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もう二度と飢えに泣かない ~スカーレットの心の強さ~ 映画『風と共に去りぬ』より

目次

【文芸コラム】 もう二度と飢えに泣かない

以下、1998年の原稿

不朽の名作『風と共に去りぬ』は第1部と第2部から構成されている。

エンディングとしては、スカーレットの最後のセリフ、『Tomorrow is another day(邦訳:明日に望みを託して)』が圧倒的に有名だが、私は、焼け落ちたタラの廃墟から立ち上がり、『もう二度と飢えに泣きません』と誓う第1部の方が好きだ。

南北戦争の終盤、炎に包まれるアトランタから決死の脱出を試み、ようやく故郷タラに帰りついたものの、愛するアシュレイの家は無惨に焼け落ち、彼の両親もすでにこの世の人ではなかった。

スカーレットの家は、北軍に司令部として使われたこともあって、ようやくその姿を留めていたが、財産も、食糧も、家畜も何もかも北軍に奪われ、彼女に残されたものは、母の死のショックで廃人のようになってしまった年老いた父親と無力な二人の妹、半病人のメラニーと赤ん坊だけであった。

食べる物もなく、力になってくれる人もなく、途方に暮れながら庭を歩いていると、土に埋もれた、ひからびた大根が目に入る。

ひもじくて、やるせないスカーレットは、貪るようにそれを口にするが、あまりの不味さに吐き出してしまう。

そして一度は突っ伏し、激しく号泣するが、ここで生来の強さが頭をもたげ、彼女を再び奮い立たせるのだ。

「As God is my witness, I will never be hungry」
(神様を証人に誓う、もう二度と飢えに泣きません)

家族にも飢えさせません。

その為には、騙し、盗み、人をも殺すでしょう。

私は神様に誓う、もう二度と飢えに泣きません!

それまでスカーレットは親の庇護のもとにぬくぬくと育ち、愛や結婚の何たるかも知らず、アシュレイという偶像を盲目的に追いかける、箱入りのお嬢様だった。

しかし、戦争で何もかも失い、彼女の大きな保護者だった父親さえ病気で当てにならないと分かると、自立した一人の女として目覚め、現実の人生と闘い始める。

「その為には、騙し、盗み、人をも殺すでしょう」という言葉は、まともに取れば非人道的な表現ではあるが、ここで宣言されているのは、子供じみた世界観との訣別である。

彼女は、現実世界に打ちひしがれて、子供のように自らを哀れむことよりも、世の不条理をしっかと見据え、勝ち抜くことを選んだのである。

泣いても、その頬に涙を残さないスカーレット。

地に這うような絶望を味わっても、何度でも立ち上がる誇り高さと、愛に関しては愚かしいほどの鈍感さが、スカーレットの魅力を永遠のものにしている。

「タラに帰って、レットを取り戻す方法を考えましょう。Tomorrow is another day(明日に望みを託して)」とにっこり微笑む彼女に、「敗北」の二文字は無いのだ。


【初稿】 メルマガ「Clari de Lune」より

「風と共に去りぬ」第一部ラストのスカーレットのセリフは、

≪ I'll never be hungry again ≫

「二度と飢えに泣きません」でした。

前回、I'll never cry for hungry って書いてたのは誤りです。

ごめんなさい。m(__)m

ところで、あの大作の「一番最初に書かれた一文」って、どこの箇所かご存知ですか?

スカーレットとレットの別れの場面に出てくる

『彼女は二人の男を愛しながら、ついにその二人とも理解しなかった』

だそうです。

不幸にして別れた前夫への想いと、再婚した夫への想い……つまり自分自身の言葉が、あの大作の萌芽となったわけですね。

私は、【初めにスカーレットありき】の作品――キャラクター先導型――だと思っていたので、ちょっと意外でした。
(作者の意図とは関係なしにキャラクターが意志を発し、作品を引っ張っていくパターン )

マーガレット・ミッチェルいわく、物語の主題は『Survive』――生き残る――ということ。

風が一瞬にしてすべてを打ち崩しても、スカーレットのように立ち上がるか、地面に突っ伏していつまでも泣き続けるか、人間のとる道は二つに一つです。

社会の情勢は、これからまだまだ厳しくなるでしょう。

人間も、生き残る気力のある者とない者がふるいにかけられ、どんどん淘汰されていくかもしれません。

ある意味で、21世紀は、誰もが餌にありついて生きて行けた20世紀と違い、「個」の力が要求される、より厳しい時代になるのではないかと思います。

究極、自分の財産とは、「知」に他なりません。

知識の有無や、成績の良し悪しではなく、物事を感じ、考え、創造していく「知」の力が、人間を引っ張っていくように思います。

たとえ家財を失い、仕事を失い、健康を失っても、一度自分の身に備わった「知」だけは絶対に無くなりません。

また他人が奪うこともできません。

見栄を張らなければ、人間は「知」を武器に、どんな状況下でも生き抜いていけるのです。

人が我が身を嘆いたり、投げやりになったりするのは、結局、"見栄っ張り"だからだと思います。
栄えある過去や他人の成功と自分を見比べて、"勝った・負けた"の比較をするから、ミジメになるんですよ。
つまらんプライドなんか捨てて、裸の自分に絶対的な自信をもてば、何をやっても生きていけるような気がするのだけど……

原作も映画も、ラストのセリフは、

Tomorrow is another day

直訳すれば、『明日は、また別の日』 。

日本語翻訳では『明日はまた明日の陽が照るのだから』、映画の字幕では、『明日に望みを託して』なんですよね。

私は従姉から、『明日は明日の風が吹く』だよ、と教えられていたので、原文を知った時には、"全然ちがうがな~"と、ちょっとムカついた。

翻訳も、言葉一つで全然印象が違ってくるから責任重大ですけど、とてもやり甲斐のある仕事ですよね。

映画なんか観てても、英語のセリフと、戸田奈津子ちゃんの字幕が微妙に違ってて、≪そうか、なっちゃんはそう解釈するか≫って感じで、けっこう面白いです。

私は中学生の頃、子供向けの英訳絵本【幸福な王子(作・オスカー・ワイルド)】に挑戦したことがあるけど、英語には英語の味があって、簡単に日本語に置き換えられるものではないなあと実感しました。

一番、印象的だったのは、宝石も金箔も、何もかも貧しい人に分け与え、みずぼらしい銅像になってしまったにもかかわらず、王子の心が『bright』になったという箇所でした。

直訳すれば、「明るい」「輝く」「晴れやかな」という意味ですが、その『bright』という言葉に触れた時、胸の中が鮮やかに照らされるような感動を受けたのです。

それは日本語ではとても言い表せない「眩しさ」でした。

王子とツバメのやり取りは、すべて夜の中にありました。

語り合うのも『夜』、貧しい人々に財宝を届けるのも『夜』――『夜』の意味する所は、「王子の悲しみと償い」、「南国に焦がれるツバメの淋しい希望と密かな友情」、そして、「下町に暮らす人々の悲しみと苦しみ」ではないかと思います。

だけど、『bright』の一言で、夜は一瞬にして光に変わりました。

自分のすべてを貧しい人々に分け与えた王子の心と、自分の希望を先延ばししても王子に仕えたツバメの心、そして恵みを受けた人々の心が、『夜』の暗闇から解き放たれ、光の中へ導かれていったような印象を受けたのです。

オスカー・ワイルドが書きたかった「この一言」は、もっと別の言葉だったかもしれないけれど、私には『bright』が物語の花のように感じられました。

そして、その時思ったのです。

「やっぱり外国の作品は原語で読まないとダメだなあ」って。

良い訳もたくさんあるけれど、やっぱり作品の本質に近づこうと思ったら、原語で言葉の響きとニュアンスを味あわないと……。

そう思って、フランス語の習得に挑戦したことがあったけど、あまりの難しさに途中で投げました。

あれは独学ではかなりシンドイです。

マスターしたら、ランボーやプレヴェールの詩をかっこよく朗読したかったのだけど……。

また機会があれば、習いに行きたいですね。あとドイツ語も。

Tomorrow is another day.――

皆さんなら、どう訳しますか?

記:1999/05/30

【感動のラスト】 希望はあれど、愛は終わった

こちらが、感動のラスト。

メラニーが息を引き取り、アシュレイの腕の中で泣き崩れるスカーレットを見て、レット・バトラーの愛はついに醒めてしまいます。

スカーレットは、その時に、「アシュレイが本当に愛しているのはメラニーであって、私じゃなかったんだ、私はずっと幻を追ってきたんだわ」とようやく目を覚まし、自分にとって本当に大切なのはレットだということに気が付きますが、彼の姿を追って家に帰った時には既に遅し。

レットは彼女と別れる為に荷造りを始めていました。

彼を何とか引き留めようと、スカーレットは、「今、やっと分かったの、あなたを愛しているわ」と告げますが、レットの気持ちは変わりません。

最後、玄関口で、「あなたが居なくなったら、私はどうすればいいの」と泣きすがるスカーレットに対し、「Frankly,my dear,I don't give a damn(オレの知ったことか)」と言い捨てて、出て行くレット。
(damnは、永遠の罰とか、地獄に落とすといった、非常に激しい意味があります。公開前、このセリフを入れるかどうか、制作サイドはずいぶん迷ったそうです)

茫然とし、階段に突っ伏すスカーレットに聞こえてくるのは、父やアシュレイの言葉。
「タラこそ、君の命だ」
(原作では、第1部のエンディングの前、戦争で何もかも失って、力無くベッドに横たわるスカーレットの耳に、彼女の誇り高きアイルランドの祖先が幻の声となって彼女を励ます場面があります。映画には出てきませんが、原作を読めば、この二つの場面が密接に繋がっていることが分かります)

すると、ここでも生来の強さが頭をもたげて、「そうよ、タラに帰りましょう。帰ってから、レットを取り戻す方法を考えましょう」と希望に瞳を輝かせるスカーレット。

Tomorrow is another day.

この名セリフで幕を閉じます。

近年、アメリカの作家によって、続編『スカーレット』が公開されましたが、私は読んでないです。
(最近になって、『レット・バトラー』という第二の続編も登場しましたが・・)
私の中では、スカーレットの物語はここで終わりなので。
レットとの愛も終わったんじゃないかな……というのが、淋しいけれど、私の結論です。

『風と共に去りぬ』に関する書籍など

いまだ色褪せない不朽の名作。
第二次大戦下、慰安に向かうアメリカ軍機を撃ち落とした日本軍は、機内に残されていた二本のフィルムを持ち帰り、上層部だけで極秘に上映した。
その一本が「風と共に去りぬ」で、もう一本がウォルト・ディズニーの「ファンタジア」だった。
この作品を見た日本軍の上層部は「この戦争は負けた」と覚悟したという。
日本が食べる物もなく、着る物もなく、瀕死の状態で戦っている一方で、アメリカはこんな華麗な映画を作って、アトランタ炎上のシーンを撮影するために、ガンガン石油を使っていたのだから。
そんなエピソードが今に語り継がれるほど完成度の高い豪華大作。

風と共に去りぬ [Blu-ray]
出演者  ビビアン・リー (出演), クラーク・ゲーブル (出演), オリビア・デ・ハビランド (出演), レスリー・ハワード (出演), ビクター・フレミング (監督)
監督  
定価  ¥5,500
中古 3点 & 新品  ¥5,500 から

言わずとしれた世界名作文学の金字塔。
「聖書」についで、世界で最も読まれている歴史的ベストセラー。
映画だけでも十分楽しいが、原作を読めば、さらに踏み込んだ登場人物の心理や人間関係、歴史的背景や当時の価値観が理解できる。
ファンでなくても一度は読むべき名作。
現代新訳もリリースされているが、私はクラシックな大久保 康雄 訳をおすすめします。

 風と共に去りぬ (1) (新潮文庫) (文庫)
 著者  マーガレット・ミッチェル (著), Margaret Mitchell (原著), 大久保 康雄 (翻訳), 竹内 道之助 (翻訳)
 定価  ¥1
 中古 87点 & 新品   から

より作品への理解を深めたいなら、オリジナルの英文を紹介しているこちらがおすすめ。
『細かいシーンの解説やシーンごとの会話が良く説明されてあり、この本を読み終えた後に、映画を見ると、ヴィヴィアンリーや、クラークゲーブルの演技力の高さを改めて感じ取ることができる。(Amazon.comより)
映画のシナリオからは味わえない、マーガレット・ミッチェルの本物の魅力に触れてみて。

 英語でひもとく『風と共に去りぬ』 (単行本)
 著者  大井 龍 (著)
 定価  ¥1,320
 中古 17点 & 新品  ¥412 から

初稿:1999/05/30

『風と共に去りぬ』上映禁止に寄せて : 『差別的表現』と『差別を表現すること』は異なる

言わずと知れた文芸大作、そして映画史に残る名作である。

これはTVドキュメンタリーで知ったエピソードだが、第二次大戦中、墜落した米軍の飛行機からこの映画のフィルムを回収した日本軍は、上層部だけで極秘に上映した時、日本が物資も尽きて、生きるか死ぬかで戦っている時に、海の向こうのアメリカでは、こんな豪華な映画を制作し(実際、第二次大戦中に制作されている)、アトランタ炎上のシーンでは、ガソリンをがんがん燃やしているのを見て、敗戦を覚悟したという。(コメンテーターの話では、飛行機は米軍キャンプの慰安に向かう途中だったらしい)

そして、21世紀。

『地球が回り続ける限り、風と共に去りぬも世界のどこかで上映され続ける』と言われた名作中の名作は、今、「人種差別的である」という理由から、上映禁止やプロテストの対象となっている。

確かに、映画も、原作も、今、読み返せば、特定の人種を侮蔑するような台詞や描写が多い。

映画の制作秘話では、黒人奴隷プリシーを演じた女優さんが、「いかにもバカのように振る舞わなければならないので、辛かった」とコメントしておられたのが印象に残っている。

しかし、原作も、映画も、じっくり目を通せば、よく解るが、この作品は、かつてアメリカ南部で実際に行われていた奴隷制や人種差別を題材にしているだけで、マーガレット・ミッチェル、あるいは映画制作者が、人種差別の思想を露わにして、意識的に侮蔑しているわけではないのだ。

たとえば、昭和の邦画でも、今、見返せば、かなり際どい描写がされている作品はたくさんある。

松本清張・原作、山田洋次・監督の『砂の器』では、主人公の父親が、当時、業病と言われた病気にかかった為に、父子ともども村を追われるエピソードを描いているし、『ああ、野麦畑』『人間の証明』『陽暉楼』など、女工や女郎、囚人や少年労働などの悲哀を描いた作品も、当時の人間以下の扱いを如実に物語っている。

だからといって、松本清張や宮尾登美子や森村誠一が、患者蔑視や女郎侮蔑の気持ちで、そういう作品を作ったのかといえば、決してそうではなく、彼等は『差別』という事実を表現する為に、当時、実際に患者や女郎や女工に対して行われていたこと(あるいは言葉)を作中に取り入れているに過ぎない。

『差別的表現』と『差別を表現すること』は、まったく次元の違う話で、そんなことを言い出せば、スティーブン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』もロマン・ポランスキーの『戦場のピアニスト』も、ユダヤ人の心情を傷つける酷い映画だし、プッチーニの『蝶々夫人』もアジア人蔑視で上演禁止にしろという話になるだろう。

それも、現代のように、人権意識が向上して、「アフリカン系のイラストを分厚い唇やチリチリの髪でデフォルメするのは失礼ではないか」という考え方に変わってきている時代ならともかく、バラク・オバマ氏が大統領になるなど夢にも思わなかった頃に書かれた作品について、現代と同じモラルを求め、上演禁止や廃刊に追い込むなど、知性の敗北ではないだろうか。

ちなみに筆者はプッチーニの『蝶々夫人』を見ていると、無性に腹が立って、こんなストーリーが「美しい」「ロマンティック」と評価されるのは欧米だけだろうと、つくづく思うことがある。(参考記事→男同士の異色愛『エム・バタフライ』 ジョン・ローン 女装の耽美

映画『エム・バタフライ』でも、中国の女装スパイ、ソン・リリンが、白人外交官のルネ・ガリマールに向かって、「東洋の娘が西洋の男のために死ぬと美しいわけね」と揶揄する場面があるが、オペラ『蝶々夫人』など最たるもので、アメリカの海軍士官ピンカートンに、地元の有力者が、若くて美しい『蝶々さん』を日本人妻として斡旋する場面が堂々と描かれ、蝶々さんも、いわば自分を買った相手に対して、「どうぞ、可愛がって下さい」とお願いする従順ぶり。しかも、自分を裏切ったピンカートンを責めもせず、最後は、誇り高い日本人らしく自刃するという、メチャクチャな設定である。

にもかかわらず、西洋では「美しい物語」として評価され、いまだにそれを『アジア人蔑視』と非難する声はない。

本来なら、日本人こそ、この作品にエクスキューズしなければならないのに、自分たちの歴史とはまったく無関係な『風と共に去りぬ』がやり玉に挙がるのは、どういう訳だろう。

相手がプッチーニで、クラシック界の権威であれば、許されるのだろうか。

(ちなみに、筆者は、蝶々夫人の音楽は大好きです)

そう考えると、差別の対象など、実はどうでもよくて、誰かが「差別だ」と言い出せば、右に倣えで、歩調を合わせているだけで、作品の価値も、文化の意味も、何も考えてないというのが実態ではないだろうか。

一度でも文化保護に携わった人、あるいは異文化に揉まれた経験のある人ならば、みな同意してくれると思うが、自国の文化も、国語も、自国民が意識して守らなければ、誰も守ってくれない、非常に脆くて、か弱い存在である。

こうした風潮が加速すれば、今に小学校のクラスに「日本語が読めない生徒が一人いる」というだけで、皆がその子に合わせて、日本語でお喋りすることを控え、授業の『国語』という呼び方も、「日本語を母国語としない住民もいるのだから、国語という名称は失礼だ。これからは『日本語の時間』と呼びましょう」という話にもなりかねない。

ちなみに、昭和の小学校の教科書に、『最後の授業』という話があって、私も衝撃を受けた一人だが、これは今も、どこの世界でも起こり得る話であって、私の身近な例では、第二次大戦前、ポーランドの学校では積極的にドイツ語を教えていたが、ソビエトの支配下に置かれてからはロシア語が義務化されたというエピソードがある。

ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」。これを聞いたフランツ少年は激しい衝撃を受け、今日はいっそ学校をさぼろうかと考えていた自分を深く恥じる。

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

Wiki『最後の授業』より

これは決して創作ではなく、実際に、他国を無血的に侵略するなら、言語的に滅ぼすのが最善の策で、まずは子供(教育)の言語環境から染め変えるのが定石。

『最後の授業』に喩えれば、子供たちを、大人の母国語であるフランス語より、ドイツ語の方を堪能にしてしまえば、必然的に、ドイツ語の書物や、ドイツ語の刊行物を好んで読むようになり、思想、文化ともに、ドイツに準じるようになる。そうなってしまえば、いくら自国の偉い人がフランス語で正しい事を主張しても、すでに思想的にはドイツ風に染まっているし、第一、言葉が通じないから、影響力も低下して、最後には、社会も、文化も、瓦解してしまう。

そういう恐ろしさを歴史的に学んでいる社会は、多額の資金を投じて、文化財を保護し、若い世代に自国文化や歴史を伝える取り組みも熱心に行っているのだが、『風と共に去りぬ』の一件のように、西が「差別」といえば、北も、南も、天も、地も、一斉に西に倣えで、引っ込めてしまうような社会は、上記のような言語的、あるいは文化的侵略にも、何の免疫も持たず、強権に簡単に屈してしまう恐れがある。

それは、直接、人々の暮らしや生命を脅かすわけではないけれど、国家の根幹を揺るがすような大問題で、文化の屋台骨が揺るげば、それは確実に恐怖政治の台頭を許し、暴力の風に吹かれるがままになるだろう。

今も「勉強」の為に読書を促す親は多いが、肝心なのは、メッセージを読み解く力、そして、文化に対する敬愛を育むことである。

『差別的表現』と、『差別を表現すること』の違いも分からない大人世代に、果たして自国の文化を守ることができるだろうか。

『風と共に去りぬ』が差別的というなら、プッチーニの『蝶々夫人』も、アジア人差別に加えて、女性蔑視も甚だしいオペラといえる。

だが、後者はいっさい問題にされず、『風と共に去りぬ』の方が槍玉に上がっているのを見ると、反発というよりは、こんな調子で本当に自国の文化が守っていけるのか、と、頼りない気持ちにもなるのである。

追記 2020年6月14日

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