手頃な幸福論で飼い慣らされる現代人の不幸について

手頃な『幸福論』で飼い慣らされる現代人の不幸について ~寺山修司的解釈

手頃な幸福論で飼い慣らされる現代人の不幸について

いつの時代も『幸福論』は重宝されるが、「自分が幸せに感じるなら、全て良し」とする幸福論ほど、お手軽で、麻薬要素の強いものもない。

治ったような気がするだけで、実は何も解決しておらず、幸福に感じようとすればするほど、逆に破滅に突っ走っていくからだ。

人が本当に幸福になりたければ、具体的に行動し、苦しみの原因となるものを取り除くか、自分の欲しいものを何がなんでも手に入れるしかない。

その根本から目を反らして、「なんとなく幸せな気分」を手に入れても、目が覚めれば、辛い現実があるだけだ。

生き甲斐だの、前向きだの、どのように自分に言い聞かせたところで、決して給料が上がらないのと同じく。

そしてまた、幸福の定義は時代によって変わる。

貧しい時には、貧しい者にとっての幸福が語られ、豊かな時代には、豊かさを戒めるような幸福が語られ、それぞれの時代に応じた幸福論が生まれては消えていく。

これほど主観に依るものもなく、どこをどう探しても、結局は「本人の受け止め方次第」に行き着くのが、古今東西、すべての幸福論の本質ではないだろうか。

そんな幸福の本質を知りながら、それを率直に書きたくない。

ビジネスマンが気分転換に手に取るような、安っぽい自己啓発の類いにしたくない。

そんな作家のプライドと、巷にあふれる安っぽい幸福論への懐疑心から、わざとズボンを裏返しにして、読む人に考えさせるのが寺山修司の『幸福論』だ。

たとえば、『幸福論』の冒頭にはこうある。

幸福であることが他人に対しても義務であることはもちろんだが、自らの毒気を消化し、言いたりない怒りをさえ浄化してしまうような「幸福論」は、ほんの気紛れにしかならないだろう。

おとずれて来る一枚の徴兵令状を見て、(その徴兵令状の印刷の美しさをほめたり)「わるい天気にはいい顔をするものだ」とばかり、ほほえみをたたえていたとしても、その幸福は他人に対しての義務をはたしたことにはならない。

ときには、自分が不幸であることで、他人への誠実を約束する場合だってあるものである。

幸福は、むしろアランの受け入れた「わるい天気」そものもを根源的になくするための日常的な冒険の中にこそ、存在する。(9P)

*

アランは「わるい天気にはいい顔をするものだ」と書いた。

しかし、わるい天気にしているいい顔が、戦後の大部分の詩にみられるペシミズムであり、花もちならないエゴチズムにかわってゆくことまでは予想していない。それは、わるい天気をわるい天気としてしかうけとれぬ感受性が(それを忘れるために)いい顔をしているという七面鳥の苦悩にすぎないのである。(37P)

よく見る幸福論は、「日常の些細なことにも悦びを見出しましょう」「気持ちを明るく持てば幸運が訪れます」「幸せとは自分の内側から来るものです」等々、自身の心の持ち方に帰結する。

しかし、ブラック企業で深夜まで働かされて、今にも死にそうになっている人に、こんな事を言っても何の慰めにもならないだろうし、金もない、友人もない、今から人生をやり直す体力もない年寄りに自己改革を説いても、いっそう惨めに感じるだけだろう。

現代においては、「親が要介護になれば、この制度」「金銭的に行き詰まったら、この窓口」と、具体的なノウハウの方がはるかに有り難い。もはや「気の持ちよう」だけではどうにもならないほど、現代の生活は難しくなっているからだ。

精神性を軽んじるわけではないけれど、私たちを取り巻く環境は昭和エレジーの時代よりいっそう即物的だ。人間の魅力も能力も、あらゆるものが数値化され、競争と評価に晒される。今では心を錦で飾るより、他人の店から錦を盗んでも華やかに着飾る方が、はるかに有利で、説得力がある。ボロは、どう繕ってもボロでしかないからだ。

そこで寺山修司は問いかける。「ボロ」そのものを根源的になくしてはどうか、と。

たとえば、こんな一文がある。

人は互いに、踏み込んだ習慣、ものの考え方、趣味や興味やゴシップが形成している「友情の世界」は、超えがたいものだと思っている。その結果、「友人の選び方自体の中に、自らを規定する階級的考慮」が入ってくるようになり、「自分は、この社会の中での、こんなタイプの人間。こんな身分の人間だ」という自己限定が始まるのである。

私は社会が与える身分の問題を決して軽んずる訳ではないが、ここでは「幸福論」をはばむものとして、「自分が自分に与える身分」の問題――「私とは、××である」と一口で要約してしまう肩書人格を的にまわさねばならないと考える。「さあ、言ってみろ。一口で言えば、おまえは誰なのだ?」

<中略>

この××とは、何ら実体とかかわりあうものではない。これはいわば「私」にとっての広告コピイのようなものであり、一つの要素に過ぎないにもかかわらず、いつのまにか「私」は、××でしかないと思うようになり、××人格化してゆき、「××意識」から××の友情を守ってゆこうとしはじめる。

「変装」とは、この××から自分を解放するための日常的な冒険であり、現実世界と想像力世界とのあいだの境界線をとりのぞくための起爆行為である。(71P)

ここでいわれる「変装」とは、「蒸発したと思っていた一サラリーマンが、実は変装して同じアパートに住んでいた」という新聞記事からの例え話である。

人が「自分自身」からどこにも逃げることが出来ない原因の一つに、寺山修司は『私たちは、他人を見張り、同時に他人に見張られることによって社会に参与している。しかし、しばしば「他人に見張られずに他人を見張りたい」という意識を持つようになる(65P)』と書いているが、これはSNSの匿名アカウントになると、実生活からは想像もつかぬほど能弁になる人に喩えると分かりやすいだろう。

天気の悪い日に無理に笑顔を作るより、いっそ何時もの自分から離れ、匿名のメリーさんになって、実質は右でも左でもないのに、炎上ネタに乗っかり、「祭りだ、ワッショイ」と書き連ねる方が、ストレス解消としては手軽なはずだ(人道的な是非は別として)。

しかしながら、別人格になりすましたところで現実が変わることはなく、ログオフすれば、いつもの日常が待っている。匿名アカウントでは1万人のフォロワーがいても、実社会で誰にも相手にされなければ、人生の悦びも半減する。それは「想像によって、不幸せな気分をもたらす原因を根源的になくす」とは大きく異なる。

続いて、こんな一文がある。

「私は嫌われない人間は好かれない、という単純な数式をここでも問題にしたい。誰かを好くことは、とりも直さず他の誰かを嫌うことである(114P)」

恐らく、現代の大きな不幸の一つは「誰にも愛されない感」だろう。その根底には「本当のことをいえば嫌われる」「目立てばハブられる」という強迫観念じみた思い込みがあり、自己を表出するよりは周囲と同調することを優先する。その結果、自分が自分でないような、いつも自分ばかりが損しているような被害者意識に陥り、周囲は自分を理解してくれない → 誰にも愛されない、という意識に変わっていく。

それはあまりにも「人に好かれる」ということが英雄視され、友人の質よりは数によって評価されるからだ。

その固定観念を乗り越えない限り、友だちが1000人を超えようが、いいねが100個つこうが、心が救われることはない。

常にそれ以上のものに劣等感や羨望を抱き、飢餓感に苦しむようになるだろう。

つまり、世間の固定観念や親の刷り込みなどによる、「私は××だ。だから駄目なんだ」という自身の思い込みを、様々な想像力によって打ち壊すことが寺山修司の幸福論であり、それは上司に口汚く罵られても、ニコニコ笑って、気持ちを明るく保つ――という誤魔化しとは異なる。

寺山流は、そもそも上司が些細なミスであなたを口汚く罵ること、”それ自体を疑え”という話であり、「無理にニコニコ笑う」ことが解決策になるとは考えない。そして、上司の人間性を客観的に分析するには、世の中の事を広く知らなければならないし、偉そうに振る舞う上司の良識がどの程度のものか、多角的に考察できる知力や教養も必要になる。それを身につけることが、人生に対する革命であり、幸福への第一歩なのだ。

寺山修司は言う。

『宝くじに当って、生まれてはじめてカタツムリのスープの味を知った中年の夫婦にとって問題なのは「カタツムリのスープの味」自体ではなくて、小市民的幸福の中に人生のベルトコンベアーを敷いてきた中年の男女が「カタツムリのスープをのんでみようか」と発意したという事実である(181P)』

その続きに「いわば宝くじが内的体制の、とりわけ精神経済をゆさぶるパルチザン・ショックによって、新しい現実の切断面との対面の機会を持つ」と脳味噌がとけそうな表現があるのだが、これはパワハラに喩えると分かりやすい。

それまで上司の罵倒に黙って耐えていた新人社員が、「ちょっと待て、ミスした俺も悪いかしれないが、そこまで口汚く罵っていいのか?」と疑問をもち、「俺が間違いなのではない。部長の人間性が問題なのだ」と心理的な罠から抜け出す瞬間みたいなものだ。

そう考えると、『宝くじ』は、当選した金額そのものが幸福なのではなく、それまで質素な田舎料理しか口にしなかった中年夫婦に「カタツムリのスープをのんでみようか」と、日常からの脱出を決意させる点にある。その結果としての素晴らしい体験=幸福感であり、それを手に入れるには、やはり自分(もしくは日常)の殻から抜け出す為の想像力や勇気が必要なのだ。

寺山修司の『幸福論』は、「あなたの心をみるみるラクにする 魔法の言葉」や「デキる男はここが違う! 一流ビジネスマンに習う仕事術」とは大きく異なり、決して安易な慰めは励ましは口にしない。むしろ、ふわりと優しい言葉で怒りや痛みを紛らわすことで、いっそう自分を見失い、問題解決への道を閉ざすのではないかと指摘する。

 あのときあの子と別れた私
 冷たい女だと人は言うけれど
 いいじゃないの幸福ならば

有線放送から佐良直美の歌がながれてくる。昨日、堕胎したばかりの「芽」のホステスの”みどり”がそれを自分のことばのように反芻する。「いいじゃないの 幸福ならば」の、「いいじゃないの」というのはみどりの場合、堕胎という全く「わりに合わない」ことへの同僚や客たちの「理性的批判」への回答である。たとえ、非合理であっても「いいじゃないの」というのは、まさに「諸個人のあらゆる不幸をかいくぐって自己を貫徹する一般的理性の進展」と、どのように区分したらいいのだろうか?

<中略>

佐良直美は「いいじゃないの 幸福ならば」と、自らの抑圧と犠牲を、秩序の正当化に役立てて、そのために「幸福」を引用するが、引用可能な幸福などどこにも存在しない。
従って、「いいじゃないの」と自他に了解を求める佐良直美=岩谷時子は、諸関係をふり切ろうとするポーズを示しているにすぎないのである。(254P)

昨今の幸福論は、非合理なことを体験しても、「いいじゃないの、幸福ならば」と自分に言い聞かせようとする。

無下に扱われても、無理な要求をされても、「自分が幸せに感じるなら、それでいい」と。

何故なら、現実と向かい合って、正す努力をするより、自分に「幸せ」と言い聞かせる方が楽だからだ。

だが、自分に幸せと言い聞かせたところで、現実は変わらないし、問題が存在する限り、苦痛から解放されることもない。

「いいじゃないの、幸福ならば」という考え方は、「低賃金でもいいじゃないか 幸福ならば」「要介護でもいいじゃないか 幸福ならば」みたいに、本人の精神性に責任転嫁する流れになっていく。

果たして、それが本当の幸福なのだろうか?

寺山修司は『寺山修司から高校生へ 時速百キロの人生相談』という著書の中で、「幸福とはもっと、たけだけしいものだ」と主張する。

幸福とは奉仕の精神では? と問いかける高校生の質問に対し、氏のお気に入りの句「幸福とは幸福を探すことである(ジュール・ルナール)」と併せて、「幸福とは、何かを守ることではなく、新しい価値を創造することです」と回答している。

この場合、「守る」のはいつもの自分、「創造」とは「こうあるべき」の思い込みを打ち破り、カタツムリのスープを味わって、パワハラ上司の心理的罠から抜け出すことだ。

その内なる冒険は、さながら壁を打ち砕くような強い闘志を必要とする。

その過程で生じる損や手間や誤解や、もろもろの面倒を避けて、手頃な幸福論を自分に言い聞かせ、騙し騙しに生きても、結局は自分に嘘を突き通せなくなり、違う自分を生きているような、空しい気持ちがするだろう。

幸福について考えることは、世間が幸福と定めることに自分を合わせることではない。

もしかして俺が幸福と思い込んでいるものは、実は間違いではないかと疑うところから出発するものだ。

その為の想像力であり、これまで自分が正しいと信じてきたものを打ち壊して、新たな価値観を創造する過程を「たけだけしい」と表現する。

それは時に己の枠組みを超えて、会社の在り方、学校の在り方、政治の在り方など、己を取り巻く外的要因を改革する力にもなるものだ。

手頃な幸福論で飼い慣らされる時、それは人間にとっても社会にとっても退歩の始まりであるように感じるのだが、さて若い皆さんはいかがだろうか。

初稿 2017年4月29日

 幸福論 (角川文庫) (文庫)
 著者  寺山 修司
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 5つ星のうち 4.6 (5 件のカスタマーレビュー)

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