キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ゾシマ長老とイワンの問答より(10)

目次

『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』

(5) かくあらせたまえ、アーメン1

人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~愛の実践には厳しさを伴う(9)の続き。

アリョーシャの最大の気掛かりだった、父フョードルの道化ぶりも、長老の寛大な心により、大事には至らず、逆に、フョードルの好意と信頼を勝ち取る。

一方、第二の気掛かりである、無神論者のイワンは、意外にも二人の修道士祭と活発な意見を交わし、その態度は、「先進的か博学か」を自負するミウーソフもやきもきするほど、知的で、科学的である。

もともと彼(ミウーソフ)は学識の点で、イワンと張り合うような立場にいたし、相手が自分に対していくぶんそっけない態度を取るのは腹に据えかねていたということである。
「少なくともこれまでのところ、おれはヨーロッパの先進的な傾向の頂点に立ってきた。ところがこの新世代は、おれたちを頭から無視しようとする

どこかで耳にしたような台詞。

いつの時代も、先進派は、加齢と共に隅に追いやられ、より新しく、より尖った知識やセンスをもった若者がその位置に変わる――といったところ。

さて、微妙に盛り上がったところで、再び長老がその場に姿を現し、寛大にも、若い人たちの議論の続行を促す。

すると、司書の修道司祭ヨシフが、イワンが書いた論文への興味を示し、「社会的教会裁判の問題とその権限の及ぶ範囲につきまして、この問題に関して大部の著書を書きあげたある聖職者に、雑誌論文の形で答えられた」と長老に紹介する。

長老は、「残念なことに、あなたの論文は読んでおりませんが」と断りを入れた上で、イワンに詳細を尋ねる。

するとイワンは、「アリョーシャが心配していたような慇懃無礼な答え方ではなく、つつましい控え目な態度で、いかにも行きとどいた、底意らしいもののまったく認められない答えぶり」で、長老の問いかけに応じる。

このパートは長くて、難解だが、イワンの思想(後に『大審問官』に連なる)、しいては、ドストエフスキーの「国家、教会、社会科学」に対する考え方が如実に描かれているので、頑張って読んでみよう。

(イワン) ぼくの出発点にないましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの別個の実体の混淆(こんこう)状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です。実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の根本に虚偽がひそんでいるのですから、それを正常化することはおろか、一応の妥協状態にもって行くこともけっしてできないはずなのですがね。

たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせれば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です。ぼくが反論したあの聖職者の方は、教会は国家のなかに明確な、確固とした地位を占める、と主張されています。ぼくはその人に反論して、むしろ反対に、教会のほうが国家の一隅にわずかな場所を占めるべきではない、たとえそのことか、いまはなんらかの理由によって不可能であるとしても、ことの本質からして疑いもなく、それはキリスト教社会の今後の全発展の直接的な、最重要な目的とならなければならない、と主張したのです」

「まったくそのとおりです!」

学識のある寡黙なパイーシィ神父が、きっぱりと、せきこんだ調子で言いきった。

「純然たる法王全権論だ1」

じれったそうに足を組み替えながら、ミウーソフが大声で叫んだ。

「はて、わが国にはもともと山などありませぬが!」

ヨシフ神父はこう応じて、今度は長老に向かって言葉をつづけた。

「この方は、論的である聖職者――よろしいですか、この点をお忘れなく――の命題のうちから、とくに『根本的かつ本質的なもの』を選んで反論を加えておられますが、その命題とは、まず第一に、『いかなる社会的団体も、その成員の市民的および政治的権利を左右する権力を掌握することはできないし、また掌握してはならない』。第二に、『刑事および民事裁判権は教会に帰属すべきものではなく、これは神の機関としての、また宗教的目的のための人々の結社としての教会の本質と両立しえない』。第三には、『教会はこの世の王国にあらず』なのです……」

イワンの主張を、ざっくばらんに喩えれば、パン泥棒に対して、国家(社会)は刑罰を科すが、キリスト教は『罪を憎んで、人を憎まず』の精神で、これを赦す。このように相反する二つの正義が同じ地上で共存できるはずがない――ということだ。

で、イワンが反論した聖職者は、ヨシフ神父が述べているように、「教会は、国家の中の一つの機関として、存在すべき」と主張している。

つまり、教会が国家の全権を掌握して、社会規範はもちろん、善悪の観念に至るまで、支配や決定をすべきではない、という考えだ。

それに対し、イワンは次のように反論する。

ぼくの論文の要点はこうなんです、

つまり古代にキリスト教が生まれてから最初の三世紀ほどは、キリスト教はこの地上に教会として現れることがなく、また事実、教会でしかありませんでした。

ところが異教国であるローマがキリスト教国家たらんとする考えを起したとき、必然的に次のような事態が生じた。

つまり、ローマはキリスト教国家となったものの、それはただ教会を国家の中に組み込んだにすぎず、それ自体は、そのきわめて多くの機能において依然たる異教国家としての存在をつづけたのです。

実際問題として、そうなるしかなかったわけでもあります。

ところがローマという国には、異教的な文明やそものの考え方や遺物があまりにも多く残っていて、たとえば、国家存立の目的や基礎までもがそうでした。

ところでキリスト教会は、国家の中に組みこまれても、当然、自身の基礎、それがこれまで立脚してきた土台については、何ひとつ譲歩できるはずがなく、神自身によって永久不変に定められ、示された自身の目的を追求する以外にはどうしようもなかったのです。なかんずく、全世界を、したがってまた古代の全異教国家を教会に変えてしまうという目的がそれです。

となれば(つまり、将来の目的という点では)、教会の国家の中に、『社会的団体一般』として、あるいは、『宗教的目的のための人々の結社』(これは、ぼくが反論している著者が教会について使っている表現ですがね)として一定の地位を占めることを求めるべきではなくて、むしろ反対に、いっさいの地上の国家こそがゆくゆくは完全に教会に変わって、たんなる教会以外のなにものでもなくなり、教会の目的にそぐわないような目的はすべて捨て去るべきだということになるのです。

しかもそれでいて、これはけっして国家の位置を押しさげたり、大国としてのその名誉や栄光、ないしはその支配者の栄誉を奪ったりするものではなく、たんに国家を、それが立っているいつわりの、いまだに異教的な、誤った道から、永遠の目的へと通ずる唯一正しい真実の道へと移してやるだけなのです。

してみれば、『社会的教会裁判の原理』の著者は、本来から言えば、これらの原理を考究し提唱するにあたって、それが現代のような罪深く未完成な時代にあってはなお免れえない一時的な妥協でしかないのだという観点に立ってこそ論を進めるべきだったのでしょう。

ところが、この原理の著者が、ヨシフ神父からいまその一部を紹介されたような原理を、あたかも確固不動の、自然の本性にもとづいた、永遠の原理のように広言する瞬間から、彼は教会に逆らい、その真性な、永遠不変の使命に正面から逆らうことになるのです。以上がぼくの論文のすべてであり、その論旨のいっさいです。

ここだけでも難解で、イワンが何を言いたいのか、いまいちピンとこない人も少なくないと思う。(むろん、私も)

そこで、さっきの『パン泥棒と刑罰と神の赦し』に喩えてみよう。

古代ローマは、元老院が主導する共和政から、初代皇帝アウグストゥスに始まる帝政期を経て、313年、コンスタンティヌス1世のミラノ勅令を契機に、キリスト教と共存するようになった。

しかし、ローマにはローマ独自の法律があり、現実問題として、パン泥棒は、ローマの刑法によって裁かれることになる。

たとえ、キリスト教会が『罪を憎んで、人を憎まず』を貫こうと、泥棒は泥棒、「ローマでもキリスト教が認められたのだから、パン泥棒も神のお慈悲によって赦される」という事にはならない。

つまり、独自の法律(慣習や善悪の価値観も含めて)をもつ国家と、まったく異なる慈愛の精神を説くキリスト教会が共存して、『パン泥棒』という人間の行動を、同じ価値観、同じ規準で処することは不可能なわけだ。

だから、コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認しようと、ローマという国家においては、『ひとつの社会団体』という位置付けに過ぎず、キリスト教がローマ政府や法律に取って代わって、人民を治める流れには決してならない。

ゆえに、「パン泥棒は、ローマの刑法によって裁かれ、神の慈愛によって赦される」という矛盾を、永久に引き摺ることになる。

「社会的な罪人」と「キリスト教における罪人」では、まったく概念が異なるからだ。

その矛盾を乗り越え、この地上に、本当の意味で『神の王国』を築こうとするなら、キリスト教ようとするなら、イワンの言うように、『いっさいの地上の国家こそがゆくゆくは完全に教会に変わって、たんなる教会以外のなにものでもなくなり、教会の目的にそぐわないような目的はすべて捨て去るべき』なのである。

ところが、イワンが反論した聖職者は、そうした矛盾を無視して――いわば、現代社会を生きる人間の苦悩が何所にあるかを理解せずに――『教会はこの世の王国にあらず』という結論に持っていったから、イワンも異議を唱えた訳だ。

イワンといえば、無神論者や無政府主義のイメージが強いけれども、心底では、キリストの教えに共鳴していて、それが人類の救いになることも知っている。

だけども、現実問題として、キリスト教会がローマ政府に取って代わることなど有り得ず、「パン泥棒は、ローマの刑法によって裁かれ、神の慈愛によって赦される」という矛盾が存在する限り、イエス・キリストや教会がどれほど尊い教えを説こうと、地上に神の王国が建設されることはなく、人類が救済されることもない。

その無力感と虚しさゆえに、この現実社会に見切りを付けた一種のルーザーであり、信仰の揺るがないアリョーシャと大きく異なる点だ。

イワンの主張は、パイーシィ神父が次の台詞で上手く纏めている。

「つまり、簡単に言うとこうなのです」一語一語に力をこめながら、ふたたびパイーシィ神父が話した。「わが十九世紀に入ってとくにはっきりと唱導されはじめたある種の理論に従いますと、教会は、ちょうど下等な種が高騰な種に進化するように、国家への転形をとげ、やがてはその国家の中で、科学や時代精神や文明やらに押されて、消滅すべきだというのでございます。

もし教会がそれを望まず、抵抗を示すようですと、教会は国家の中にいわばほんのつつましい一隅といった場所を割りふりられるのですが、それとても監視つきでして、これが現在、ヨーロッパの近代国家でおしなべて見られる現象でございます。けれど、ロシア人の理解と希望から申しますと、教会が下等から高等への進化をとげて国家へと形を変えるのではなくて、逆に、国家が究極においてはもっぱら教会となる、教会以外のなにものでもなくなるべきなのでございます。かくあらせたまえ、アーメン!

さて、ここからがイワンの思想の核心。

「なるほどね、いや、それをうかがって、いくらか安心しましたよ」ミウーソフがまた足を組みかえて、にやりとした。「してみると、それは、ぼくの理解するかぎり、ずっと遠い将来、キリスト再臨のころにでも実現される理想というわけなんですね。それならご遠慮なく、戦争消滅、外交消滅、銀行消滅を願う美しいユートピア的空想というわけだ。ちょっと社会主義にも似ているじゃありませんか、ぼくはまた大まじめに取ってしまって、教会がいますぐにも、たとえば、刑事犯を裁判にかけて、笞刑や徒刑や、へたをすると死刑まで宣告したりするのじゃないか、と思ったものですからね」

(イワン)「いや、現にいまでも、もし社会的な教会裁判しか存在しないとしたら、いまでも教会は徒刑や死刑を宣告することはしないでしょうよ。そうなれば、犯罪も犯罪観というものも、明らかに変わってしまうはずです。むろん、一朝突然にというわけではなく、しだいにしだいにですが、しかしその時期はかなり早いと思いますよ……

<中略>

もし教会がすべてになってしまえば、教会は犯罪者や不服従者を破門するだけで、首をはねたりはしないでしょうよ」

イワンはつづけた、

「うかがいますけど、いったい破門された人間がどこへ行けると思います? なにしろそうなれば、そういう人間は、現在のように人間社会からだけでなく、キリストからも離れなくてはならなくなるんですからね。罪を犯すことによって、その男は、たんに人間社会に対してばかりではんく、キリストの教会にも背くことになるんですからね。

なるほど、現在でも、厳密にいえばそうなんですが、それでも公にそう宣告されるわけではない。

だから現在の犯罪者は、きわめて多くの場合、自分の良心と適当に妥協してしまうわけですよ。

『盗みはしたが、おれは教会に刃向かったわけじゃない。キリストの敵になったわけでもない』――現在の犯罪者は、十人が十人、自分にこう言いきかせます。

けれど、教会が国家にとって代わったそのときには、世界じゅうの全教会を否定するのでないかぎり、こんなふうに言うことは困難になります。

『みながまちがっているんだ、道にはずれているんだ、どれもこれもいつわりの教会だ、おれ一人が、殺人者で泥棒であるおれ一人が、正しいキリスト教会なんだ』
こうはなかなか言い切れないでしょうよ。そう言えるためには、どえらい条件が、めったにないような状況が必要になりますからね。

で、今度は、別の面から、教会そのものの犯罪観を考えてみましょう。やはりそれも大きく変わらないわけにはいかないのではないでしょうか。現在の、ほとんど異教的ともいえる見解を改めて、病毒に犯された手足をもう機械的に切除するようないまのやり方から、人間の新生、その復活と救済という理念に、今度こそ完全に、偽り抜きで変るべきではないでしょうか……」

ここでは『犯罪』にフォーカスしているが、突き詰めれば、人間の苦悩は、キリストの教えとは真逆であるということ。

怒り、裏切り、憎悪、絶望、不安、、、、イエス・キリストの教えから離れて、欲望のままに生きれば、人類は常に苦悩に苛まれる。それが極端に表れたのが、盗みや殺人、詐欺、独占、支配等であり、キリスト教よりも国家、しいては社会科学に基づく規律が優先される限り、たとえ刑罰によって、罪人が裁かれても、傷ついた人間の魂が永遠に救われることはない。『病毒に犯された手足をもう機械的に切除するようないまのやり方から、人間の新生、その復活と救済という理念に、今度こそ完全に、偽り抜きで変るべきではないでしょうか』というイワンの言葉は、まさに神の救済を示しており、彼は決して無神論者や背徳者ではないのだ。

そんなイワンに、ゾシマ長老も心から共鳴する。

「いや、ほんとうのことを言えば、いまでもそのとおりになっておりますのじゃ」

ふいに長老が口を切り、一同はいっせいに彼のほうにふり向いた。

「現にいまでも、もしキリストの教会がなかったならば、犯罪者の悪業にはなんの歯どめもなくなり、そのうえ悪業に応じた罰というものさえなくなってしまう、むろん、それは、いまこの方が言われたような、多くの場合、人の心をいきどおらせるにすぎない機械的な罰ではなくて、ほんとうの意味での罰、真に効果をもった唯一の罰、人を畏怖せしめると同時に宥和せしめ、おのれの良心を自覚せしめる唯一無二の罰のことですがの」

「どうしてそうなるのでしょうか、うかがわせていただけますか?」

ミウーソフが身を乗り出した。

「それはこういうわけですのじゃ」と長老は説きはじめた。

「いまはもっぱら徒刑が行われ、以前はそれに笞刑が加わっていたものだが、こういうやり方ではだれを真人間に返すこともできないし、それより何より、これではほとんど一人の犯罪者をも畏怖させることがない、そこで犯罪の数は減らないどころか、説きとともにますます増えていくことになっておりますのじゃ。 <中略>

そこで、こういう方法では、社会はひとつも保護されないことになる、というのは、なるほど有害な四肢は機械的に切除されて、目につかない遠いところへ送られるかもしれないが、すぐさまその代わりに別の犯罪者が、へたすると、二人も現れてくるからですのじゃ。

では現代において、たんに社会を保護するばかりでなく、犯罪者をも矯め直し、別の人間に生れ変わらせるようなものがあるかといえば、それはやはり、おのれの良心の自覚という形であらわれるキリストの掟以外にはありえないのです。

キリストの社会の息子、つまりは教会の息子としての自分の罪を自覚する場合にのみ、犯罪者は社会そのものに対する、つまりは教会に対する自分の罪を悟ることができますのじゃ。

そういうわけで、現代の犯罪者は教会に対してこそ自分の罪を自覚することができるけれど、国家に対してはそうではないのです。 (81P)

たとえば、パン泥棒に100万円の罰金を科し、1年間、牢屋に閉じ込めれば、泥棒は法の厳しさに恐れ戦き、「二度とパンを盗んだりしない」と誓うかもしれない。

だからといって、パン泥棒の飢えが癒やされ、悔い改めるわけではなく、泥棒は、ただ単に、国家の強制力に屈服したに過ぎない。

泥棒は常に飢餓感に苦しみ、今度は社会に対する憎悪から人を殺すかもしれない。

刑法は、悪い人間を社会的に制裁することはできても、真に救済することはないのである。

こうしたゾシマ長老、及び、イワンの主張は、名作『罪と罰』から連続して考えると分かりやすい。

前作の問いかけに対して、いっそう踏み込んだのが、本作とも言える。

参考 → ドストエフスキーの名作『罪と罰』米川正夫(訳)の抜粋 / 『謎とき 罪と罰』江川卓

さらに、ゾシマ長老は次のように問題点を指摘する。

そこで、もし裁判が、教会としての社会に属することになれば、社会派だれの破門を解いてふたたびおのれの一員に加えたらよいかを自分でわきまえるはずなのです。

ところがいまの教会は、実際的な裁判権は何ももたないで、たんに精神的な非難を加える権利を留保しているだけですので、犯罪者に対する実際的な処罰は自分から放棄してしまっておるのです。

<中略>

(その結果として) もしキリスト教社会、つまり教会までもが、世俗の法律が犯罪者を排除し、切り捨てるのにならって、彼を排斥するとしたら、犯罪者はどうなると思われます?

もし国法による処罰が行われるそのたびに、教会もすぐさま犯罪者を破門にしていたなら、どういうことになりましょう?

すくなくともロシアの犯罪者にとっては、これに過ぎる絶望はありますまい、なんというてもロシアの犯罪者はまだ信仰をもっておりますのでな、というより、ひょっとして、そのときには恐ろしい事態が起って、絶望にかられた犯罪者の心に信仰心の喪失が起るかもしれませぬ。

そうなったらどうなりますのじゃ?

けれど教会は、やさしい慈愛にもみちた母親のように、実際的な処罰を自分から放棄しております。教会が罰を加えるまでもなく、罪人は国家の裁判によって苛酷にすぎるほどの罰を受けておりますのでな、今度は誰かが彼を憐れんでやらねばなりませんのじゃ。 (82P)

『罪と罰』の有名な台詞に、どんな人間にしろ、せめてどこかしら行くところがなくちゃ、やり切れませんから。(マルメラードフ)がある。

退職官吏で、飲んだくれのマルメラードフは、娘ソーニャに身売りさせるほどの甲斐性無しで、居酒屋でも大学生のラスコーリニコフにぐだぐだと絡む。

マルメラードフは、刑法を犯したわけではないけれど、その生き方は真っ当とは言えず、「娘に身売りさせている」という点で、間接的にではあるが、神の徳にも背いている。

そんなマルメラードフと娘ソーニャを、教会が国家に成り代わって社会的に処罰すると同時に、教会からも破門してしまったら、憐れな父と娘は何所に救いを求めればいいのか、という話だ。

ゾシマ長老いわく、ロシア人の犯罪者はまだ信仰心を持っているから、国家のみならず、教会からも見放されたら、その悲劇は計り知れない。

その結論として、ゾシマ長老は次のように述べる。

もし実際に教会裁判が行われるようになり、しかもその力を十分に発揮できるようになれば、つまり、全社会が教会一本に変わってしまうようなことがあれば、教会裁判が犯罪者の矯正にいまとは比べものにならないほどの力をもつようになるばかりでなく、ひょっとしたら、犯罪の数そのものも、まったくのところ、信じられないくらいにまで減ってしまうのではないですかな。

それに教会は、疑問の余地もないことじゃが、将来の犯罪者ないし将来の犯罪を、多くの場合、現在とはまったくちがったふうに理解してやるでしょうし、追放された者の復帰や、犯罪の企図の未然の防止や、堕落した者の更生といったこともできるようになるのではないですかな、 <中略>

いまのキリスト教社会は、まだまだそれ自体が出来上がったものではないし、七人の義人によってやっと存立しているような有様ですがの、ただ、その義人たちの力はまだ衰えてはおりませんのでな、まだほとんど異教的な結社ともいうべき現在の状態から、全世界に君臨する単一の教会へと完全な変貌をとげる日を期して、いまもなお心を堅固に精進しておりますのじゃ、かくあらせたまえ、あらせたまえ、たとえ永劫の後なりとも、かくあらせたまえ、かくあるこそ神の定めたまいし道なればなり、アーメン! (83~84P)

『全社会が教会一本に変わってしまうようなことがあれば』というのは、現代の日本人にはなかなか強烈な考え方だが、それについて、パイーシィ神父が次のように捕捉している。

わかっていただきたいのですが、教会が国家になるのではございません。それはローマであり、その夢想です。悪魔の第三の誘惑です!

そうではなくて、国家が教会となるのです、教会の高みにまで達して、全世界的な教会となるのです、――これはもう法王全権論や、ローマや、あなたの解釈(ミウーソフの解釈)とはまったく正反対のもので、地上における正教の偉大な使命であるにすぎません。この星は東方より輝きわたるのです」 (84P)

一見、美しく聞こえる言葉だが、早速、先進派のミウーソフが異議を唱える。

「ぼくはパリで当時要務についていた、旧知のある非常に有力な人物を訪問して、そこできわめて興味ある人物に出会いました。その人物はただの密偵というより、いわばヒミツ政治警察隊の長官といった格で、まあ、それなりになかなか実験のある地位におったわけです。 <中略>

話題にのぼったのは、当時、とりわけ官憲の追及を受けていた社会主義革命家たちのことでした。 <中略>

その人の言うには、われわれとしては、実をいうと、無政府主義者とか、無神論者とか、革命家とか、そういった種類の社会主義者は、それほど危険視しておらんのです。彼らにはちゃんと目をつけていますし、その手口はよくわかっていますからね。

ところが、少数ですが彼らのなかにだいぶ毛色の変った連中がまじっておる。つまり、神を信ずるキリスト教徒であって、同時に社会主義者でもあるんですよ。

われわれがいちばん危険視するのは、ほかでもないこの連中です、これは恐ろしい連中ですよ! キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい存在ですね」

「といわれると、わたくしどもがその言葉をあてはめて、わたくしどもを社会主義者とおっしゃるのですか?」

パイーシィ神父が正面からずばりと反問した。 

しかしミウーソフがその返事を思い付くより先に、ドアがあいて、ひどく遅参したドミートリイが入ってきた。 (85P)

『カラマーゾフの兄弟』が単行本として出版されたのは1880年のこと。

その約20年後、1905年に、ロシア革命(1917年)の引き金となる、『血の日曜日事件』が起きたことを思うと、非常に預言的な場面だ。

『血の日曜日事件』は、ロシア正教会の司祭であるゲオルギー・ガポン神父に率いられた10万といわれる労働者とその家族が、労働者の境遇改善を願って皇帝に嘆願書を手渡そうと、イコンを掲げてデモを行ったものである。(参考文献 → 図説 ロシアの歴史 (ふくろうの本)

ミウーソフが『キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい』と言うのも納得で、人民を結束するのに『神の義』ほど強固なものはない。

彼等はゾシマ長老やパイーシイ神父と同じように、国家が教会となるように願い、利益ではなく正義、恐怖ではなく慈愛で治めることを望むからだ。

そして、この場には、アリョーシャと野心的な神学生のラキーチンが居合わせ、彼等の会話に興味深く耳を傾けている。

江川氏が想像するように、アリョーシャが神の義から皇帝暗殺を企て、ラキーチンがこれを裏切るとしたら、この場面こそ第二部の伏線であり、アリョーシャがミウーソフの恐れる『キリスト教徒の社会主義者』に相当するのではないだろうか。

『カラマーゾフの兄弟』は、単なる親子喧嘩や神の義を説いた人間ドラマではなく、ロシア社会の分析と処方箋を綴った社会小説でもある。

キリスト教はもちろんのこと、ドストエフスキーの生きた時代を理解することも必須なので、入門編みたいな本でいいから、「ロシアの歴史」に関する書物もサブテキストとして手元に置かれることをおすすめしたい。

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出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

カラマーゾフ随想について
絶版となった江川卓・訳『カラマーゾフの兄弟』を読み解く企画です。 詳しくは「江川訳をお探しの方へ」をご参照下さい。 本作に興味をもたれた方は復刊ドットコムに投票をお願いします(現在10票)。

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

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