀をされても、どこか空々しいように感じられるからだ。もっとも、業者さんはそれが仕事であり、「弔問客の前で粗相したくない」という喪主側にとっては有り難い存在に違いないのだけれど。

そこでふと思い出したのが、土葬の思い出だ。

二十年前、私の母方の田舎は土葬だった。(1970年代後半)

伯父が亡くなった時、その有り様に本当に驚いた。

本家の跡取りだった事もあり、その葬儀は「式」というより「祭り」。

まさに一族と村の衆が集う一大行事だった。

通夜の日、うちの一家が到着すると、まず初めに奥の一室に通され、伯父の亡骸と対面させられた。

伯父は、白い着物を着せられ、白い布団に横たわっていた。

死後三日目だったので、何となくヘンな臭いがし、姉いわく「紫色の斑点があった」。

夕方には納棺。

土葬だから、棺は漬け物桶を大きくしたようなもの。

亡骸の額には白い三角巾が付けられ(まさしく昔のユ~レイそのもの)、胡座をかくように棺の中に座らせる。

だが、その前に、不思議な儀式があった。

皆で亡骸を取り囲み、半紙でこすりながら、お浄めするのである。

祖母は泣きながら「ここもさすってやって、あそこもさすってやって」と周りの者に言っていた。

私も見よう見真似で半紙を手に取り、冷たくなった足や手の先をカサカサとさすり続けた。

それが終わると、なぜか裸足で家の周りを何周も歩かされ(忌みを払うらしい)、家に入る前にホースの水で足を洗われた。よく冷えた秋の日だったせいか、足が真っ赤になって、叔母にさすってもらったのを覚えている。

その後、亡骸は男達の手によって運ばれ、納棺された。

死んだ肉体は、意識が無いからずっしりと重い。

何人もの男達が汗だくになりながら、やっとの思いで納棺すると、蓋が閉められ、釘が打ちつけられた。

夜になると、一族と村の衆を集めての大宴会。

広間には、寿司、煮物、焼き魚、酒などのご馳走が所狭しと並べられ、次々と訪れる弔問客の胃袋に収まってゆく。

子供たちは、お供えのお菓子を頬張りながら部屋の隅で遊び、男達は酒を飲みながら故人の思い出話や世間話に花を咲かせる。

そして、女達は子供に注意を払いながら、一時も手を止めることなく料理を作り、酒を運ぶのだ。

そんな宴が一晩中、続く。

宴の最中には、わあわあ泣き出す者もあれば、酒が回って他人に絡む者もある。

家の裏手に人魂が出たと言って子供を怖がらせる叔父もあれば、妙な宴会芸を披露して笑わせる従兄もある。

私と姉は、二階の居間に引きこもり、こたつにもぐって、夢中で漫画を読んでいた(この時、夢中で読破したのが、車田正美の『リングにかけろ』)。

その傍らで、寡婦となった伯母が一人ぐったりと横たわっていたが、当時は人の悲しみを推し量る術もなく、「伯母ちゃん、そんな所で寝てたら、風邪ひくえ」ぐらいなものだった。

そして伯母も、漫画片手にキャッキャ笑う私と姉に「ちゃんとお風呂入ったんか」「お腹すいたら、言いや」という感じで、悲しみを露わにすることはなかった。もしかしたら、宴に顔を出して、気丈な顔を作るより、無邪気な子供の側に居た方が慰めになったのかもしれない。

そうして、夜通しの宴が終わり、いよいよ本葬になると、仰々しい格好の坊さんがやって来て、読経した。

その時はさすがに厳粛な雰囲気だったが、私と姉は時々顔を見合わせながら、「にゃ~にゃ~にゃ~ん」みたいな読経の響きに笑いを洩らしていたものだ。

その後、男達は修験者みたいな白装束に身を包むと、漬け物桶みたいな棺に紐をかけた。そして二本の棒を通して担ぎ上げると、坊さんを先頭に墓地に向かって歩き出した。

遺族はその後ろに二列になって続き、村の人々が沿道に並んでそれを見送る。

その間も、坊さんはお経を読み、手にしたお香をたやさない。

「ちり~んちり~ん」と鐘が鳴り響く中、棺桶を担いだ行列があぜ道を踏み、河を横切る。

これぞまさしく『野辺送り』。

途中すれ違う人々も、自ずと道を譲り、葬列に手を合わせてくれる。

葬列というよりは、この世を離れた別世界にゆっくり歩いて行くようだった。

そうして墓地に到着すると、男達がスコップで穴を掘り、大きな墓穴を掘る。

再びお経が読まれ、皆が手を合わせると、いよいよ棺は土の奥深くに収められ、一人一人がその上から土をかけてゆく。

棺がすっかり収まる頃には、その部分が山のように盛り上がり、生々しい気さえする。

傍らには、もうすっかり平たくなった古い墓もあり、人間の命がいかに土に還ってゆくかということを物語っているようだった。

葬儀が終わり、お供えのお菓子の残りをお土産の袋いっぱいに詰めてもらって、ほくほくだった私と姉は、帰りの車の中で恐ろしい話を聞かされた。

宴も一段落し、皆が広間で雑魚寝し始めた時、伯父の棺から「ゴトッ」という音が聞こえたというのである。

「それ、亡骸がバランス崩して、棺にぶつかっただけちゃうの」と姉は反論したが、父と母は、「いいや、棺の中にきちきちに収められている亡骸が右に左に崩れるわけがない。あれは棺の中で何かが動いた音や。お前らが漫画ばっかり読んでるから、伯父さんが怒って、棺を叩いたんや」。

おまけに、母は、窓の外を火の玉が飛んでいったと言う。私と姉は怖くて、しばらく夜中にトイレに行けなかった。

それでも伯父の葬式は、滅多に会わない人と会い、飲めや食えやで盛り上がり、故人の思い出話に花を咲かせ、一族の血の繋がりと村の絆を改めて実感させてくれる、一大イベントだった。喪主でさえ、どこの誰か思い出せない、遠戚の子がやって来るのも葬式なら、数年前、つまらない事で諍いを起こし、音信不通になっていた親族と久々に顔を合わせて、意地も恨みも水に流すのが葬式だから。(ドラマで、赤の他人が遠戚の振りをして通夜のご馳走を食らいにくる話があるけども、納得)

「村八分の残り二分は、火事と葬式」と言うが、葬儀が永訣の儀式であると同時に結束の場でもあることを、昔の人は重んじてきたのではないだろうか。

転じて、現代。

「**さんのお父さんが亡くなった」という知らせが職場中を駆けめぐると、すぐさま、「葬儀場はどこ」「誰の名前で弔電を打つ」「誰と誰が弔問する」「香典はいくら包む」「喪服はスーツか着物か」という話が取り交わされる。いかに形を繕うかという点で。

もちろん、気持ちを形に表すことは大切だが、形ばかり追い求めるのも余り美しくはない。

立派に飾り立てられた祭壇や、隙のない身のこなしより、堪えようのない涙や嗚咽の方がより心を打つものだから。

洗練された現代の葬儀を見ながら、私はぼんやりと自分の葬式について考えた。私は愛する人に本物の涙をこぼしてもらえたら、それでいい。その後、酒でも飲みながら、皆で賑やかにやって欲しい。そして、小さな骨のかけらになったら、暗いじめじめした墓になど葬らず、大好きな南の海に、ば~っと派手に撒いて欲しい。

とにかく、人を煩わせる事はしたくないし、形だけのものは欲しくないというのが正直な気持ち。

死ぬも生きるも一度なら、実のあるものを手にして逝きたいものだ。

初稿: 2001年1月25日

葬式とは何か

追記: 2020/04/28

昨今、経済的な問題もあり、身内だけで軽く済ませるシンプルな葬儀が増えているようです。

一昔前なら、「故人を蔑ろにしている」「親族に失礼」といった理由で、「ちゃんとした葬式」が重視されたものですが、現代はそこまで人付き合いがあるわけでもなく、むしろ「誰にも知られずに」「他人を煩わせたくない」という傾向が強いですから、シンプル葬が増えるのも納得ですね。

外国の葬式みたいに、めいめいが好きな格好で立ち寄って(黒系統を着るというマナーはあるが、日本のようにガチガチのフォーマル喪服は存在しない)、花と祈りを捧げれば、それで事足りるならともかく、日本の場合は、とにかく形、形で、「粗相のないように」が第一ですから。

しかし、一方で、地縁や血縁からどんどん遠ざかっていくのも、淋しい話ではないかと思います。

二十年以上も顔を合わせてなかった従兄と再会するのも葬式なら、「うちの親族って、こんなにたくさん居たんだ」を実感するのも葬式ですし。

確かに、人の死は痛ましいですが、葬式にはやはり『祭り』の側面があって、ある意味、故人が自分の命と引き換えに、縁者を一堂に集め、絆を再確認させてくれる貴重な機会でもあるからです。

葬儀を簡略化すれば、当事者には楽だけども、その分、社会における『孤』も深まり、だんだん周りと縁が切れていく負の側面もあるかもしれません。

「自分の血を分けた縁者が、知らない間に死んでた」というのも、本当に人間社会として正しい在り方なのかなと思いますしね。

そう考えると、「故人や遺族に失礼のないように」という気持ちで始まった『形』(香典や喪服など)が、逆に、人を孤立させる要因になっていると言えなくもありません。

本来、葬式というのは、故人に別れを告げたい人が気軽に立ち寄り、わーわー泣いたり、遺族と抱き合ったり、故人の好きなものをお墓に添えて、気持ちに踏ん切りを付けるための儀式であって、体面を繕う為のセレモニーではないのですから。追悼の気持ちで参列したのに、誰某から、あの人の喪服は失礼だの、あのお参りの仕方はなってないだの、気持ちとは無関係なところでゴチャゴチャ文句をつけられたら、そりゃあ、葬儀不要論に傾きますよ。面倒くさい。

今後、経済的問題もあり、葬儀もいっそう簡略化されていくのでしょうけど、その前に、自分が死んだ時、心の底から泣いてくれる人が居るのか。

「さよなら銀河鉄道999」のメーテルとメタルメナみたいな会話で締めながら、生まれる時も、死ぬ時も、形、形で面倒くさい日本社会がもう少し生きやすいものになったらな、と願っています。

ちなみに『漬け物桶のような棺桶』って、コレです。

映画『沈黙』(原作・遠藤周作)より。

シンガーソングライターの小椋佳は定年まで銀行員を勤め上げた。
人の心に触れる曲を作るには、人間社会との関わりが不可欠であることを知っていたからだ。
売れっ子でも、だんだん作品がつまらなくなるのは、内輪の世界に閉じてしまうから。
パートやボランティアや結婚生活等で人間社会の勉強を続けているアーティストは長続きする。

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