この台詞は、土木技師だった父親を洪水で亡くしたヴァルターが、父を見捨てた運命を呪いながらも、運命の使者ともいうべきアル・マクダエルとの関わりを通して、ついには『己が運命を愛せ』という境地に辿り着く場面です。
何度も書き直したので、テイク1、テイク2、テイク3……と、いろいろあります。
その中の一部を転載。
テイク Ⅰ
失おうと、挫けようと、人生においては一つのプロセスに過ぎない。
心に感じること、考えること、その一つ一つが命の営みだ。
たとえ、それが不運でも、いつかは生きる糧となり、幸福への踏み台となる。
泣き、笑い、一瞬一瞬を全力で体験する、そのこと自体に意味があるのだ。
そして、いつの日か志を果たした時、その航路を振り返って思うだろう。全ては悦楽に至る道筋だったと。
幸福というなら、命そのものだ。
この地上に生を与えられ、禍福も突き抜けて、いつしか愛の高みへと到達することが人生の真の価値なのだ。
いつしか自らを喜ぶこと 自らを悦ぶ
自身と世界への深い愛の境地に辿り着く。それこそが人生の味わいなのだ。
上記と似通ってますが、微妙に違う、テイクⅡ
テイク Ⅱ
幸福というなら命そのものだ。
日々を味わい、禍福を突き抜け、生を味わうのが人生の真の価値なのだ。
いつしか世界への深い愛に満たされる。
日々学び、禍福も突き抜け、いつしか世界への深い情愛に満たされる。
この地上に生を与えられ、禍福も突き抜けて、自らと世界に溢れんばかりの愛を包む愛の境地に到達することが人生の真の価値なのだ。
その完成された精神の形が『円環(リング)』だ。
もはや何ものにも脅かされぬ、明鏡の静けさがある。
無くしては見出し、挫けては立ち上がり、何度生まれ変わっても、自らの生を愛さずにいないだろう。さながら永遠の環を廻るように。
この地に生きる人、リングに携わる一人一人にも、そのような幸福が訪れるように。
そして、大宇宙の片隅で、このような機会と責務を与えられたことを心から悦ばしく思う。同じ人生、同じ苦難を、何度生きてもいいほどに。
だから、父さん。
もう一度、大きな声で言うよ。
「これが生だったのか、よし、それならもう一度!」
天頂に昇る、あの輝かしい太陽に向かって。
『人間の存在理由と深海の生き物 意味や役割があるから愛されるわけじゃない』や『知見は時に絶望しかもたらさない フランツ・カフカの『ロビンソン・クルーソー』』にも書いているように、「生きる」ということは、人生を味わう為の手段であって、それ自体が目的ではないんですね。
生きることに、意味づけするのも、しないのも、自分の行動次第だし、行動しなければ、頭の中でどのように理屈を説こうと、何の意味も成さないのです。
ある意味、『存在理由』とか、『生きる目的』とかいうものは、行動の過程や結果を通して実感するものであって、最初からそこを目指して突き進むものではないんですね。
恋愛でも、仕事でも、何でもそうですが、意味とか目的とかいうものは、経験した人にしか分かりません。
そんでもって、経験から、本当の意味で学べる人は、案外、少数なのです。