娘の名前は迷わず「マヤ」と付けた。
『ガラスの仮面』の北島マヤも兼ねているが、それしか考えつかなかった。
なぜかと言えば、私にとっての芸術の起点はマイヤ・プリセツカヤだからだ。
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今では「一芸に秀でる」という言葉も死語かもしれないが、芸術は人生を救う。
一つ才能があれば、それだけで人は生きて行ける。
成功、失敗に関係なく、才能とはまさに天の与えた給うた「人生の精髄」だからだ。
その強さと尊さを身をもって体現したのがマイヤ・プリセツカヤだ。
才能とは「ギフト(天からの贈り物)」。
決して粗末にしてはならないということを、私は彼女に教えられたのである。
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21世紀に入ってからバレエファンになり、現代の優美で超絶技巧に長けたプリマの踊りと、プリセツカヤが60年代から70年代にかけて残した記録映像を見比べたら、恐らくその硬質な踊りに戸惑うのではないかと思う。
人によっては、「これが20世紀最高の踊り?」と疑念を抱くかもしれない。
それくらいプリセツカヤの踊りと現代のプリマは異なる。
何が異なるかといえば、前者はその人しか持ち得ない哲学や精神性が全身からほとばしっているからだ。
たとえば、彼女の白鳥(オデット)はたとえようがないほど高貴で意志的である。
悪魔の呪いという悲劇の中にあってさえ、何ものにも侵しがたい強さと貴さを感じる。
ただ身をよじって嘆くのではなく、それでも光を見詰めて生きようとする強さがある。
その愛もまた奇跡を待つのではなく、人間として対等だ。
終幕、オデットは王子と一体になって悪魔を討ち滅ぼすけれども、その意志的な踊りを見れば、「不屈」という言葉を文字通り体感するだろう。
それは舞台監督にすら手を加えることができない本物の個性──というよりは、舞踊家としての強烈な性である。
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よく「信念をもって生きろ」という。
だが、信念は必ずしも人に幸福や平和をもたらさない。
それは時に闘いであり、孤独であり、試練である。
にもかかわらず、人が信念を有り難がるのは、本当の意味で強い人などこの世に数えるほどしか無いからだ。
多くは体制に負け、慣習に負け、不安に負け、世間に負ける。
信念は「個性」や「才能」といった言葉と同じ、多くの人にとっては「持った方がいい」という憧れに過ぎない。
だが、本当に信念に基づいて生きている人間にとっては、地獄の性である。
それ以外の何ものにもなれず、一生逃れることもできない。
だからこそ、一挙一動が周りとは違ってくるし、宙を舞うアームにさえ意志が表れる。
それはもはや「踊り」という次元を超えて、人生の所作としか言いようがない。
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瞼を閉じれば、プリセツカヤの踊る『瀕死の白鳥』をつぶさに思い浮かべることができる。
ひとりぼっちの部屋で初めてあの映像を見た時の衝撃は今も忘れない。
幸せというなら、あれほどに素晴らしい踊りに触れ、なおかつ実際の舞台も何度も目にし、20代の多感な時期に寝食を忘れるほど夢中になれるものに巡り会えたことだろう。
最後まであんな風に踊り続けたことを信じて、今はただただ深い感謝と、娘にもかのように強靱な精神を身に付けてもらいたいと願うばかりである。