【コラム】 芸術とはエゴ
芸術作品とは、突き詰めれば究極のエゴです。
芸術というと、なにやら高貴で、立派で、偉大で、善良なもの、というイメージがあるから、作った人も無条件に仰ぎ見られるけども、本質的には「オレさま」の世界です。
「我」への執着と情熱が人一倍強いから、「作品」という形を世に残せるのであって、家族が泣いたぐらいで「じゃあ、止めます」と心が痛むような善人には絶対に無理です。
家族が飢えようがが、女が川に身投げしようが、己が世界を構築し、自作を完成させることへの異常なまでの執着心がなければ成り立たない世界なんですよね。
そんなエゴイストの代表格みたいなリヒャルト・ワーグナーと出会ったが為に、心を奪われ、芸術こそ国を救うと信じ、国庫の予算も捧げて、人生全部狂っちゃったのがドイツの若き美青年王ルートヴィヒ二世。
平和な時代であれば、偉大な芸術の庇護者として称えられたであろうに、ドイツ動乱の時代に生まれ落ちたが為に、その気高い精神と美しい感性は、どろどろした現実の中で摩耗し、打ち砕かれ、ついには死へと追い立てられました。
世界史において、引きこもり系の人物は少なくないですが、自分の夢を具現化する為にノイシュヴァンシュタイン城まで建てちゃった圧倒的スケールにおいて、ルートヴィヒ二世に並ぶものはないでしょう。
ある意味、オタクの完成形とでも言いますか。
その一点だけ見れば、羨ましい限りです。
この究極のオタク&引きこもりを、ドイツ映画界がその威信をかけ、20億円の製作費を費やして作りあげた超大作(Amazon)が、2012年公開の『ルートヴィヒ』。
作品としては、伝説の美形俳優、ヘルムート・バーガーが演じた『ルートヴィヒ — 神々の黄昏』が圧倒的に有名ですが、2012年版も、勝るとも劣らぬ傑作。
壊れそうに繊細で美しい青年期のルートヴィヒ二世を、少女漫画から抜け出たようなザビン・タンブレアが好演しています。
【映画レビュー】 ルートヴィヒの悲劇
ワーグナーに魅せられて
オペラでワーグナーの楽劇『ローエングリン』を初めて鑑賞し、心を奪われる若きルートヴィヒ。
分かります、分かります。
ローエングリンは光で織り上げたように美しいですものね。
私も何だかんだで一番『ローエングリン』が好きです。特にペーター・ホフマン(笑)
芸術こそが国を豊かにし、平和に導くと信じる純粋無垢なルートヴィヒ。
それで間違いないのです、世界が軍備も野心も持たないのであれば。
現実は金と銃で動いている。
ルートヴィヒの理想は、リアリストの父親に無残に踏みつけにされます。
ローエングリンのスコアを目の前でビリビリと……。まるで少女漫画のような一コマです。
そんな厳格で口うるさい父王マクシミリアン二世が死去。
ルートヴィヒはなんと19歳の若さでバイエルン国王に即位します。(大学一回生ですよね)
こちらは戴冠式の前の練習。何度も決められた文句を口にしようとするけれど、ルートヴィヒの心はやはり美と平和に彩られた理想があります。
こんな重圧に耐えられるのか。
若い国王の苦悩をザビン・タンブレアが熱演します。
重すぎる王冠と音楽への憧れ
しかし、現実の統治は待ってはくれません。
国政について意見を求められると、「音楽の奇跡」だの、ローエングリンを持ち出すルートヴィヒ。
老獪な政治家にしてみたら「はぁ??」
こんな脳内・お花畑の国王に我が国の統治を任せていいのか?
すでに暗澹たるものが漂います。
「ワーグナーは猛毒です」・・まさにその通り。私も人生を毒されました。
そんな臣下の不安と不満をよそに、ルートヴィヒはかねてからの夢である「リヒャルト・ワーグナー」の招聘を指示します。
命を受けて、重役をおおせつかったのが、見目麗しい高級士官リヒャルト・ホルコヒ。ドレスデン蜂起に失敗し、重犯罪者として追われていたワーグナーを探し出します。この時のワーグナーは死ぬことも考えていました(後述参考)。ワーグナーにとっては、まさに奇跡だったのです。
どこのヘルデン・テノールかとみまごう男前。よくこんなの探し出してきたな、失神するわ。うちにも来てくれんかな・・さすがドイツは奥深い。
ワーグナーにとって、ルートヴィヒはまさに金蔓。純粋に仰ぎ見る初な青年王を手玉に取るのは赤子の手をひねるより簡単だったでしょう。
それにつけても、ワーグナーを自室に招くなど。。。世界最高の贅沢ではありませんか。ああ、羨ましい・・。
政治的に追い詰められ、死をも覚悟したワーグナーにとって、まさにこの出会いは奇跡。芸術にとっても。
そして念願の『トリスタンとイゾルデ』の上演に漕ぎ着ける(画像はリハーサル場面)。
ルートヴィヒの援助なくして、あの名作は日の目を見なかったんですよね。
そう考えると、ワーグナー・・・というよりは『トリスタンとイゾルデ』が「神に選ばれた作品」という気がします。
ドイツが威信にかけて制作しただけのことはある。とにかく全てがゴージャス。「本物」が惜しみなく登場します。建築が好きな方も楽しめますよ。
『愛の死』を聴いて、王さま、うっとり。分ります、分ります。
国難と夢の狭間
ルートヴィヒの夢はさらに膨らみ、芸術での統治に憧れる。
現実には宰相ビスマルク率いるプロイセンが今にも攻め込もうとしているのに、「オーケストラで敵に対抗する音楽を奏でよう。ワーグナーを聴けば、敵は武器を捨ててこちらに駆け寄るだろう」などと本気で言い出す始末。
国務そっちのけでワーグナーに浸るルートヴィヒに対し、廷臣らの目は厳しい(当たり前だ)。
おまけにワーグナーまでもが国政に口出しするようになり、若くて繊細なルートヴィヒの心はますます倦み、傷ついていきます。
周囲の不安をよそに、今度はバイロイト歌劇場の建設計画!
すぐそこにプロイセン軍が迫っているのに、莫大な国費を注ぎ込んで、ワーグナー御用達の歌劇場を作ろうと訴えます。
好意的な実弟オットーまでもがルートヴィヒの荒唐無稽な計画に呆れ返る。
父王の代から仕えてきた臣下も不満を通り越して呆れ顔。私が大臣でも半ギレだわ。。
ついには「ワーグナーと別れてください」と言われる始末。まるで男女の色恋のよう・・
「芸術で平和をもたらす」という理想がまったく受け入れられず、『戦争』という最も過酷で醜い現実の選択を迫られ、心身ともに疲弊するルートヴィヒ。
音楽や詩歌を愛するルートヴィヒにとって、大勢が武器をもって殺し合うなど、耐えられるものではありません。
高貴で善良な人間に軍を派遣し、発砲を命じるなど出来るはずがないのです。そんなことを嬉々としてやるのは、国民や兵士を道具ぐらいにしか思ってない悪徳政治家だけ。
本当に美しい魂をもったルートヴィヒにとって、戦争はただただ醜い現実でしかない。
けれども時代の流れ。廷臣らに押されて、ルートヴィヒは渋々、軍隊に命令を出します。
だけども、戦場で多くの兵士が傷つき、命が奪われる現実に、ルートヴィヒの繊細な神経は耐えられません。
自身の手で人を殺めているように自らを責め、錯乱します。
しかし、普通に考えれば、これが人間として当たり前の感覚なのです。
平然としていられる方がおかしい。
膨大な亡骸を前にして、茫然と立ち尽くすルートヴィヒ。
ルートヴィヒの心を慰めたのは同性間の情愛
そんなルートヴィヒにとって心の支えとなったのがリヒャルト。
ここからキャーキャー・モード。
キタ━━━(゚∀゚).━━━!!!
うわお♪♪♪
キスしたぐらいで神に赦しを乞わなくても・・(´。`)
若く美しい男たちが愛し合うのは自然じゃないですか。。
敗戦と苦難の日々
そして、バイエルンはプロイセンに敗北し、王の権利も厳しく制限されます。
さらにルートヴィヒな軟弱な態度は臣下を苛立たせ、溝を深めていきます。
ベルサイユ宮殿とノイヴァンシュタイン
そんなルートヴィヒはフランスのベルサイユ宮殿を訪れ、ここに夢の発露を見ます。
ルートヴィヒは政治から離れて、いっそう夢の世界にのめりこみ、ノイバンシュタイン城で歌わせる歌手を自分自身でオーディションする始末。
ルートヴィヒの憧れは次第にエスカレートし、ついにはオペラの演出や配役にまで口出しするようになります。
まあ、気持ちは分かるけド(^^;)
「それに、あの作品(ローエングリン)は私のものだ」
ワーグナー相手に、なんちゅう恐ろしいことを。。。
こんなことを言われて喜ぶのは、権威に媚びを売る三流芸人だけ。当然のごとく、ワーグナーは激怒し、ルートヴィヒと袂を分かちます。
あれほど敬愛していたワーグナーが去り・・
唯一心を通わせていたオーストリア公妃エリザベートとも、妹との一方的な婚約解消をめぐって絶交してしまいます。
ますます孤独となり、内にこもるようになるルートヴィヒが遺した有名な言葉。「わたしは永遠の謎でありたい」
さらには愛する弟のオットーが戦争による心の傷や、バイエルン公国の行く末を憂い、精神に異常をきたすようになります。
でも、異常というよりは、愛国の想いと、頼りない兄への怒り、やるせなさなのですよね・・(映画で見る限りは)
夢の世界に閉じこもる
もはや、この世のどこにも居場所を見いだせなくなったルートヴィヒは、ワーグナーのオペラの世界を具現化するノイシュヴァンシュタイン城に魂の救済を求め、自分の世界に閉じこもってしまいます。
ベルサイユ宮殿を彷彿とするような美しい王宮で、ルートヴィヒは昼に眠り、夜に起き出し、人と顔を合わすことを避け、厭世の暮らしを送ります。
自分専用の劇場で、お抱え歌手にローエングリンを歌わせるルートヴィヒ。究極の贅沢。
船遊びも浮世離れしています。
リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城など、ルートヴィヒの贅を尽くした心の城で夜ごと繰り広げられる浮き世の宴。。
小道具、美術も素晴らしい。
こんなクオリティの高い映画がさらりと作れてしまうのがヨーロッパ映画の凄いところ。
国王といえど湯水のように国費が湧いて出てくるわけではない。当然のこと、かかる経費は莫大。ルートヴィヒに願いに添っていては、今に国庫は空っぽになってしまう。
日記や建設計画の資料からルートヴィヒは国賊扱いとなり、精神科医らの診断により「偏執病」「統治能力ゼロ」とみなされます。
ルートヴィヒは夢の城から連れ出され、古いベルク城に一室に監禁されます。
ある日、ルートヴィヒは精神科医のフォン・グッデンと湖畔に出かけます。
映画では、制止する精神科医を払いのけ、自ら湖に入水したように描かれていますが、真相は未だ謎のまま。
ルートヴィヒは「ノイシュヴァンシュタイン城を破壊せよ」と言い残しましたが、そんな事が出来る人間がこの世にあるでしょうか。。
夢の形骸だけが時を超え、今にルートヴィヒの心の世界を伝えます。
実体を捨てて魂だけとなったルートヴィヒに果物を捧げる臣下。
Götterfunken(ゲッテルフンケン)=神々の火花で幕を閉じるところがドイツ風ロマンでしょうか。
傍目には狂ったように見える、切ない一生ですが、本当に最後の瞬間まで、この世では絶対に叶うことのない美しい夢を見ていたのかもしれません。
【芸術コラム 】現実と魂の居場所
現実社会の中で美と善は二度死ぬ
実際にルートヴィヒ二世に会ったわけではないし、史料が全てを正確に伝えているとも思わないので、ここからはあくまで映画を通した私の感想です。
思うに、ルートヴィヒという人は、いたって普通の人だったと思うのですよ。
ただ、他より繊細で、感性豊かで、純粋真っ直ぐであっただけのこと。
ルートヴィヒが次男なら……あるいは、現代のオタクなら、「音楽好きの王様」と親しまれ、狂王と呼ばれるような人生は送らなかったと思います。
むしろ、善良なパトロンとして、ワーグナーをはじめ、美術、文学、建築など、様々な芸術を庇護し、後世に多大な文化遺産を残したと思います。
芸術など、まったく解さぬ日本の統治者とは雲泥の差です。
だけども、ルートヴィヒの芸術愛は、国政という最も過酷な現実社会には通用しませんでした。
すぐ側に敵軍が迫っているのに、軍備そっちのけで、「歌劇場を作ろう」だの、「ワーグナーを聴かせれば、敵が逃げる」だの、真顔で提案するような国王を頂けば、私でも唖然とします。
だけども、ルートヴィヒの理想は、真っ当至極なのですよ。
美しい音楽で人々が憎しみを忘れ、互いに手を取り合うことができれば、これほど幸せな世界はありません。
間違っているのは武力で敵を制圧し、累々たる死体の山を築いても「正義」とする考え方で、神の目から見れば、ルートヴィヒの方が絶対的に正しいに決まっています。
だけども、現実社会では、そんな事を真顔で言う人間は、『脳内お花畑』と嘲笑されます。
そんな現実の歪みに気付きもしないほど、人間の感性も、価値観も、ひん曲がっているのです。
そして、そのことに何の疑念も抱かず、こと現実社会においては「現実的であること」を重視して、真に正しいものや美しいものには見向きもしません。
その結果、足元に広がるのは、累々たる屍の山です。
それでも、現実社会においては、それが正義なのでしょうか。
ルートヴィヒは、脳内お花畑の、狂人なのでしょうか。
ルートヴィヒの理想に現実社会との接点はありません。
「美しい音楽で平和を実現しよう」などと考える人間は、現実社会から排斥され、この世から消え去るだけです。
しかし、現実が全てとしたら、人はどこで神なるものを見出すのでしょう。
「現実にそぐわない」というだけで、真に正しいことや美しいものが排除されれば、この世はぎすぎすした野心や欲望で満たされ、嘘が正義としてまかり通るようになります。
たとえ、それが一銭にならなくても、人間には決して忘れてはならないものがある。
それを死ぬまで持ち続けたのが、ルートヴィヒです。
もし、彼が薄っぺらい音楽オタクで、権力欲だけでワーグナーを支配しようとしたのなら、国政が傾いた時点で、もっと違う方向に舵を切ったと思う。
でも、そうしなかった――というより、出来なかった。
そういう魂に生まれついたからです。
確かに、ルートヴィヒは自身の夢を具現化する為に、バイエルン国民の血税を湯水のように使い、一国を破産寸前まで追い込みました。
一面だけ見れば、無責任で、身勝手な国王かもしれません。
だけども、音楽が世界を救うと本気で信じ、その理想を国民と分かち合いたい願いもあったでしょう。
プロイセンと交戦したのも決して本意ではなく、民への愛が深いがゆえに、苦悩も人一倍だったのです。
そんな心優しい人、真の芸術の理解者にとって、現実社会に居場所はなく、行き着く先は引きこもりか、現実の破壊です。
そして、ルートヴィヒは自分の世界に引きこもり、ついに現実社会に戻ってきませんでした。
そうした息苦しさ、生きづらさこそが、現実の歪みであり、現実に踏みしだかれる美と善の悲鳴でもあるのですが、現実重視の人々は、その苦しみを見ようともせず、あたかも自分たちが現実社会の神であるかのように振る舞い、そうでない人を見下し、排斥します。
その結果、世界はどうなったでしょう。
立ち止まって問いかけても、誰も答えてはくれません。
何故なら、答えを知っている人は、とうに現実社会から排斥されて、夢の世界に旅立ってしまったからです。
ルートヴィヒは、死んでからも「狂王」と呼ばれ、歴史の上では決して褒められた人物ではありません。
しかし、ノイシュヴァンシュタイン城を見ていると、それでも自分の理想とする美と善の世界を具現化しようとするルートヴィヒの真摯な願いを痛感せずにいられません。
ルートヴィヒが本当に理解されたかったのは、芸術オタクである自分自身ではなく、彼が愛する世界の美しさではないでしょうか。
ワーグナー・そして奇跡が起こった
それに比べて、ワーグナーは世紀の俗人──というより、エゴイストですわな。
自作を自分の思う通りに上演する為に劇場まで建てさせる人は、なかなかないです。
しかし、一度でもバイロイトに行けば分かるけど、単なるエゴで建設させたわけでもないんですね。
その前に、豪華絢爛な『バイロイト辺境伯歌劇場』があり、こちらは、歌劇場というよりは宮殿。
現代は上質な照明で照らすので、余計で煌めいて見えるですが思いますが、当時の技術レベルを鑑みても、贅沢の粋を尽くしたとうい感じです。
対して、バイロイト歌劇場は質素な作り。
中に入ると、ホワイエなどは無くて、すぐホールなんですね。
ホールの前に狭い回廊があるだけ。
こちらが一席=3万円超えの客席でございます。
すべて木製で、クッションなどはありません。
君はこの椅子で3時間以上も耐えられるか?
舞台下に完全に隠れたオーケストラピット。床も柱も全て木製です。
祝祭の期間、バイロイトも真夏ですから、オーケストラ団員は、シャツ一枚で、汗だくになって演奏するそう。
この狭い空間に、150名近いスタッフが集まるでそうです。まさに奈落。
『ニーベルングの指輪』の上演記念碑。
ワーグナーも好き放題しているように見えますが、彼が生きている間、リング四部作が上演されたのは、たった一回きり。
彼はあれだけ時間をかけて作曲したにもかかわらず、生の舞台は、人生の最後の最後に、一度目にしたきりなんですね。
理由は、物語が壮大すぎて、舞台化するのは絶対不可能とされてきたからです。
ゆえに、リングを上演する為の劇場を建てたいという彼の執念も、分からなくもないのです。
バイロイト祝祭劇場が建たなかったら、それこそ無意味な大作として葬られ、後世の人間は、舞台を観ることも、演奏を聴くことすら、叶わなかったかもしれないからです。
みな、この通りを歩いて、祝祭劇場に向かうんですね。
オープニングセレモニーの時は、ドビュッシーなど、当時の大家がやって来たというのですから、歴史の重みを感じます。
後年の住まい、ヴァーンフリート荘に隣接するワーグナー博物館。
ジャン=ピエール・ポネル演出の『トリスタンとイゾルデ』の衣装。トリスタン=ルネ・コロ、イゾルデ=ヨハンナ・マイアー。
これも幻想的で美しい舞台でした。
ペーター・ホフマン様が着用していたローエングリンの衣装もちゃんとここに……
割と小柄な方だったんですね。
舞台では大きく見えますが。
ワーグナーが大変な勉強家だったのは本当です。ものすごい数の蔵書です。
ヴァーンフリート荘の正面に、今もひっそりと眠る、ワーグナーのお墓。
墓碑銘などはなく、見る人が見れば分かります。
いつも薔薇の花が手向けられています。
ちなみに、ヴァーンフリート荘の近くには、リストの住まい(現在は博物館)もあります。
こちらはワーグナーの行きつけのレストランでの記念撮影。
ワーグナーは、この場所の小さなテーブルに腰掛けて、いつもソーセージとかザウアークラウトなどを食していたそう。
現在は、歴代マエストロの指定席になっています。
私はビギナーズラックで、座らせてもらうことができました。
ワーグナーのお気に入りのメニュー。
現在もメインメニューにあります。
こちらは非公式のヒトラーの写真。
ホントに実在して、バイロイトに来ていたのだなと、つくづく。
我々日本人には、映画の中の人物みたいな感覚がありますが、実在したんですよね。
ちなみに、ワーグナー博物館では、ナチズムとの関連の研究も進んでいて、それに関する資料も多数展示されています。
ペーター・ホフマン様も御食事にいらっしゃってた♪
会いたかったわ・・
こちらは私の家宝。ちょうどバブルの末期。
三大テノールがまだまだ健全で、ベルリン・ドイツ・オペラの「ニーベルングの指輪」の引っ越し公演とか景気よくやってた頃に発刊されたオールカラーのワーグナー本です。
もうこんな書籍は二度と発刊されない。原稿を書く人さえないでしょう。
ルートヴィヒとの出会いは、こんな風に紹介されています。
サリエリに言わせたら、「神はなぜこんなエゴイストを自らの代理人に選んだのだ」と恨みたくなるのでしょうけど、ここまでゴリゴリに押せる人間だから『リング』みたいな大作が書けたわけで、なまじ心やさしい善人だったら、『オランダ人』で終わってたかもしれません。
残念ながら、神に選ばれるのは善い人ではなく、強い人なの。
強くなければ、作品を完成させることもできない。
才能じゃないよ。
我の強さと執念ゆえ、人はそれを成す。
これ、本当に完成度の高い大型判なんですよ。
私もこの一冊でいろいろ勉強させてもらったし。
本屋で買う時迷ったけど(お値段高いから)、一生の値打ち物になりました。
DVD
こちらが本作のDVD。
お値段高いけど、美術は豪華絢爛、ドイツ語も美しく、「動く教科書」みたいな良作です。
同性愛とか、俗っぽい要素は排して(キスシーンはあるけど♪)、あくまで「孤高の王」「現実に添えなかった心優しい悲劇の人」として気高く描いているのがポイントです。
ちなみに、主演のザビン・タンブレアは、次のような事を仰っているよう。
気持ちは分る。
幸せって、幸せを追ってる時が、一番幸せなんだよね☆
初稿 2015年11月8日