MENU
恋と生き方のエッセー、子育てコラムは移転しましたsanmarie*com

神は罪を犯した者を、罪のままに愛してくださる ~ゾシマ長老の言葉(8)

『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』

(3) 信仰篤い農婦たち

『自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる フョードルの実体とは?(7)』の続き

いったん、カラマーゾフ家の集まりを中座したゾシマ長老は、遠方からやって来た信者の女性らに会う為に、木造の回廊に姿を現す。

すると、救いを求める寒村の婦人たち(中には高貴な人の姿もある)が一斉に長老の元に詰めかけ、それぞれに苦悩を訴える。

その熱狂ぶり(?)を、作者は次のように表現する。

長老はいちばん上の段に立って、肩帯をかけると、自分のほうへ押し寄せる女たちに祝福を与えはじめた。

一人の《わめき女》が両手を引かれて長老のもとへ連れてこられた。

その女はちらと長老を目にしたとたん、なにやらわけのわからぬ悲鳴をあげてしゃくりあげながら、子供のひきつけのように全身をはげしくふるわせ始めた。長老が彼女の頭の上に肩帯をのせて、短い祈祷の文句をとなえると、女はたちまち静まって、おとなしくなった。

いまはどうか知らないが、私の子供のころには、よくあちこちの村や僧院こういうわめき女を目にし、その声を聞いたものである。女たちは、例は意識につれてこられると、それこそ教会じゅうにひびき渡るほどの声で、金切り声をあげたり、犬のように吠えたりするのだったが、やがて聖体が出され、そのそばに連れて行かれると、それこそ教会じゅうにひびき渡るほどの声で、金切り声をあげたり、犬のように吠えたりするのだったが、やがて聖体が出され、そのそばに連れて行かれると、たちまち《憑きもの》が落ちて、病人はきまってしばらくの間、平静に返るのである。

まだ子供であった私は、この光景にショックを受け、驚きの目を見張ったものであった。けれど、やはりその当時、私が何人かの地主たちから聞いたところでは、また町にいる私の先生たちにわざわざたずねてみたところでは、これは仕事を怠けるためにわざとあんな芝居をしているので、しかるべき厳格な手段によって根絶できるのだということだったし、それを裏づけるさまざまなエピソードも聞かされた。しかし後年、専門の医師たちの話を聞いて驚かされたのだが、実はこれは芝居でもなんでもなく、どうやらロシア特有ともいえる恐ろしい婦人病の一種で、わがロシアの農村婦人の悲惨な運命を証明するものだということであった。つまり、なんら医術の手もかりずに、誤ったやり方で、ひどい難産を経験したあと、あまりに早くから過激な労働につくことから起る病気だというのである。

そのほか、一般的な例からいって、かよわい女性にはとうてい耐えきれないような、救われようのない悲しみとか、夫の打擲なども原因になるそうである。

それまで暴れ狂い、もがきまわっていた女が、聖体の前へ連れて行かれると、たちどころにぴたりとなおってしまうという不思議な現象も、あれは芝居だとか、ひどいのになると、《坊主ども》自身が演出してみせる手品だとか説明されたものだが、おそらく、これもきわめて自然な現象なのだろう。

つまり、病人を聖体の前へ連れて行って、それに頭を下げさえすれば、病人にとりついている悪霊はけっしてもちこたえられなくなると、確固とした真理のように信じこんでいる。

そういうわけで、神経症を起こし、また、むろんのこと、精神的な病人でもある女性の体内には、聖体に向かって頭を下げた瞬間、もうきまって、いわば全オルガニズムの震撼とでもいった現象が起こることになる(いや、起らないではいない)のである。

この震撼は、必然的な治癒の奇跡を期待する心と、その奇跡の実現をあくまで信じてやまない心とによって惹き起され、事実、奇跡は、たとえわずかの間にもせよ、実現するのである。いまもまったくそのとおりで、長老が病人を肩帯でおおうた瞬間、奇跡が実現したのだった。

ここは非常に生々しい描写がなされている。

時は、19世紀末。

当時の医学レベルは、「イギリスで全身麻酔と開腹手術による手術方法が開発された(1875年)」「北里柴三郎が破傷風、ジフテリアのワクチンを開発(1890年)」「レントゲンがX線を発見。放射線診断、放射線療法の始まり(1895年)」といったところ。← Wiki参照

近代医学がいっそう進歩し、それまで「祟り」や「呪い」のように忌み嫌われてきた病気も、科学的に解明され、医療技術も一段と高まった頃である。

だが、それは西側の話であって、ロシアの寒村にまで普及はしない。

貧しい場所、知識が行き届かない場所、教育・福祉が遅れた場所では、依然として、中世的な世界が広がり、その中では、「高僧」「教会」「宗教」が大きな力を影響力を持つことは容易に想像がつく。

現代人から見れば、大袈裟に感じるが、例えば、あるロックスターの熱狂的なファンが、その人を間近に見ただけで、興奮のあまり失神することは決して珍しい事ではないし、ロックスターでなくても、漫画家、政治家、○○カウンセラー、等々、何かを信奉して、キャラクターグッズを買い揃えたり、足繁く講演会に通ったり、心の支えにしている人はごまんといる。

ドストエフスキーの時代には、そうしたカリスマの代わりが、神父であり、ゾシマ長老だったのだろう。

またここで重要なのは、当時は、女性の権利も確立されておらず、法的に訴えることも、社会的保護を求めることも出来なかった点である。

殴られ、無視され、こき使われることも日常だったろうし、そんな社会で、心優しいゾシマ長老が女性から慕われるのも納得だ。

それこそ、ローマ時代のイエス・キリストのように、側で話を聞くだけで、あるいは、お顔を見るだけで、癒やされる存在なのだろう。

実際、イエス・キリストの奇跡とは、虐げられた人々や傷ついた人々を、一人の人間として尊重することで、大勢に生きる希望や闘う勇気を与えた点にある。

感激した病人が、 『アルプスの少女ハイジ』のクララみたいに、思わず立ち上がったり、絶望して伏せっていた人が「頑張ろう」と起き上がったり、周囲が驚くようなこともたくさんあっただろう。それが後々、「万病が治った」「死人も生き返る」かのように伝えられ、神の子の奇跡として語り継がれるようになったのが始まりだろう。(私はクリスチャンではないので、そう解釈している。新約聖書もかなりの部分は比喩だろうと)

そうして、ゾシマ長老の元に集った女たちは、それぞれに悩みを打ち明け、長老の助けを請う。

たとえば、幼子を三人、立て続けに亡くした上に、最愛の末っ子までも喪い、悲しみに暮れる女性に対しては、

「おまえの子供も、きっといま時分は、神さまのおそばで喜びたわむれながら、おまえのことを神さまに祈っておるじゃろう、そのことをしっかりと心得ることじゃ。

<中略>

おまえは慰めを求めることはない。慰められるぬままに泣くがよい。ただな、泣く度にかならず思い出すのじゃ。おまえの子は神さまの天使の子のひとりとなって、天国からおまえをみおろし、おまえの涙を見て喜んでおるし、その涙を神さまに指さしておるということをな。

おまえの母親としての大きななげきは今後もまだ長くつづくだろうが、やがてそれは静かな喜びとなる日が来て、その苦い涙も、静かな感動の涙、心を浄め、もろもろの罪からおまえを救ってくれる涙になるのじゃ。

<中略>

ただな、つれあいをほうっておくのは罪なことじゃ。すぐに帰って大事にしてあげなされ、おまえが父親を捨てたのを、もし天国から子供が見たら、おまえたちのことを悲しんで泣くだろうに、どうしてあの子のしあわせを乱したりするのじゃ? あの子は生きておる。生きておるとも、魂は永遠に生きるものだからな、家にこそおらないが、目に見えぬ姿でおまえがたのそばについておるのじゃ。 <中略> おっかさん、つれあいのところへ帰りなさい。きょうにも帰りなさい」

上手くはぐらかされたような気がしないでもないが、、、うーん、全然、救いになってないぞ(^_^;)

また、『一見して肺病やみとわかる、いかにも疲れきったような農婦の目であった』という女性に対しては、

「わたくしは罪を犯しました。長老さま、その罪が恐ろしゅうてなりませぬ。 <中略> つれあいをなくして三年目になります。嫁に行ってから、つらくてなりませんでした。つれあいが年寄りで、ひどくわたしをぶつのでございます。それが病気で寝ましたとき、わたくしはその顔を見ながら、もしこの人がまたよくなって起きたらどうしよう、と考えました。そのときでございます。わたくしがあの考えを起こしましたのは…… (注・ 相手の死を願ったわけですね)

<中略>

恐ろしゅうございます。死ぬのが恐ろしゅうございます (注・ 天罰が下ると思っている)」

「なにも恐れることはない。けっして恐れることはないし、くよくよすることもない。ただ悔恨の心が薄くならぬようにしさえすれば――神さまはすべてを許してくださる。いや、本心から悔いている者に対して神さまが許してくださらぬような罪はこの地上にはないし、あるわけもない。

というより、神さまの限りもない愛を涸らしつくすようなたいそうな罪を、人間が犯せるはずもないのじゃ。それとも、神の愛をしのぐほどの罪があるとでもお思いか? ただ悔恨だけを、普段の悔恨だけを心がけて、恐れはすっかり追いはらってしまうがよい。

神さまは、おまえが想像もつかぬような愛をもっておられて、おまえに罪があればあるで、その罪のままに愛してくださるのじゃ。そのことを信ずるがよい。十人の心義しき(ただしき)ものよりも、一人の悔いる者を天は喜ぶ(『ルカ福音書』 第十五節・第七節)、と昔から言われておるではないか。

さ、行きなさい。恐れるでないぞ。

他人に腹を立て、辱めを受けたからとて怒るではない。死んだつれあいからいじめられたことを、心のなかですべて許して、心から仲直りするがよい。

おまえが悔やんでおるとしたら、それはお前が愛しておるからじゃ

そして愛するならば、おまえはもう神の子じゃ……愛はすべてをあがない、すべてを救う。

おまえと同じ、罪深い人間であるわたしでさえ、おまえの身の上に心を動かし、おまえを憐れに思うのだもの、神さまはなおさらではないか。

愛はな、それで全世界をあがなえるほどの、かけがえもない宝じゃ、それがあれば自分の罪ばかりか、他人の罪までつぐなうことができる。

さ、恐れずと行きなさい」

この台詞は素晴らしい。

さすが『罪と罰』のドストエフスキーらしく、あの作品の罪と罰、愛による救済のテーマが、ここにきて更に高められた印象を受ける。

恐らく、ここはドストエフスキーも魂を込めて書いただろう(先のゾシマ長老の言葉はかなり苦しいが……)

悔恨=「良心の痛み」と、罪の意識=「正義を知る心」は表裏一体。

愛も疑心も持ち合わせぬ者に、良心の痛みなど感じるはずもなく、詐欺師が詐欺師たるゆえんである。

自分の罪に良心の痛みを感じた時点で、あなたは既に許されているのである。

ところで、癒やしとは何か。

それは迷いに正答を得ることではなく、誰かに話を聞いてもらって、許されることである。

昔も今も、その真理に変わりはなく、ただ、現代は「悩みの聞き手」が、自称・スピリチュアルカウンセラーだったり、惰弱を狩る詐欺師だったり、SNSの匿名アカウントだったり、得体の知れない相手というケースもあり、癒やされるどころか、騙されるので、たちが悪いのである。

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

カラマーゾフ随想について

絶版となった江川卓・訳『カラマーゾフの兄弟』を読み解く企画です。
詳しくは「江川訳をお探しの方へ」をご参照下さい。
本作に興味をもたれた方は復刊ドットコムに投票をお願いします(現在8票)。