未熟なカラマーゾフ読みにとって、『るるぶドストエフスキー』ともいうべき手引き書が江川卓先生の『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)』だ。
「よく、こんな細かな違いに気がつきましたね」「そ……それは江川先生の考えすぎでは……(゚_゚)」……と、いちいち突っ込みを入れたくなるような、マニアックな雑学満載で、今後、他の誰が逆立ちしても到底真似できないような、詳密かつユニークな解説書である。(”雑学”というのは適切な呼び方ではないが、ロシア語、ロシア史、ロシア文学史、諸々ぶっ込んだ、高濃縮ピロシキのような内容なので、あえて雑学と呼ぶ)
よぉし、世界文学に燦然と輝くドストエフスキーの大作に挑むぞぉ! と志したのも束の間、あまりに長いイントロ、会話、段落、説明(この小説のナレーターは富山敬かと思うくらい)、おまけに「淫蕩」「癲狂」「貧乏」「ヒステリー」とこっちの頭までおかしくなりそうな気狂いエピソードの連続で、ミーチャの「カネ、カネ、カネ、カネ、三千リーブル」の執着心と、父子で一人の女を争う「逆・渡辺淳一」の肉欲に早々に目眩を覚え、章半ばで本を閉じそうになったのは私だけではあるまい(私の場合、Kindleだけど)
そんなヘタレなカラマーゾフ読みを優しく導き、地獄の読書体験に光明をさすのが、江川先生の『謎とき カラマーゾフの兄弟』。
この本に「例文」として挙げられている江川先生ご自身の訳文に、「も……もしかして、新潮文庫の原卓也版より、読みやすい??(小声)」と胸がざわつき、すでに絶版になって久しい世界文学全集に触手を伸ばしたのは私だけではなかろう。
(そして実際に購入した)
そんな江川解説本の中で一番気に入ったのが、 『第10章 兄弟愛の表裏』に記された「桜んぼのジャム」のエピソード。
イワンとアリョーシャの関係は、ドミートリィに対する二人の関係とはだいぶ異なる。「長兄のドミートリィ」とは、彼のほうがあとから来たのに、もう一人の(自分と同腹の)兄イワンとよりも、ずっと早く親密になった。アリョーシャは兄イワンの人となりを知ることに異常な興味を抱いていたが、彼が帰郷してもう二ヶ月にもなり、かなり頻繁に顔も合わせているというのに、いまだにどうしても親しめないでいた」というわけである。それだけに料亭「みやこ」での兄弟の出会いは、ひとつの事件となるに十分だった。
うまくアリョーシャを呼び込めたことがうれしくてならないらしく、イワンは大声で言う。
「魚汁(ウハー)か何か注文しようか。おまえだってお茶だけで生きているわけじゃないだろう」
「魚汁をもらいます。そのあとでお茶も、お腹がぺこぺこなんです」
「桜んぼのジャムはどうだい? この店には置いてあるぜ。覚えてるかな、おまえ、小さい時分、ポレーノフのところにいたころ、桜んぼのジャムが大好きだったじゃないか」
「よく覚えてますね。じゃ、桜んぼのジャムももらいます。いまでも好きですよ」
「ぼくはなんでも覚えているよ、アリョーシャ、おまえが十一の年まではね。ぼくは十五だった。十五と十一、この年の差の兄弟というのは、どうしても友だちになれないものなんだな。ぼくは、おまえが好きだったかどうかも覚えてないくらいさ」
この会話は、『カラマーゾフの兄弟』でももっとも抒情的な一節だと思う。ここには兄弟の愛情がなんのけれんもなく、きわめて純粋に、みごとに表現されている。私事にわたるが、私は中学の三年生で、はじめて『カラマーゾフの兄弟』を読んだとき、この場面がどこよりも強く印象に残ったことをよく記憶している。とりわけ私は魚汁と桜んぼのジャムが食べたくて仕方がなかったものだ。魚汁は二十年後、ヴォルゴグラードのホテルで食べることができたが、日本のすまし汁と比べても、さっぱりうまくなかった。
桜んぼのジャムはその翌年、モスクワ郊外の知人の家で自家製のものをご馳走になり、多年の念頭がかなってうれしかったことを覚えている。
あー、分かる、分かる(´。`)
それって、パリのカフェで本場のショコラを飲んだり(漫画『ベルサイユのばら』に「このショコラが熱くなかったことを幸いに思え」という場面がある)、北イタリアのレストランでイタリア人シェフが作る本場のスパゲティ・ボンゴレを食べたり、日本人観光客のだーれも見向きもしないようなゼーラント州の締切堤防を見に出掛けて、海沿いのレストランでオランダ名物のビターバレン(コロッケ)を注文して、一人でほくほくとした気持ち同じだ。
漫画や映画に登場する憧れの郷土料理――日本でも体験できないことはないが、やはり本場で食したい――という願いが叶った時の、得も言われぬ感動。
「これがオスカル様も嗜んだフランスのショコラか……!」みたいな、他人にとってはどうでもいい話だが、自分にとっては人生の悲願を達成したような、オタッキーな悦び。
ああ、江川先生も、そんなにも桜んぼのジャムが食べたかったのね……と共感したと同時に、この場面を「この会話は、『カラマーゾフの兄弟』でももっとも抒情的な一節だと思う。ここには兄弟の愛情がなんのけれんもなく、きわめて純粋に、みごとに表現されている」と受け取った先生の感性が嬉しくて、この場面だけもう一度読み返したくなったほど。
そして、真の読書体験というのは、そういうものなのだ。
どこぞの権威が勧めるから、名作と評判が高いから、無条件に仰ぎ見るのとは違う。
はるか昔に書かれた一文に、自分の心情を重ね見たり、この世で唯一の理解者を見出したり。
その出会いも、初めて訪れた野畑図書館だったり、ふらりと立ち寄った本屋の四階だったり(ガテン系の客がまばらに存在する寂れた専門書コーナー)、ペンションの娯楽室のコミックだったり、歯科医の待合室だったり、意外な所からやって来たりする。
その一文に出会うまえのプロセス(求職中ハローワークで凹んだ魂を癒やしに来た図書館とか、金曜の夜早く帰宅するのが癪で立ち寄った本屋とか)や、出会った時の状況(こたつでポテチを食べながらとか、店員の視線を気にしながら立ち読みとか)も含めて、『読書体験』というのであり、文章そのものに価値があるのではない。読者と一体になって初めて、文章は芸術になり得るのだ。
江川先生にとっても、桜んぼのジャムのエピソードは中学生の初恋みたいに甘酸っぱく、ソウルフードならぬ「オタクフード」だったのだろう。
オタクフードというのは、世間一般の評価とはかけ離れたところで、自分にだけ意味のある憧れの食物を指す。
「ロシアといえば、やっぱボルシチでしょう」「いやいや、ロシアに来たからには、ピロシキを是非とも味わうべき」などという一般論はオタクにはどうでもいい話だ。
作品に惚れ込んだ人間にとって、体験すべき食物はただ一つ。
「あの小説(漫画・映画)で、主人公が美味そうに食っていた、アレ」
三つ星レストランだろうが、王室御用達だろうが、そんなことはオタク愛とは何の関係もない。
とにかく、あの小説と同じシチュエーションで、同じものを食し、一瞬でも憧れのキャラに同化したいと願うのが、オタクフードの心髄だ。
その為には、飛行機を乗り継ぎ、遠く異国まで出掛けることも厭わない。
夢のオタクフードが地元民によってテーブルに運ばれ、我が口中に入る時、人は初めて、一つの作品(作者)を愛することがどういうことか、心の底から思い知るのである。
そんな江川先生の真似をして、私もロシアンティーを作ってみましたよ。
憧れの『桜んぼのジャム』って、これでしょ (●´艸`)
ポーランドならロシアと同系列のものが日常的に手に入りますよん。
ポーランド語で「ジェム ビシニョヴィ」。ポーランド語で「wiosna(ヴィオスナ)」は春、「wiśnia(ヴィシニャ)」はチェリーのこと。
よって、桜んぼのジャムは、ヴィシニャが変化して、ジェム ビシニョヴィ となります。
お隣は安物のウォッカ。日本酒の代替として料理に使っています。
桜んぼのジャム。
レシピ通り、少量のウォッカを混ぜる。ちょっと艶がよくなる感じ。
紅茶に添えて頂きます。
レシピは日本紅茶協会のロシアンティーを参考にしました。
紅茶にジャムを入れるより、スプーンでなめなめした方が美味しいです。
ほのかに酸味が利いて、レモン代わりになるのがポイントかな。
ウォッカはあってもなくてもよろしいかと。私も少量しか使いません。アルコール度数が高いので。
リキュールや赤ワインで代用してもいいかもしれませんね。
The Grand Inquisitor by bobangeba
この桜んぼのジャムのエピソードの後に、有名な『大審問官』が続く。
ちなみに私が好きなイワンの台詞は、「ぼくは神を認めないんじゃない。アリョーシャ、ぼくはただ入場券(天国への)をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」。
江川先生も「おそらくイワンの長い話の要諦はこの点にある。そして、そのかぎりでは、筋がとおっている」と書いてらっしゃるけど、本当にその通り。
私は、イワンは無神論者ではなく、諦観した者と受け止めているし、いろんなことを考え抜いた末、冷徹になる気持ちも分かる。
あまりにも多くのことを感じすぎるが為に、そうなるんだ、と。
ぼくは生きたい。だから、論理にさからってでも生きるんだ。たとえぼくが事物の秩序を信じていないとしても、ぼくには春に芽を出すあの粘っこい若葉が貴重なんだ。青い空が貴重なんだ。どうかすると、どこがどうというのじゃなく、ふっと好きになってしまう人間がいるね、そういう人間が貴重なんだ、それから人間が成しとげるある種の偉業もぼくには貴重なんだよ、そんなものは意義は、多分、とうの昔に信じなくなっているくせに、それでもやはり古い記憶の惰性なのかな、思わず心では尊敬の念をもってしまうんだ。
イワンという人は、「この現実」というのを真正面から見据え、地に足を付けて生きるタイプなのだと思う。
祈りさえすれば、天国に行きさえすれば、現実の歪みも超越できる教徒とは違う。
なぜって、現実を目の当たりにするほど、祈りで克服できるような単純なものではないと分かるからだ。
現実に人間を救済したければ、社会の仕組みを変えるのが一番だ。富の偏在をなくし、賃金や労働環境を見直し、弱者を支援する。教会に集って祈りを捧げるより、カフェやサロンで政治論を戦わせるより、マスで行動して、政策を変えるのが最短距離だろう。
――というような考えがロシア革命に繋がるわけだが、果たして、ドストエフスキーは墓の下で何を思っただろう。
正義だから、大勢に支持されたのではない。大勢が支持したから、それが正義になったのだ。
そういう観点で見れば、幻の続編で、アリョーシャが皇帝暗殺を企てるという仮説にも納得がいく。極端な二人の兄に感化され、あれほどの大事件を体験したアリョーシャが、いつまでも十九、二十歳の心情で神を信じ続けるとも思えないからだ。だが、それは断じて反逆ではない。「万人を幸福にする」という自らの信仰に基づく選択だ。それを決断するまでの間、アリョーシャもまた大審問官の葛藤を味わっただろうし、そんなアリョーシャの唇にキスしたのはイワンの方かもしれない。実際、『母親の目の前で犬に八つ裂きにされる少年の話を語って、それを命じた将軍をどうする、銃殺にすべきかね? とイワンはアリョーシャを問い詰める。そして「銃殺にすべきです!」というアリョーシャの答を聞くと、イワンは有頂天のような声で叫ぶ。『ブラボー! おまえがそう言うとなると、こりゃもう! いや、たいしたお坊さまだよ!してみると、おまえの胸のうちにも、ちょっとした悪魔の子どもぐらいはひそんでいるんだね、アリョーシャ・カラマーゾフ君!(江川卓の著)』というエピソードも存在するのだから、ロシアの惨状を目の当たりにして、アリョーシャが何の行動も起こさず、ひたすら神の義に尽くすなど、有り得ないと思う。なぜなら、彼もまたカラマーゾフの人間であり、イワンやミーチャと思想的にも心情的にも結ばれた『兄弟』だからだ。
ちなみに私は「春に芽を出すあの粘っこい若葉」という言葉が頭から離れず、ガーデニングでバラの新芽を見つける度、イワンの心境になってしまいます。
江川卓『謎とき カラマーゾフ』より 桜んぼジャムのエピソード。
以上、『江川卓先生を囲んで、ロシアンティーを飲みながら、ドストエフスキーを読む会』より。
ロシアンティーのお供にはアシュケナージ&ラフマニノフのプレイリストをどうぞ♪
Piano Concerto No.1 1.Vivace は冒頭がとてもドラマチックですよ。