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人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~愛の実践には厳しさを伴う(9)

目次

『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』

(4) 信仰うすい貴婦人

神は罪を犯した者を、罪のままに愛してくださる ~ゾシマ長老の言葉(8)』の続き

このパートでは、将来、アリョーシャの妻となるリーザと、その母親との再会が描かれている。

母親は裕福な地主婦人であり、ゾシマ長老の熱心な信者の一人である。

娘リーザは病気を患っており、この時点でも車椅子だが、ゾシマ長老のおかで快方に向かっていた。

アリョーシャは、かつてリーザの家庭教師を務めたことがあり、リーザいわく、「でも、この人はどうしてなにもかも忘れてしまったの? 小さいころ、わたしはよくこの人に抱かれたり、いっしょに遊んだりしたのよ。だって、わたし、この人に家へ通ってもらって、読み書きをならっていたんですもの、そういうこと、ご存知なの? (75P)」とのこと。

若い二人が、目を見交わし、好意を確かめ合う傍らで、熱心な信者である母親は、ゾシマ長老に、「来世の、死後の生活という考えが、苦しいほどわたくしを悩ましますのです。(71P)」と訴える。

「わたくしの思いますのに、一生涯信仰をもちつづけましても、いったん死んでしまえば、急に何もかもなくなってしまって、ある作家の本で読んだことですが、ただ『墓の上に山ごぼうが茂るばかり』ということでしたら、どうでございましょう、恐ろしいことでございます!

<中略>

きょうはあなたの前にひれ伏して、そのことをおたずねしたいばかりにまいりました。

<中略>

ああ、わたくしは不幸でございます! 立ってぐるりを見まわしても、みんなほとんどの人が平気でおります、いまどきの人で、こんなことを気にやんでいる人などおりはしません。だのに、わたくしひとりがこれに耐えることができないのです。死ぬほど、死ぬほどつろうございます!」

「たしかに、死ぬほどつらいことですじゃ。というても、これは証明のできることではない、信念をもつことはできますがの」

「どうやって? どのようにして?」

「行動の愛の体験によってですじゃ。あなたの隣人を行動的に、倦むことなく愛するように努力してみなされ。愛の体験を積むことができるようにつれて、神の存在も、あなたの霊魂の不死も信じられるようになりますのじゃ。

そして、もし隣人への愛において完全に没我にまで到達できれば、そのときこそは疑いもない信仰をもたれ、もはやいかなる疑念もあなたの心にきざすことがない。これはすでに確かめられた、まちがいのないことですじゃ」

「行動の愛でございますか? けれど、それがまた問題、しかも問題、大問題なのでございます! 現にわたくしは、このうえもなく人類を愛しております、この愛のためには、ほんとうにしていただけないでしょうが、なにもかも投げうって、リーズさえ捨てて、看護婦になろうと空想することもございます。こうして目を閉じまして、考えて、空想いたしますの、すると、そういう瞬間には、抑えようもない力が身内にみなぎってくるのを感じます。どんな傷も、どんな膿だらけの潰瘍も恐ろしくはなくなります。わたくし、自分の手でその傷口を洗い、繃帯を替えることも平気ですし、そういう苦しんでいる方々の付添婦になってあげて、その潰瘍に接吻することもいとわない気持ちになります……」

元看護職員として、こういう動機で入職するのは止めた方がいいです(^_^;)

一瞬で幻滅して、一瞬で燃えつきるから。

このご婦人は、「人助け」「神の救済」に憧れているだけだろう。

ある意味、周りに尽くす人間がないから、夢のように憧れることができるのだと思う。

何故なら、一般庶民は、子供の世話、老親の世話、顧客の世話、職場の世話、動物の世話、世話、世話、世話で、自分の事にゆっくりかまいつけるヒマもないからである。

言い換えれば、現実に世話する相手が無いから、「人を救いたい」「愛を実践したい」と希求するわけで、早い話、裕福で暇を持て余した婦人の憧れに他ならない。

そして、当人も、こうした希求が、一時の熱狂に過ぎないことを自覚していて、「ですが、わたくし、そういう生活を長いこともちきれますでしょうか?」と質問を投げかけている。

それに対し、ゾシマ長老はどう答えるか。

「いったいおまえはこの道を長いこともちこたえることができるのか? もしおまえがその傷口を洗ってやっている病人が、すぐさま感謝の気持で応えないばかりか、反対に、おまえの人類愛的な奉仕を評価しようとも、認めようともせず、かえっていろいろなわがままを言っておまえを苦しめたり、おまえをどなりつけたり、無理をいって困らせたり、あげくはだれか上役に告げ口でもしたら、そのときはどうだろう? それでもおまえの愛はつづくのか、つづかないのか?

わたくしは愕然とする思いで、この自問の答えを見つけてしまったのでございます。

もし人類に対するわたくしの《行動的な》愛を即座に冷ましてしまうものがあるとしたら、それは忘恩以外にありえませんのです。

つまり、ひと言で言ってしまえば、わたくしは報酬めあての労働者でしかないのです、わたくしはその場での報酬を求めます、つまり、自分に対する賞賛を、愛が愛で報われることを求めるのです。でなければ、わたくしはだれを愛することもできません!」

「それはある医者が、もうずっと以前のことになるが、わたしに話してくれたのとそっくり同じことですじゃ。 <中略> その人があなたと同じように率直に話してくだすった、なるほど冗談めかしてではあったが、痛ましい冗談でな。私は人類を愛しています、と言われるのじゃ。

ところが、われながら驚いたことに、人類一般を愛することが深ければ深いほど、個としての人間を、つまり、個々の人間をひとりひとりとして愛することが薄くなる。 
空想のなかでは、私はよく人間への奉仕ということについて熱烈な考えにまで達することがあって、もしひょっとしてそんな必要が生じたなら、ほんとうに人々のために十字架も負いかねない気持ちなのだが、そのくせ、相手がだれであれ、一つ部屋に二日とは暮らせない。 そのことは経験でわかっている。相手が近くにいるというだけで、もう相手の存在が私の自尊心を圧迫し、私の自由を束縛する。ほんのあ一昼夜のうちに、どんな立派な人間でも私は憎むようになってしまう。ある者は食事に時間がかかるからといって、ある者は、風邪を引いていて、しょっちゅう洟をかむからといって恨みだす。

つまり、私は、人がほんのちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人たちの敵になってしまう。その代わり、いつもそうなのだが、個としての人間を憎むことが強ければ強いほど、人類一般に対する私の愛はますます熱烈なものになる、と言われるのじゃ。

愛の理想について高々と説く者は、案外、身近な人間を大切にしない事が多い。

森村誠一の小説『人間の証明』でも、高名な教育評論家である八杉恭子の息子は、「仕事」を理由に家政婦に任せっぱなし、自分ではろくに面倒も見ず、福祉だ、講演会だと、飛び回っている。その欺瞞を見抜いた息子は次第にぐれて、ついには轢き逃げ事件を起こしてしまう。全国の親子問題の救い主が、私生活においては、息子を放置する薄情な母親でしかなく、とうとうと理想の教育や親子愛について語る者が、実際の親子関係においては全く機能しない典型例である。

その点を、ゾシマ長老は次のように諭す。

ただ、いまあなたがそれほどまで誠実にわたしと話されたのが、わたしからいま受けたように、あなたの誠実さに対する賞賛を受けたいというそれだけのためのものであったとしたら、もちろん、行動の愛の実をあげるうえではなんの成果にも達することはできませんぞ。すべてはただ空想のなかにのみとどまって、全人生はまぼろしのように過ぎ去ってしまうにちがいない。

そうなれば、知れたこと、来世のことなど忘れはてて、あとはおのずと安逸に甘んずるようになられるでしょう」

さらにゾシマ長老は次のように続ける。

なにより肝要なのは、嘘をつかぬこと、いかなる嘘もつかぬこと、とりわけ自分自身に対して嘘をつかぬことですじゃ、自分の嘘をよく見張り、片時もそれから目を離さぬようになさるがよい。他人に対して、また自分に対しての嫌悪の気持ちも避けなさるがよい。自分のうちに醜いと思われるものがあるとしても、あなたがそれに気づいたというだけで、もうそれは浄められるのじゃ。

<中略>

行動の愛というものは、空想の愛とはちがって、きびしく恐ろしいものじゃ。空想の愛はすぐさまかなえられる功業を渇望し、他人に認められることを求める。そうなると、ただもう手間ひま取らず、一刻も早くそれが実現するためには、しかもちょうど舞台の上でのように、みなに見てもらい、讃められようためには、生命まで投げ出してしまうようなことにも、実際になりかねない。

けれど行動の愛は労働と忍耐でな、ある人にとっては、いわば大きな学問にもひとしいものかもしれぬ。

<中略> あなたがどんなに努力をされても、いっこうに目的には近づかず、かえって目的を離れて行くような気持におそわれて、慄然となさるようなとき、――そういうときにこそ、よくよく言っておきますがの、あなたはふいに目的に到達され、たえずあなたを愛し、たえずあなたをひそかに導いておられる神さまの奇跡の力を、ご自身の上に明らかに目にされることになるのですじゃ」

愚かな自撮りで命を落とすYouTuberみたい、「賞讃を得る為なら生命まで投げ出してしまう」というのは、まったくその通りで、「自己実現としての動画、あるいは、人を楽しませたいという動機や手段が、「手間ひまかけずに賞讃を得る」という目的に置き換われば、いくつ「いいね」をもらっても、再生回数100万回を達成しても、満たされることはないだろう。

「いっこうに目的には近づかず、かえって目的を離れて行くような気持におそわれて、慄然となさるようなとき」というのは、まさに手段と目的のはき違えを言い当てている。

だが、真の愛とは、多くの手間と忍耐を必要とするもの。

子育てなどは、その典型である。

だから、声高々に愛の理想を語る人、誰の目にも分かるように慈悲深くあろうとする人が、案外、一つ屋根の下で、誰かと暮らしてみれば、腹は立つわ、面倒だわで、「個々の人間として愛することができない」というのは、そういうこと。

真に、愛の実践の厳しさを知っておれば、愛の美しい一面だけを語ることはできないし、慈愛の人を自称するなど、到底できぬもの。

それよりは、身近な一人の人間を愛し抜く方が、どれほど神の心に適うかしれない。

婦人のメサイア願望に対して、ゾシマ長老は、実に現実的、かつ冷静に説いて聞かせているのである。

ちなみに、『山ごぼう』の出店は、ツルゲーネフの小説『父と子』だそうです。

江川氏の注釈より。

『山ごぼうが茂るばかり』 ツルゲーネフの小説『父と子』の主人公バザーロフの言葉の引用。百姓がよい暮らしをできるようにと、知識人たる自分が努力しても、百姓は自分に「ありがとう」も言わないだろうし、百姓が立派な家に住む時分には、「ぼくの体からは山ごぼうが映えているだろうさ」という文脈で出てくる(二十一章)

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

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