1+1=2ではない

1+1=2ではない ~人文軽視の末路

1+1=2ではない

私は、1+1=2だとずっと思ってたし、またそれが当たり前 だと教えられてきた。

だから何事も「1+1=2」という定規でしか物事を測れなかった。

しかし1+1=2ではない。

「2」かもしれないが、「2」である必要はどこにもないし、「3」でも「9.9」でも誤りではない。

肝心なのは、「正しい」「正しくない」というジャッジではなく、「1+1=3」も、「1+1=9.9」も等しく存在することを認め、受け入れることだ。

「3」であっても「9.9」であっても、同じこの世の事象として ありのままに見つめ、受け入れることだ。

この単純なトリックに今の今まで囚われていたバカな私。

1+1=2だと思い込む事によって、どれだけ多くのものを見失い、 フィールドを狭めてきたことか。

『人間は自分で作った観念に縛られるのが好きである』とは宇野千代さまの言葉だが、「1+1=2」のトリックはまさにその代表。

「1+1=2ではない。3もあれば9.9もある」

これを認識するかしないかで、選択の幅は大きく違ってくるし、世界観もガラリと変わる。

人間も世界も運命も多様な側面をもち、一つの定規ではとうてい推 し量れぬほど「奇」なものと知れば、世の中から「訳の分からないもの」「理解できぬもの」など無くなるし、全ての事象を「ありのまま」に見られるようになるだろう。

1+1=3であっても、それもまた己の現実として受容し、常では 無い世界の中で遊ぶ事ができるのだ。

「1+1=2」と思えば――「2」が全て、「2」が正しい――と 思い込めば、「3」も「9.9」もたちまち意味を無くしてしまう。それ以外のものを見つめたり、受け入れたりすることが出来なくなってしまう。

そして、人はたいてい、自分の作った「1+1=2」の公式の中で もがき苦しんでいるものだ。

初稿: 1999/10/12 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より 


1+1=3』の元ネタは渡辺淳一氏のエッセーです。

「1+1=2であることを証明するのが科学者なら、1+1=3かもしれない・・というファジーなところを描くのが文学」というのが、氏の論旨です。

私もこれには完全同意で、文学に絶対的な正解はないし、殺意も嫉妬も許されるのが人文だと思うのですよ。それも人間の真実に違いないから。

一般に、社会というのは、科学的ルールに基づき、不条理は受け入れられず、善悪の境界がはっきりしています。

商売にしても、刑法にしても、「5万でも、10万でも、どちらでもいいです」ということはなくて、「上限5万」なら、5万。例外も、情けも許されません。

また、それだけ厳格なルールがあるから社会の秩序も保たれるわけで、お腹を空かせたお爺さんがコンビニからアンパンを盗む度に、「可哀想だからしょうがない」で許していたら、これまたケジメがつかず、アンパンが弁当に、弁当が現金にエスカレートしても、誰も何も言えなくなってしまうんですね。

だから、可哀想でも、盗むことは断罪される。

子供でも、例外はありません。(子供自身が処罰される代わりに、親の監督不行き届きで厳重注意となる)

『社会科学』という言葉で表されるのも、社会というものが、人文ではなく、科学的論拠や思考のもとに成り立っているからでしょう。

人間の集団である社会が、一見、人文的に見えて、その実、科学的であるのは、人を治める上でファジーは「何でも情で許される」「物事に歯止めがかからなくなる」等々、問題が多いからだと思います。

一方、この科学性が、人間を追い詰めるのも事実で、じゃあ、食い詰めたお爺さんはどこに救いを求めればいいのか……という話になりますね。

その為に、福祉があり、情状酌量があり、文明社会ならではの「思いやり」があるわけですが、何にせよ、人間に対する理解がなければ、科学的論拠に基づく真っ当なルールも人を追い詰めるだけの悪法になってしまいます。

人間を相手にする以上、科学的論拠では限界があり、では何が人の救いになるかといえば、そこから先はやはり人文の世界なんですね。

言わずと知れたことですが、人文というものは、科学分野のように、数式を学んで、計算ドリルを反復すれば、能力が向上するというものではなく、たとえ「古池や かわず飛び込む 池の音」みたいな単純な文章でも、分からない人には何度読み返しても分からないし、分かる人には何も言わなくても分かってしまう、理屈を超えた世界です。

また、その解釈も千差万別で、三角関数の正解が一つしかないのとは大きく異なります。

それは人文が正しさを追求するものではなく、物の見方を押し広げる点にあるからでしょう。

ある意味、人文とは、常に新しい解釈を上書きする、あるいは枝葉を拡げていくものであり、唯一つの真実に向かって探究を深める科学とは大きくことなります。

たとえば、宇宙の起源を探る科学において、様々な学説が誕生したとしても、「ビッグバン説も正しいし、ダークマターもイケてるよね」みたいな話にはなりません。

機序が一つなら、正解も一つ。

例外も、情状酌量も許されないのが科学の世界です。

一方、人文においては、宇宙の創造者はヤハウェの神でもいいし、誰ぞのメンタルパワーでも構いません。

それぞれが、それぞれの宇宙を見つめ、自由に語り合うのが人文の世界です。

科学が正解を追い求めるのとは対照的に、人文は、様々な解釈を通じて、人と社会をゆり豊かにすることが目的だと言えましょう。

実社会においては、量子コンピュータの設計が出来る人や、水素エネルギーの開発が出来る人の方が有り難いかもしれませんが、人間というものは、自分でも信じられないほど愚かなことをしたり、ついつい騙したり、道ならぬ恋にはまったりするものです。

そこには理論も法則も一切なく、ただただ心があるだけです。

それを理解するには、善悪の境を超えた想像力が不可欠であり、こればかりは、いくらドリルを説いても、難しい専門書を紐解いても、簡単に身に付くものではありません。

そこに人文という学問があります。

世の事象を様々な角度から考察し、解釈の枝葉をひろげる試みです。

人はどう生きるべきかとか、ゴシック様式とか、深く考えたところで、何がどうなる訳でもないですが、これが科学と結びつくと、発見や工夫に繋がります。

何故なら、科学は数字や形に重きを置きますが、人文は目に見えないところから、物の本質にアプローチするからです。

目の前にあるのは、一本の樹木に過ぎないかもしれない。

学術名もあれば、おおよその生態も分かっています。

しかし、それを人と社会にどう活かすかという問題は、植物学だけでは解けません。

農地を切り開くために伐採すべきか、自然保護の観点からそのまま置くべきか、様々な道筋があります。

そして、様々な道筋の中から、より人々が幸福になる為の方法を選ぶには、植物学よりも、人文的な知識と感性が必要なんですね。

確かに、人文はコンピュータの設計やエネルギー開発に直接結びつかないかもしれませんが、緻密な設計図の中にも、それを使用する人への思いやりや社会に対する影響を織り込むことが不可欠です。

本当に完璧なシステムは、科学と人文の絶妙なバランスによって成り立つわけですね。

人文軽視は、設計上のバランスを欠き、一方的なものを作り出すことが往々にしてあります。

たとえ美観や耐震設計は完璧でも、高齢者や身体障害者の事など何一つ考慮されていないマンションに快適さは感じないように、構造計算だけでは真に価値あるものは作り出せません。

計算力を高めると同時に、人や社会に対する想像力も育むことが非常に重要なわけです。

いわば、「1+1=2」を導き出す能力と、「1+1=3かもしれない」という想像力を持つことが完成された人間の美しさであり、文芸は後者を育む学問です。

そうでなければ、古代ギリシャの時代から、演劇や詩歌や哲学が脈々と続いたりしないのです。(本当に無駄なものなら1000年前に終わってる)

シンガーソングライターの小椋佳は定年まで銀行員を勤め上げた。
人の心に触れる曲を作るには、人間社会との関わりが不可欠であることを知っていたからだ。
売れっ子でも、だんだん作品がつまらなくなるのは、内輪の世界に閉じてしまうから。
パートやボランティアや結婚生活等で人間社会の勉強を続けているアーティストは長続きする。

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海洋小説『曙光』MORGENROOD

宇宙文明の根幹を支える稀少金属『ニムロディウム』をめぐる企業と海洋社会の攻防を描く人間ドラマ。生き道を見失った潜水艇パイロットと、運命を握る娘の恋を通して仕事・人生・社会について問いかける異色の海洋小説です。
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