地獄という芸術 絵本『蜘蛛の糸』の世界
地獄の罪人はいつか救われるのか?
昔から芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には大いなる疑問があります。
もし、カンダタが善い人で、蜘蛛の糸が切れなかったら、その後ろにぞろぞろ付いてきた数十万だか数百万だかの地獄の罪人も、お釈迦様は一緒にウェルカムしたのであろうか……ということです。
中には本当に業罰の必要な罪人もあるだろうし、たまたまラッキーチャンスで蜘蛛の糸を手にしたからといって、皆が皆、許される訳でもあるまいしね。
そうなると、カンダタが極楽に辿り着いた後、やっぱり蜘蛛の糸は切れたであろうし、いくらお釈迦さまでも、数百万の極悪人に慈悲を施すほど情け深くはあるまい……と思うと、一縷の望みにすがって蜘蛛の糸をよじのぼってきた、その他、数百万の方がよっぽど哀れな気もするのですよ。それは自分の為に投げかけられた救いの糸ではないのに、そうだと信じて、必死に登ってくるんですからね。
そんでもって、慈悲によって救われたカンダタが、これから心を入れ替えて生きていくかといえば、決してそうではない。「こいつはしめた」と慈悲の上に胡座をかき、結局、またお釈迦さまに愛想を尽かされて、極楽から閉め出されるのがオチではないかと思います。
罪人の心は、百回焼いても、直らない。
人間というのは、それほど脆く、情けない生き物だと思います。
それゆえに、「生き直そう」と決意した人の魂は鋼より強いんですよね。
地獄にこそ想像力は羽ばたく
前に読んだ西洋美術の本(確か西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編)に、「天国の絵はどれも似たり寄ったりで退屈だが、地獄となれば、なぜこうも想像豊かになるのだろう」という言葉があったが、まさにその通り。
映画でも、ハッピーエンドのファミリードラマはどれも似たような演出だけど、ホラーやアクション、戦争モノになると、これでもか、これでもかというほど残虐な場面を取り入れる。
とりわけ、猟奇殺人や拷問シーンなどは、よくこれだけ残虐なことを次から次に思いつくものだと、怖いを通り越して感心するほどです(悪い意味で)
でも、それが大衆の陰の心理なのでしょう。
実際、アウシュビッツにも、立ち牢というのがあって、今もその痕跡は残っています。
縦横1メートルほどのレンガ造りの狭い部屋に数人を閉じ込めて、何日も休ませずに強制労働させるんですね。しかも、閉じ込めた囚人の足を棒で突いて、わざと痛めつけるから、衰弱した囚人は数日で死に至るそう。
その他にも、餓死刑だの、公開絞首刑だの、銃殺刑だの、まるで見世物みたにやってたんですよね。
それも見るからに悪い人がやるんじゃない。「家に帰れば良き父親」みたいな人が、書類にハンコでもつくように日常的に行っていたわけです。(興味があれば、映画『ハンナ・アーレント』でも見て下さい)
映画『セブン』の言葉を借りれば、「ヤツが本物の悪魔なら、お前も納得するだろう。だが、ヤツは悪魔じゃない」の言葉通りです。
「私は常識人です、理性もあります」といっても、異常な状況下に置かれたら、人間の自制心も判断力も徐々に壊れていく。
また周りがそうしだしたら、良心の咎も薄れて、一緒になってやってしまう。
人間って、哀しいけれど、そういうものです。
誰の中にも獣性は潜むし、どんな人も紙一重で理性を保っているに過ぎない。
「私は絶対に間違わない」と断言する人こそ脅威です。
反面、人はクリエイティブな領域でそれを解き放つことができる。
絵画、演劇、写真、文学、エンターテイメントとしてのSMショーなんかもそれに含まれるでしょう。
それもとことん極めれば、『残虐』や『背徳』を通り越して、不思議な美しさを醸し出すことがある。
遠山 繁年氏の画による絵本『蜘蛛の糸』もそうです。
確かに地獄の絵には違いないけれど、一つ一つに、人間の血の通った心を感じることができる。
地の底から炎立つような、豊かな色彩。
どこか愛らしく、ユニークな鬼どもの造形。
描く人によって、こんなにも柔らかで、ユーモラスな印象を与えるものかと思うほどです。
でも、よくよく見れば、罪人たちは大変酷い目に遭っています。
針山で串刺しにされたり、炎で焼かれたり、鬼に喰われたり。
どれほど痛いか、想像に難くないです。
しかも、地獄では「死ぬ」ということがないので、その痛み苦しみは永遠です。
恐らく、人間が考え得る『残虐』の全てを掻き集めても、地獄のすさまじさには遠く及ばない。
地獄を描けと言われたら、多くの人は、肉が裂け、血しぶきが飛び散り、断末魔の悲鳴をあげる亡者の姿を描くでしょう。
でも、この絵本に、生々しい描写はありません。
泣き叫ぶこともなければ、許しを請うこともなく、茫然自失として自らの責め苦を受け入れているようにも見えます。
言い換えれば、一切の希望が許されない場所。それが地獄。(ダンテの神曲にも、そのフレーズがあったね。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」)
待っても待っても、救いはなく、逃げ出す手立てもない。
そこにあるのは、創造や悦びとは全く正反対の虚無であり、もはや慚愧や懊悩といった感情からも見捨てられた、一個の肉の塊に過ぎないように感じます。
大泥棒のカンダタも、もはや泣き叫ぶ力もなく、血の池で浮いたり沈んだりするだけ。
地獄に落ちて抵抗するのは、まだ希望がある証。
人間、希望も失えば、涙も恨み言も出てこない。
それと比して、お釈迦さまの美しく、たおやかなこと。
黄金色に彩られ、甘い香りが漂ってきそうな描写です。
これは漫画『エースをねらえ』に載っていたエピソードだけども、地獄と極楽には同じものがあるそう。
どちらの食卓にも、たっぷりのご馳走と人の背丈ほどある長い箸が置いてあり、極楽では、まず向かの人に「あなたからどうぞ」と食事を分け与えるので、人はいつも満たされ、微笑み合うことができる。
一方、地獄では、我先に自分の腹を満たそうとするので、食卓はいつも修羅場。しかも箸が長いので、決してご馳走が口に入ることはなく、人は永遠に飢えて、安らぐこともない。
我利我利亡者の言葉通り、自分の欲望に落ちていくだけです。
だから芥川龍之介もこう書いている。
その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞こえるものといっては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちてくる程の人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。
ですからさすが大泥棒のカンダタもやはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかりおりました。
ここでも、血の池の「赤」に対し、青系統を効果的に使って、よりドラマティックな印象を醸し出しています。
すでに池の底で果てた人、茫然自失とする人、今にも力尽きようとする人、いろいろ。
そんなカンダタの目の前に降りてきた、一本の蜘蛛の糸。
希望などという感情さえ久しく忘れていたカンダタの身体に再び力がみなぎり、全力でよじ登っていく。
ところが、ふと下を見れば、自分の後に続いて、何百、何千の罪人が蜘蛛の糸を登ろうとしている。
こんな細い糸が、これだけの重みに耐えられるはずがない。
カンダタは喚きちらす。
自分が生き残るだけで必死なのに、いつ切れるか分からない希望の糸に、何百、何千の人間がしがみつけば、カンダタでなくても、そう叫びたくなる。私もきっと同じ事を言うでしょう。
ちなみに、登山の世界では、誰かが滑落したら、仲間を救うために、自分からザイルを切るらしい。(映画『バーティカルリミット』で、宙づりになった父親が崖にしがみつく娘と息子を救う為に、息子に「ザイルを切れ!」と命じる場面があった)
それが真実だとしたら、それこそ天国の門でしょう。
人間、そんな格好よく自己犠牲ができるわけじゃなし、それほどに高潔な魂の持ち主なら、もはやこの世に生きる意味などなく、即行で天国にリクルートされるもの。
それとは正反対な人間が地上に残り、泣いたり、恨んだり、しくじったり、思うにまかせぬ人生を、地に這いつくばるようにして生きていくわけです。
煩悩から抜け出し、無我の境地に至る方が少数という点で、この世も、地獄も、大差はないかもしれません。
極楽が美しいのは、そこには競争も執着も無いからでしょう。
少なくともご馳走を奪い合う、我利我利亡者の溜まり場ではない。
極楽で憂いているのは、お釈迦さま、ただ一人。
お釈迦さまこそ、真の地獄を知る、永遠の囚われ人かもしれません(人間の苦悩という名の地獄)
芥川龍之介と心象風景としての『地獄』
初めて『蜘蛛の糸』をじっくり読んだのは、中学生の時。
最初に感じたのは、「直すところがない」→「文才」ということ。
どんな傑作でも、余計な言葉が入ってたり、句読点の打ち方が不自然だったり、むりやりマス目を埋めたような言い回しだったり、本人は凝った修辞のつもり、でも全然心に響かず、作為が見え見えだったり、いろいろ不満はあるものです。
でも、中には、非の打ち所のない文章があって、『蜘蛛の糸』は無駄な語句が一つも無いように感じました。
削るところもなければ、他に言い換えようもない。
全てがパーフェクト。
一夜で書いて、ちょちょっと修正して、数日で脱稿したんだろうなと思ったら、その他の作家が霞みのように見えたほど。
でも、本当に書くのが楽しかったのは初期の頃だけ。
後にいくほど重くなってくるのは、創作したくても創作の世界に入れず、虚構より自分の現実の方が勝ってしまったからではないかと思ったりもします。(心情吐露>>>創作)
芥川龍之介に、芸術の鬼となるメンタリティの強さがあったら、もっと長生きしたでしょうに。
優しい人だったのでしょうね。自我と周りを秤にかけたら、自分を憎まずにいないほどに。
『蜘蛛の糸』に描かれた地獄は、一つの心象風景です。
私たちが本当に恐れているのは、地獄の鬼ではなく、とっさの時に「お前ら、下りろ!」と叫んでしまう自分自身かもしれません。
※ちなみに『蜘蛛の糸』の元ネタは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に登場する『一本の葱』のエピソードです。
書籍の紹介
これは大人が楽しむ絵本ですね。いろんな挿絵がありますが、美術の素晴らしさで選ぶなら、遠山繁年氏の一冊をおすすめします。
子供に見せても、そこまで怖がらないし、善悪を教える一つの手引きとしても良いかも。
地獄の描写もいいけど、最初のお釈迦さまの温もりのあるお顔も好き。
永年のコレクションに、ぜひ。
蜘蛛の糸 (日本の童話名作選) (大型本)
by 芥川 龍之介 (著), 遠山 繁年 (イラスト)
Price: ¥1,760
43 used & new available from ¥539
『蜘蛛の糸』が収録されている文庫本はたくさんありますが、どうせなら『地獄変』と併せて読むことをお勧めします。
私も『蜘蛛の糸』より『地獄変』の方が好きなので。
興味のある方は、池上遼一が劇画で描いた『地獄変』もおすすめですよ。
初回公開日 2017年2月14日