生を愛する ~失おうと、挫けようと 【心に効く言葉】

海洋小説『曙光』MORGENROODより、命と人生に関する抜粋を掲載しています。

本記事の内容
  • 人間にとって本当の幸せは、自分自身を肯定できること
  • 生を愛する ~失おうと、挫けようと
  • 若さゆえの劣等感と敗北感 あるいは挫折感
  • 心にとっての《死》
  • 今この子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷に思える。
  • 人間にとって本当の幸せは、自分自身を肯定できること
    ヴァルター。

    人間にとって本当の幸せは、自分自身を肯定できることだ。

    生きること、存在すること、悩み苦しみも含めて、自分の人生を心から愛せることだよ。

    その想いは、いつか君にこう叫ばせる。

    これが生だったのか。よし、それならもう一度!』。

    たとえ思う通りの結果が得られなくても、懸命に生きようとする意思はそれだけで尊い。どれほど辛くても、もう一度、この人生を生きたいと願うほど愛せたら、それが魂の幸福だ。

    生きて、生きて、最後まで生き抜いて、素晴らしい人生を送ってくれ。

    第一章 運命と意思より

    愛をもって、人生への愛を説く。

    子供の心に響くのは、そこに愛があるから。

    たとえ、その場では意味が分からなくても、

    生涯、実感できなくても、

    子供は何かを掴もうと努力する。

    親の愛と教えに報いたいから。

    そして、その願いは、死も超えて続く。

    なぜなら、子は親の愛に報いるために、全力で生きようとするから。

    子供が自分自身と自分の生を心から肯定できること。

    それが親にとって最大の幸福。

    その対極にあるものが、無気力、無関心、緩慢な心の自殺。

    魂の幸福とは自分を肯定できること

    あわせて読みたい
    『これが生だったのか。それなら、よしもう一度!』  自己肯定と魂の幸福 ・ニーチェの哲学より
    『これが生だったのか。それなら、よしもう一度!』 自己肯定と魂の幸福 ・ニーチェの哲学より永劫回帰とは、もう一度、この人生を生きてもいいと思えるほど、自分自身と自身の生を愛する気持ちです。自己肯定の大切さを説いたニーチェの名著『ツァラトゥストラ』をモチーフに、死にたい子供にいかに生きる希望を与えるかというエピソードを紹介。
  • 生を愛する ~失おうと、挫けようと

    生きることに意味なんて、ない。

    人生に目的など必要ない。

    そういう見方もできるかもしれません。

    が、一方で、本当に目的なく生きていけるものでしょうか。

    行き当たりばったりに見える人も、意外と、心の中に「これ」という指針を持っているもの。

    社会の役にたつ仕事がしたいとか、身の回りの友人や家族を大事にしたいとか。

    あまりにも当たり前すぎて、『目的』というほどではないのかもしれませんが、大なり小なり、「これ」というなら、それは十分目的に値すると思います。

    社会に役立つにしても、身の回りの人を大事にするにしても、自分を生かすことを考えるなら、それは人生の目的に他ならないのです。

    だが、今なら生の意味がはっきりと分かる。この命が何の為にあるかも。

    失おうと、挫けようと、人生においては一つのプロセスに過ぎない。

    心に感じること、考えること、その一つ一つが命の営みだ。たとえ、それが不運でも、いつかは生きる糧となり、幸福への踏み台となる。

    泣き、笑い、一瞬一瞬を全力で体験する、そのこと自体に意味があるのだ。

    そして、いつの日か志を果たした時、その航路を振り返って思うだろう。

    全ては悦楽に至る道筋だったと。

    幸福というなら、命そのものだ。

    禍福も突き抜けて、いつしか愛の高みへと到達することが人生の真の価値なのだ。

    --自らと世界を愛することを知る--

    第六章 断崖の下書き

    上記は、ヴァルターがポルトフィーノで悟ること。

    最終的に違う内容にしましたが、大体、同様の台詞は残しています。

    どんな望みを持つにしろ、「自分を生かし、周りも生かす」ことが、その人に大きな悦びと自信をもたらすのは間違いないでしょう。

    そして、その為には、自分の中に知性、感性、想像力、応用力、根気など、豊かな蓄えが必要です。

    教則本だけ読んでピアノの弾き方を習得しようとしても、決して弾けるようにならないのと同じ、人生も机上で理屈を積み上げても、決して身に付くことはありません。一見無駄と思えるような経験からも人は学ぶことができます。生きて経験すること、そのものが人生の糧であり、何かを成したから偉い、何かを得たから幸福というわけではないんですね。

    生きること、そのものを悦ばしく感じるようになれば、もう二度と、余計なことで心を煩わされなくなります。(アップダウンはあるにしても)

    それを悟るまでが、青春時代の試行錯誤だと思います。

  • 若さゆえの劣等感と敗北感 あるいは挫折感

    盗人の烙印を押されたまま、誰にも信じてもらえず、故郷にも戻れず、世間を欺いた卑怯者として人々の記憶に残るぐらいなら、いっそこの世から消えてしまいたい――と思ったこともあったが、結局、その勇気もなく、負け犬みたいに拾われて、今は成功者の圧倒的な強さ(パワー)に打ちのめされるばかりである。

    《曙光》MORGENROODのボツ部

    テーマとして一番描きやすいのは、若者の劣等感や敗北感、挫折感、等々。

    映画でも、漫画でも、読者の共感を一番呼ぶのは、若い主人公がボロボロに打ち負かされて、そこから這い上がってくる姿だろう。

    言い換えれば、ヒーローに挫折はつきものだし、劣等感とも敗北感とも無縁なキャラクターには何の魅力もない。

    これは実在の人物にもいえることで、有名人の講演会でも、伝記でも、一番印象に残るのは、その人の失敗談や暗黒史であろう。

    そう考えると、強がりも、開き直りも、若い人にとっては、あまり魅力的とはいえない。かえって胡散臭い人物に映ることもある。

    一番いいのは正直に生きること。

    若さゆえの正直というのは、何でも馬鹿正直に打ち明けることではなく、自分の感情に素直であることだ。

    思うに、人生の出発点というのは、低ければ低いほど、後で高く飛べるのかもしれないね。

  • 心にとっての《死》

    『死』というなら、生きる支えも、信じられるものも無くして、絶望と虚無感に取り憑かれること。

    《曙光》MORGENROODのボツ部

    「そういう意味では、俺は生きながらに死んでいるのも同じこと」

    と続く。

  • 今この子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷に思える。

    「死にたい」の反語は「生きろ」ではなく、「そんなあなたの側に居たい」だと私は思います。

    「そんなあなたが好き」という言葉もありますね。

    大洪水で父親を亡くしたヴァルターは、移住のストレスもあり、すっかりやつれて、悪夢にさいなまれるようになります。

    母のアンヌ=マリーは、なんとか息子を力付けようとしますが、サッカーも、学業も、父に結びつく思い出は息子の心を苦しめるだけ。かっては少年サッカーのスターだった息子も、同じ年頃の少年らが元気よくサッカーに興じる姿を見て、幼子のように涙をこぼすだけです。

    だが、彼は痛いほど金網を握りしめ、幼子のように涙をこぼすだけだ。以前は肉付きもよく、ピューマのようにしなやかな体つきをしていたのに、今は痩せて見る影も無い。
    このままでは高校はおろか、中学校を卒業することさえままならないのではないか。
    子犬のように声を押し殺して泣く息子の姿にアンヌ=マリーも胸を刺し貫かれ、今、この子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷にも思えた。
    大洪水と父の死 繰り返される悪夢と心的外傷のボツ

    傷ついた子供に「頑張って生きるのよ」と言葉で励ますのは簡単ですが、絶望しきった人間に、生きる力など、そうそう湧いてくるものではありません。
    まして死んだ親への愛着に対し、慰める術もないというのが現実ではないでしょうか。

    打ちひしがれた息子の姿を見て、アンヌ=マリーは、今、息子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷に感じ、ただただ側に寄り添うことを選びます。あれこれ立ち直りを急がせるより、心の傷が癒えるのを、ゆっくり、共に待つ姿勢が大切なのです。

    心が弱った人にとっては、幾千の励ましより、目に見えるアクションより、ただ黙って側に寄り添うことが最大の支えです。

    逆に、支援者が「何かしなければ」と急ぐのは、「何もしてない(できない)」自分への負い目や罪悪感の裏返しかもしれません。

    参照記事 → 言葉の問題は自尊心を傷つける『大切なのは自分自身を好きになること』

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

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