マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや
有名な寺山修司の短歌だが、なぜ私はこの時、作者が煙草を吸い、その銘柄は何だったのかと考えるのだろう。
ピース? ハイライト? まさかチェリーということはないだろう。
そして、その海が、なぜ青森だと思うのだろう。
しかも、時間は『夜』で、テトラポッドのある海岸だと。
ちなみに、有名な著述家にして、思想家でもある某氏が、『身捨つるほどの 祖国はありや』などという若者は信用できない、みたいな事を言っていたが、どうして『祖国』は祖国だと鵜呑みにするのだろう。
たまたま、そこに『そこく』がはまったから、そのような句に喩えただけで、実家であり、故郷であり、生まれついた定めであり、自分を縛る世間であり、いろんなニュアンスがあるはずなのだけど。
ところで、擦ったマッチと吸い殻は、どこにいったのか。
私にはポイ捨てできずに、コートのポケットに忍ばせて持ち帰った、寺山修司の姿が浮かぶ。