ジョーカー バットマン

それでも『ジョーカー』が勝てない理由 ~君は溺れる者の口にホースを突っ込んで完全に沈めることができるか?

ジョーカー バットマン
生まれながらに正義の側のブルース・ウェイン(=バットマン)。
努力しても、努力しても、不遇から抜け出せない、心優しいアーサー(=ジョーカー)。
『自己肯定感』をテーマに、人間の強さを語る映画レビュー。

二人のジョーカー ジャック・ニコルソンとホアキン・フェニックス

令和の時代の映画ファンにとって、バットマンといえば、クリストファー・ノーランの三部作『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』『ダークナイトライジング』を意味するのだろうが、私のような#ハリウッド老人会の代表に言わせれば、『ティム・バートンのバットマン』こそが、アメリカン・コミックの世界観を忠実に再現した最初の作品と思う。

やたら鼻から下が長い、マイケル・キートンのバットマンは言うに及ばず、セクシーを絵に描いたようなヒロイン、キム・ベイジンガー(ヴィッキー・ベイル)のとろけるような魅力。慈愛にあふれた黒執事アルフレッド(マイケル・ガフ)。どこか間抜けで、知性もへったくれもないジョーカーの手下たち。アクション映画でありながら、どこかダークファンタジーのように美しいティム・バートンの演出は、さながら武器を手にした『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』という感じ。

わけても、名優ジャック・ニコルソンが演じたジョーカーは、現代に至るまで、キャラクター造形の基礎になるものだ。

ホアキン・フェニックスが演じた新作『ジョーカー』でも、ジャック・ニコルソンに対するリスペクトを感じずにいられなかった。

もっとも、ティム・バートンのバットマンは、ハードアクションを期待して劇場に足を運んだ、アメコミ・バットマンのファンをおおいに失望させたせいか、クリストファー・ノーランの三部作に押されて、今ではほとんど話題にもならず、悲しい限りだが、私にとってバットマンといえば、やはりティム・バートンであり、ジョーカーといえば、ジャック・ニコルソンだ。

当時、カリスマ的存在だったプリンスが、サイケなコスチュームを身につけ、スリムな体躯をくねらせながら、「チャンチャーラ、チャンチャーラ、チャンチャーラ…ばっっま~ん♪」と声高々に歌っていたインパクトも大きいだろう。

私が特に好きなのは、全体にダークな色調の中で、ジョーカーだけが毒々しいまでにカラフルなコスチュームを身につけている点だ。

言うに及ばず、バットマンといえば、ダークナイト。その象徴色は黒である。

対して、ジョーカーは、お菓子の家みたいにキュートで、カラフルである。

陰気で重々しいゴッサムシティと、その暗闇をコウモリのように駆け回るバットマンに対して、色キチガイみたいなジョーカーが、「ひゃーっはっはっは」と高笑いしながら暴れ回るから、ジョーカーの俗悪かつアナーキーな魅力も際立つわけで、両者のキャラクターを色の対比で表現したティム・バートンの美術センスは見事という他ない。

その中で、私たちのイメージする「ジョーカー」の造形を最初に作りだしたのは、ジャック・ニコルソンとティム・バートンであり、ホアキン・フェニックスの新作ジョーカーは、この偉大なレジェンドを踏襲しつつ、現代の社会事情に合わせて、上手にキャラクターを進化させたと思う。

正直、本作を観るまでは、あまり期待していなかった――もしかしたら、クリストファー・ノーランが、ティム・バートンの世界観を根っこから覆したように、ジョーカーというキャラクターも、まったく新しい悪役としてリボーンさせるのではないかと案じていたが、予想は見事に裏切られた。ホアキン・フェニックスの新ジョーカーは、バットマン誕生の動機付けとして何ら破綻することなく、ごく自然に狂気の世界へと導いてくれたからだ。(本作を観れば、きっとティム・バートンのバットマンを続きで観たくなると思う)

洗うがごときの赤貧となると、こいつはもう悪徳なんですな

ドストエフスキーの名作『罪と罰』に、こんな台詞がある。

飲んだくれの亭主で、落ちこぼれの退役官吏マルメラードフが、苦悩する大学生ラスコーリニコフを相手に、自らの貧しい境遇を語る場面だ。

しかし、貧乏もですよ。洗うがごとき赤貧となると、こいつはもう悪徳なんですな。

ただ貧しいというだけなら、人間本来の高潔な感情も持ち続けていられる。

ところが、貧乏もどん底になったら、そうはいきません。

貧乏のどん底に落ちた人間は、棒で追われるのじゃない。

箒でもって人間社会から掃き出される。

つまり、屈辱を思いきり骨身にこたえさせろという寸法ですな。

いや、それが道理なんですわ。

なぜって、貧乏のどん底に落ちると、私など、まず自分で自分をはずかしめにかかりますからな。

江川卓・訳 『罪と罰』

ホアキン・フェニックスのジョーカーも、病弱な母親から、「どんな時も、周りにスマイルさせなさい」と教えられ、その通りに生きてきた。

自らも「突然笑い出す」という精神障害を抱えながら、大道芸の道化として真面目に働き、いくばくかの給金を得て、必死で生活を支えてきた。

だが、その高潔な精神も、理不尽な暴力や侮蔑、努力しても努力しても這い上がれない不遇の中で、無残に踏みにじられ、まるで理性の糸が切れたように、狂気へと向かっていく。

最初、病気として「ヒャーッハッハハ」と笑っていたホアキン・ジョーカーが、次第に自らを蔑み、やがては社会全体を愚弄する笑いに変わっていくのは、前述のマルメラードフの苦悩となんら変わりはないだろう。

そして、そのジョーカー笑いは、映画に限った話ではなく、現実にも至る所に存在する。

SNSでも「冷笑系」と言われるアカウントが存在するが、現実にとことん苦しめられたら、マックのドナルドみたいに、I’m Lov’n it などと能天気に微笑む気持ちもなくすだろう。

そして、彼等が絶望と失意の中で自分自身を蔑んでいるうちはまだいいが、隣人を、秩序を、世界全体を愚弄し、自分を生み出した社会への復讐として破壊行為に走れば、それが世界の終わりの始まりだ。善と美に彩られたディズニーワールドは、たちまち無秩序なゴッサムシティと化し、映画終盤のように、富裕層やインテリ階級をぶった切るジョーカーが民衆のヒーローとなる。

今はまだ理性を保っているが、人間どこでぶち切れるか分からず、ひとたび切れた時の勢いは、シャンゼリゼ通りの高級店を焼き払う黄色いベスト運動の如くだ。

もはや忍耐とか努力などという言葉では乗り切れないほどの生活苦と絶望を、多くの民衆は味わっている。

「もはや綺麗事は聞きたくない。とにかく、金を寄越せ。そして、人として扱え」

それが全てだろう。

仕事もなく、愛してくれる人もなく、社会の善も信じられないとなれば、狂気ぐらいしか自分を解き放つ場所もない。

貧苦も、絶望も、突き抜けたジョーカーの笑いが、cynical (冷笑的)でも、改造車で駆け回るウォー・ボーイのように mad (熱狂的)でもなく、ひたすら insane(心神喪失) なのは、理性との決別こそが、唯一、この世から逃れる道筋だからだろう。

それでもジョーカーがブルース・ウェインに勝てない理由

そうなると、絶対的正義の象徴『バットマン』が、”あちら側の論理”にしか見えなくなるのは、何とも言えず皮肉である。

特に、ジョーカーの出生をめぐるエピソードは、バットマンのヒーロー伝説に泥を塗るものだった。

作中では強く否定されていたが、「母親がもっていた、あの写真はなんだ?」という疑惑はいつまでも残るだろう。

それもこれも、バットマン(ブルース・ウェイン)の父親、すなわちトーマス・ウェインが、「金持ちの権力者」に他ならないからである。

これがアパートの住人なら、「妄想もここまでくると重症だな」で済むが、相手がトーマス・ウェインとなれば「有り得るだけに怖い」。

それもこれも、庶民の生活苦をよそに、周りに美女をはべらせ、夜な夜な快楽に耽る金持ちのイメージゆえである。

だが、実例が存在する以上、品行を疑われても仕方がない。

それに不満を呈するのは貧乏人のひがみだろうか。

私はそうは思わない。

こと自分の利益に関しては、オオカミになれる人間でなければ、あんな豪邸も建たないし、人も安月給で使うことはできないからだ。

周りの不幸にいちいち心を痛め、あなたも100円どうぞ、と我が身を削っていては、富など到底維持できないからだ。

実際、ジョーカーの中身であるアーサーという男は、病身の母親に尽くし、小児病棟の子供にも笑いを与えるほど慈悲深い。

アーサーは、人生崩壊のきっかけをつくったランドルを殺害した時、その場に居合わせた小さい人は「自分に親切にしてくれた、唯一の人だから」という理由で見逃すが、金持ちなら、こんな脇の甘いことは絶対にしない。相手がいかに善良でも、いつ自分の違法行為をリークするか分からない危険分子である。

そう言えば、現代の格差社会の一因を作ったグローバル企業の代表格『マクドナルド』の創立者(ファウンダー)、レイ・クロックと、真の生みの親であるマクドナルド兄弟の気の毒な顛末を描いた映画 『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』で、「レシピも、権利も、何もかも我々から奪い取る気か!」と非難するマクドナルド兄弟に対し、レイ・クロックは「目の前で人が溺れたらどうするか? オレはそいつの口にホースを突っ込んで、水を流し込んで、完全に沈めてやる」と言い放つ。この利己主義こそがグローバルパワーの源泉だ。「マクドナルド兄弟に悪いことをした。同じくらい分け前を与えるのが、人としての礼儀だ」などと考えるようでは、到底、世界展開など叶わない。相手が子供だろうが、貧困国の住人だろうが、売って、売って、売りまくって、従業員は生かさず殺さずのぎりぎりの給与で使い倒して、最大限の利益を上げる。人の不幸にいちいち心を痛めるようでは、富も権力も到底維持することはできないのだ。

その点、アーサーは優しすぎる。

もちろん、ジョーカーになってからは、完全に理性も良心も失って、悪徳の限りを尽くすが、それでもどこか人として弱い。

生まれながらのお坊ちゃんで、鷹揚に育ったブルース(=バットマン)とは、屋台骨の質が違う。

言うなれば、「自分は日の当たる側の人間。周りに尊敬され、愛される値する」と心の底から信じられる人間と、「どうせ何をやってもドブネズミ」としか思えない人間との肯定感の差だ。

肯定感のある人間と、ない人間が争えば、肯定感の強い人間が勝つに決まっている。

根っこに自己否定や自己卑下の気持ちがあると、「自己」に代わる武器を持たなければならない。

それは美貌だったり、理論武装だったり、いろいろだ。

ジョーカーのように銃器を手にする人間もいるだろう。

だが、道具は所詮、道具に過ぎず、道具が尽きれば、戦闘力もまた落ちる。

その点、肯定感の強い人間は、自分を武器に何度でも戦える。

ヒーローが物語の途中で危機に陥っても、必ず立ち直って、最後には悪を滅ぼすのは、そういうことだ。

どんな争いでも、「自分こそ絶対正義」と信じられる者が一番強いのである。

そういう意味で、正統派お坊ちゃんで、自己肯定感にあふれたバットマンを、ジョーカーは決して倒すことはできない。

たとえ銃器、爆薬、ありとあらゆる武器を手にして、バットマンに襲いかかっても、根っからのドブネズミであるジョーカーは、常にバットマンの「堂々たる正義」に打ち負かされることになる。

もちろん、バットマンとジョーカーの戦いはお伽話だが、現実社会においても、根っからの負け犬が、どれほど屁理屈を並べても、純血種のエリートに勝てないのは、そういう意味である。

ちなみに、『ファウンダー』でレイ・クロックを演じた俳優が、初代バットマンのマイケル・キートンというのも興味深い。

『タクシードライバー』のトラビスと現代のジョーカーとの違い

本作では、コメディアンを目指すアーサー(=ジョーカー)の憧れの存在として、ロバート・デニーロが登場する。

デニーロの役どころは、TVショーの人気コメディアン、マレー・フランクリンだ。

人を傷つけない程度の、スパイシーなジョークで聴衆を沸かせるマレーは、決して奢り高ぶった人間ではないし、むしろ、アーサーの芸に興味を示して、自身の人気番組にゲストとして招待するほどである。

そして、あまたの感動作なら、「人気コメディアンに見出され、スターの道へ」となるのだが、本作はそうはならない。

さながら娼館に乗り込んで、ポン引きの悪党どもを片っ端からマグナムで始末する、映画『タクシードライバー』のトラビス・ビックルの如く (→ 参照記事 哀愁のジャズとマグナム『タクシードライバー』は何故に名画となりしか

大物俳優であるデニーロの吹っ飛び方も様になっていて、次代のスターであるホアキン・フェニックスに、上手に花道を譲った印象だ。

デニーロが本気を出せば、マレーの存在を、もっと色濃く印象付けることもできただろうに、そこは大物の余裕というか、実に控えめな演技に感じた。

ところで、ハリウッドにおけるピカレスクのヒーローといえば、映画『タクシードライバー』のトラビス・ビックルが最たるもので、あの作品に感化されたジョン・ヒンクリーが実際にロナルド・レーガン元米大統領を銃撃しようとしたのは非常に有名な話だ。

ベトナム帰りのトラビスは、心に深い傷を負い、夜も眠れず、まともな職に就くこともできず、ぼろアパートの一室で孤独にさいなまれている。

有る時、大統領選のボランティアを務める白いドレスのベッキーに恋をし、デートに誘うことに成功するが、彼女をポルノ映画に連れて行った為に、即行、愛想を尽かされ、再び孤独に陥る。

そんな中、夜の街で見かけた12歳の少女娼婦アイリス(ジョディ・フォスター)に目を留め、こんな汚れた生活から足を洗うよう説得するが、幼いアイリスは意味もわからず、鼻で笑うだけだ。

そして、自らが「町の腐敗を洗い流す雨」となり、娼館に乗り込んで、悪人どもをマグナムで始末するというハードボイルド。

トラビスのモヒカン姿といい、ガスコンロに拳をかざして筋肉を鍛える場面といい、自作の隠し小銃といい、全てがクレイジーにもかかわらず、孤独な男の哀愁が滲み出し、殺人の場面さえ芸術的に見えるほど。

トップ・フィリップス監督も、映画『タクシードライバー』へのオマージュと明言し、現代のジョーカーとトラヴィス・ビックルと現代のジョーカーを重ね見たくなる気持ちも分かるが、ロバート・デニーロが「ロバート・デ・ニーロ「『ジョーカー』は『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』とは違う」とコメントしているように、ジョーカーとトラヴィスは似て非なるものだ。

何が違うかと言えば、トラヴィスは義心から、ジョーカーは自己崩壊から、殺戮に走る。

得手勝手な正義感とはいえ、トラヴィスには「町の腐敗を洗い流し、少女娼婦を救い出す」という社会的な動機があり、社会的弱者であるジョーカーの怨念とは根本から違うからだ。

確かに、トラヴィスもベトナム戦争に駆り出された社会の被害者であり、帰ってきても感謝もされず、まともな職もなく、孤独と貧困に喘ぐ若者の一人である。
(トラヴィスがどういう理由でベトナム戦争に参加したのか、経緯は描かれていないが、おそらく政府のプロパガンダを真に受けて、世を正すと信じて従軍したような気がする)

ベトナムでどんな風に戦ったのかは知らないが、無益な戦争に青春時代を捧げて、手に入れたのは不眠症だけ。家族にも友人にも相手にされないところをみると、従軍は社会的に恥ずかしいこととみなされ、我が家の英雄から転落したかのようだ。

それでもトラヴィスは善悪の判断を持ち続けるし、一時的に狂気にかられても、ポン引き以外は襲わない。なぜなら、彼のinsaneは、一応社会正義に基づくものだからだ。

対して、ジョーカーは秩序の崩壊を望む反逆者であり、何の理想も持たない虚無主義である。

気に障るものは何でも破壊し、否定する。

ポリシーをもって人間をふるい分け、狙う相手を定めるトラヴィスとは根本的に異なる。

そして、現代が大量に生み出しているのは、世の中への恨み辛みを抱えた人たちだ。

トラヴィスのように、悪を断って、正義をなす気持ちもなければ、本気で社会を変える気もない(個人の力などたかが知れていると諦めきっているので)。

ただもう憂さ晴らしのように襲い、壊す。その結果、世界が灰になっても、まだ腹の虫は収まらないだろう。

こうした大衆の貧苦を知って、持てる人々は格差を是正し、少しでも富を再配分しようとするだろうか。

答えは恐らく否だろう。

一度得たものを、人はそう簡単には手放さないと思う。

自尊心を満たすための人助けはするが(ニュースで取り上げられた病気の子供とか、故郷の被災地とか)、どこの誰かも分からない貧者の為に身銭を切る気持ちにはならない。

そして世界はどこに向かうかといえば、分断から隔絶、あとは徹底した無関心だ。

ベルサイユ宮殿のように、広大な園庭を柵で仕切って、そこから先は見ない、聞かない。知らないものは存在しない。

他人の不幸にも馴れて、もはや何の感慨もなくなっていく。

そして打ち捨てられた人はどうなるのか。

路傍で、あるいは、締めきった一室で、人間以下の死が待っているだけだ。

空を見上げれば、雲を突くような高層ビルが立ち並び、その上階では着飾った人々が高級料理に舌鼓を打っているというのに?

昭和の時代、世界は三度、戦火に包まれ、人類も滅ぶと囁かれてきたけれど、21世紀は、火器ではなく、先の見えない貧苦によって大勢が社会的死に追いやられるのだろう。

そうなってもまだ、原因を作った者は、謝りもせず、正そうともせず、現世の愉楽を享受しながら、ああ、面白かったと一生を終えていく。

いつか本当にトラビス・ビックルが夢想するような「町の腐敗を洗い流す雨」が降ったあかつきには、人間の創造そのものが失敗であったと、神を嘆かせるのかもしれない。

ホアキン・フェニックスとヘタレ皇帝の哀愁

令和の映画ファンは、もしかしたら新作『ジョーカー』をきっかけに、ホアキン・フェニックスという俳優を知ったかもしれないが、私はラッセル・クロウ主演の『グラディエーター』でシスターコンプレックスのコモドゥス皇帝を演じた時から大ファンでしたよ。名前とイメージがアレなんで、ついついアナキンと呼んでしまいそうになるが。

あの頃はホアキンもまだふっくらとして、剣闘士として再び皇帝の前に現れた将軍マキシマス(=ラッセル・クロウ)が、皇帝の命に背いて、くるりと背を向けた時、「おい! グラディエーター! 皇帝に背を向けるな!」を声を震わせながら威令する場面が何ともいえず可愛かったもの。

役柄としては、小心かつ利己的な皇帝で、『ベンハー』の仇敵メッセラほどのあくどさもなく、おいおい、こんな繊細な性格で、よくローマを統治しようなどと思ったものだ……と言いたくなるような、ヘタレぶりだが、ホアキンの演技は、冷酷な中にも、父に見捨てられた子の哀れを感じさせ、この頃から、独特の存在感を醸し出しておりました。切羽詰まって、実のお姉さんに「我が世継ぎを産め」とか言うし^^; 

肉と肉がぶつかりあうコロッセウムの決闘。ホアキン様のウェ~イな表情がたまらん。

ぷるぷると怒りに震えるローマ皇帝も乙なもの。

キャリアの過程には、アルコール依存症を患ったり、暴力沙汰を起こしたり、いろいろ問題もあったようですが、こうした私生活の苦難も含めて、ジョーカーに見事結実したという感じ。次のアカデミー主演男優賞は間違いないでしょう。長年のファンとしては嬉しい限りです(^_-)-☆

ティム・バートン & ジャック・ニコルソン

ジョーカーといえば、やはりジャック・ニコルソンの功績が大きい。

暗黒のゴッサムシティで、極彩色のコスチュームを身につけ、狂気(mad)というより、完全にイカれた(insane)、秩序の破壊者として、自由奔放に振る舞う様が素晴らしい。
新作ジョーカーでもチャップリンが登場するけれど、ジャック・ニコルソンの動きも、どこかチャップリンです。

クリスチャン・ベイルのスマートなバットマンも格好いいけど、私はやはりマイケル・キートンのもっさりしたバットマンが好きだし、ヒロインもキム・ベイジンガーの方が好きなんですね。ナインハーフのインパクトがあまりに強いせいか、出てくるだけでエロい感じがいいです。

私の一番のお気に入りは、プリンスの楽曲に合わせてパレードするジャック・ニコルソンのジョーカー。

ニコルソンのジョーカーは、人格破壊者というより、おふざけが大好きなはみだし者という感じ。

それがクリストファー・ノーランの三部作で、どこか哲学的な存在に進化し、新ジョーカーでは格差社会のアイコンになっちゃった。

ホアキンのジョーカーを見た後、ニコルソンのジョーカーを見ると、ほっとする。

こちらが世界的にヒットしたプリンスのBatdance。

チャンチャ~ラ、チャンチャ~ラ、チャンチャ~ラ…ばっまーん! のフレーズは一度聴いたら忘れられません(*^_^*)

ちなみに、ニコルソンのジョーカー笑いは、ノーラン版のシニカルでもなく、ホアキンの病的な笑いでもなく、世間の偽善を嘲笑うという感じ。

お前ら、金が好きだろ? 実は、正義なんか、どうでもええやろ?

ほら、金や! 受け取れ! 

神とか、善行とか、とことん茶化して嘲笑う、ひょうきん族の世界やね。 

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猿の惑星 ティム・バートン

アイテム

マイケル・キートンの元祖バットマン。Amazonプライムでも上映中。
これはティム・バートンの美術を堪能する為にも、一度見ておいた方がいいです。
クリストファー・ノーランの三部作を見て、ヒース・レンジャーのジョーカーに感銘を受けた人が、遡って本作を観れば、不満しか感じないと思いますが、#ハリウッド老人会では、バットマンといえば、これなのです。
これは”バットマン”というより、ティム・バートンの世界観を楽しむ作品かもしれませんね。
ついでにキム・ベイジンガーの魅力と。

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溺れる者の口にホースを突っ込む、マクドナルドの創始者レイ・クロックと、何もかもレイにぱくられたマクドナルド兄弟の悲劇を軽快なタッチで描く社会派ヒューマンドラマ。
真偽はともかく、見るべき映画です。脚本も、マイケル・キートンの演技も秀逸。

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