「ああ、これが生だったのか。よし、それならもう一度」
青年期、最も衝撃を受けた本。
永遠に心に響く名著です。
ニーチェとの出会い : ウイスキーのCMと野坂昭彦
私が『ニーチェ』という名前を初めて知ったのは、小学校の低学年の頃。
野坂昭彦の歌唱が印象的なウイスキーのコマーシャルがきっかけでした。
「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか。ニ、ニ、ニーチェか、サルトルか」の掛け声で始まるこの歌は世に哲学の大家の名を知らしめ、み~んな悩んで大きくなった。オレもお前も大物だ!」の決め文句は流行語にもなりました。
サントリーCM 野坂昭如編
CMソングながら、「みんな悩んで大きくなった」という言葉は、子供心に大きな励みとなりました。
「悩むことは、悪いことじゃないんだ。みんな悩んで、立派になったのだから」と心の底から思えたからです。
以来、ニーチェは、「ソクラテス、プラトン、サルトル」に並ぶ、"野坂昭彦おすすめの哲学者"となり、20代後半、ワーグナーにはまったのをきっかけに、ついに、著書に手を取った次第。
その第一冊目となったのが、かの有名な『ツァラトゥストラ』。
クラシック・ファンなら誰でも知っている、ヨハン・シュトラウスの名曲『ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra )』の源泉。
そして、映画『2001年 宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督)に連なる枝葉でもある。
「いつかは読みたい、いや、読まねば」という気持ちで、遂に手に取った『ツァラトゥストラ 手塚富雄・訳(ちくま書房)』が人生最大の出会いになりました。
牢獄みたいな安普請で、夢中で読んで、最後の一文、「ああ、これが生だったのか。よし、それならもう一度!」を目にした時の高揚感は今も忘れられません。
ぱっと光が差して、目の前が開けるような思いでした。
地上に生きることは、かいのあることだ。
ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。
『これが――生だったのか』
わたしは死に向かって言おう。
『よし!それならもう一度」と!
今後、どんな本を読もうと、どれほど有名であろうと、これに勝る読書体験はないと思います。
この世に、人として生まれて、幸いにも読書人となった経緯を思うと、この瞬間だけで「生まれてきてよかった」という気持ちになるんですよね。
この本を、どれほど人に勧めても、分からない人には永久に分からないし、刺さらない人には刺さりません。
でも、書物って、そういうものだと思います。
何故なら、読書というのは、書き手に呼応する魂があって、初めて成り立つものだからです。
そして、この記事を書いている私自身も、今、初めて手に取っていたなら、大した感動もなく終わっていたかもしれません。
あの日、あの時、出会ったから、素晴らしい読書体験になったのです。
そんなわけで、何度でも書きます。
「これが生だったのか、よし、それならもう一度」
そして、皮肉にも、この言葉を一番実感できるのは、人生の最後ではなく、人生の本物の試練が訪れる、初まりの頃なのです。
ツァラトゥストラが私を襲ったのだ : 海が生んだ永劫回帰の思想
海といえば、ニーチェです。
「なんで?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、ニーチェの思想、特に『ツァラトゥストラ』は、海から生まれ、海に育まれたといっても過言ではないからです。
時代のモラルや風潮に、あくまで「アンチ(反)」の姿勢を貫きとおしたニーチェは、様々なパッシングに合い、孤独な境遇にありました。
それでも真実を見据え、「神無き時代」に新たな思想を打ち立てようとした彼は、精力的に執筆活動を続け、『曙光』『悦ばしき知識』『力への意志』など優れた著作を次々に完成させてゆきます。
そして彼の思想のすべてを体現したのが、異色の名著『ツァラトゥストラ』。古代ペルシアの拝火教の祖といわれる預言者ゾロアスターの名を借り、聖書を乗り越えるかのように著したこの作品は、崇高に、情熱的に、彼の思想を物語っています。
※ 書面でも一目瞭然。この作品は論文ではなく、定型詩的な詩句なんですね。
海外版・青空文庫 Gutenberg.org より(全文、原語で読めます)
わずか十日間で一気に書き上げた『ツァラトゥストラ』の興奮状態を、ニーチェはこう伝えています。
「シルヴァプラナ湖畔における奇跡的な体験(永劫回帰のヴィジョンの訪れ)から十八ヶ月、次第に熟してきた構想が、爆発的に表現形式を得たのである」
陽光あふれるジェノヴァやラパロ地方で静養していたニーチェは、海を見渡しながらの散策を好み、静かな入り江を巡り歩いたりしていました。
そしてある日、ポルトフィーノ岬の断崖を訪れた時、彼の中で熟していたヴィジョンがついにツァラトゥストラの形を借りて顕在化し、彼を新しい著作へと向かわせたのです。
その時の衝撃を彼はこう書き記しています。

【 霧の海に向かう放浪者 】-Wanderer Above the Sea of Fog-カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒ Caspar David Friedrich
『ツァラトゥストラ』の構成
第一部
ツァラトゥストラは三十歳になった時、自分の故郷と故郷の湖を捨て、山にこもります。
そして十年間下界を離れ、山の孤独にいましたが、四十歳になると劇的な心の変化を感じ、その精神を説く為に山を下ります。
ここでは有名な「神の死」や「超人」の思想が語られます。
※ ちなみに筆者は、冒頭の有名な一文を(厚かましくも)自作の前書きにお借りしました<(_ _)>
第二部
人々がまだ彼の思想を受け入れるほど熟していないことを悟ったツァラトゥストラは、再び山にこもります。
しかし下界で自分の教説が歪められていることを知った彼は山を下り、彼の弟子や敵対する者たちに向かいます。けれど自分にまだ十分な力が無いことを知ったツァラトゥストラは再び人々の前から去るのでした。
第三部
山の洞窟に戻る途中、彼は徐々に「永劫回帰」の思想が熟すのを感じ、それを人々に伝える時期が近づいていることを悟ります。
やがて彼は「続く人間の為に没落する者」としての告知者の運命を受け入れ、生への絶対肯定の意志を固めるのでした。
第四部
最後の試練に打ち勝ち、「永劫回帰」の境地に辿り着いたツァラトゥストラは、新しい価値創造に向かう為、輝く朝陽に向かい、「これが私の朝だ。私の日が始まる。さあ、昇れ、昇ってこい。お前、偉大な正午よ」と語り、再び山を下りるのでした。

【希望】ヘンリー・ムーア
ツァラトゥストラ 名言集
千の頚を一体とするくびき : 人類必要な一つの目標
ただその千の頚を一体とするくびきが、今もなお欠けているのである。
一つの目標が欠けているのだ。人類はまだ目標をもっていない。
全人類に共通する目標。それは、「真理に至る道」あるいは「生の目的」といったところでしょうか。
宗教を超え、文化を超え、全ての人間が目指す一点の目標。
それが現れた時、一歩進んだ新しい世界が生まれるような気がします。
大いなる正午とは
その時、没落してゆく者は、己が彼方へ渡って行く過渡の者であることを自覚して己を祝福するだろう。
そして彼の認識の太陽は、彼の真上に、正午の太陽としてかかることだろう。
多くの人が引っ掛かるのは『没落』という言葉でしょう。
没落というと、どうしても「落ちぶれた」みたいな、悪いイメージしか浮かばないので。
しかし、ここでいう没落は、「下降」の意味ではなく、「リセット」に近いと思います。
いったん、思いを手放し、自分自身から解き放たれることで、新しい人生を見出すことができます。
それは、さながら太陽が一度、海の向こうに没して、夜の眠りに就いた後、再び海の向こうから立ち上る如く。
そんな風に、新しく生まれ変わる為の、日没の旅路が『没落』に相当するんですね。
ツァラトゥストラのメッセージは、海と太陽に喩えればよく分かります。
見た目は「日没」、海の向こうに沈んでいくので、負けたように感じるかもしれません。
しかし、夜の悟りの後、新たに立ち上るのは今まで以上に明るく、力強い太陽です。
だから、海の向こうに沈む時も、太陽は決して自らを嘆いたりせず、むしろ夜の底でリセットされることを悦ばしく感じることができるのです。

【 記念碑 】-Memorial Monument to Gothe- カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒ Caspar David Friedrich
人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的ではないことだ
私は愛する。傷を負った時もなお魂の深さを失わない者を。
そして小さい体験によっても滅びることのできる者を。
真に偉大な指導者というのは、後に続く人間の為に、あえて頭を下げるものです。
彼らが自分を乗り越え、自分よりもっと先に進んで行く為に。
※ 補足 2020/06/10
1998年の初稿には上記のように記していますが・・
永劫回帰の本質は『変容』にあると思います。
人は日々、考え、改め、いろんな風に自分を変えていきます。
それが上手く行く時もあれば、間違いのこともある。
あちこち巡り歩いて、ふと気付いた時、時間軸を一巡して、また最初のスタートラインに戻っていることに気が付く。
でも、そのスタートラインは、前回の位置とは少し違って、どこか前に進んでいる。
さながら時間軸を廻るような心の旅を繰り返した果てに、「ああ、これが生だったのか。よし、それならもう一度!」の悟りがある。
言い換えれば、日々、考え、改め、試行錯誤を繰り返す魂こそ、永劫回帰が実感できるわけです。
何故なら、柔軟性を欠いた人間は、ひたすら真っ直ぐな道を歩くだけ。
沈むこともなければ、回り道をすることもなく、その道程はどこまでも平坦で一直線だからです。
永劫回帰は『円環』であり、その形は、二次元の丸ではなく、四次元に突き抜けるような、上昇する円です。
自分自身が目的になってしまえば、そこに変化は訪れません。
何故なら、目的は一つの点であり、不動だからです。
ニーチェのいう『橋』というのは、心の柔軟性であり、生き方の流動性です。
柔軟な魂は、自分の型に拘らず、幼児のように学ぶことができます。
そうした柔軟性があって初めて、永劫回帰に至ることができるのです。
私は私の目標を目指す
ためらう者、怠る者を私は飛び越そう。
こうして私の行路は彼らの没落であるように
ここでも『没落』という言葉が使われて、戸惑いますね。
「彼等の没落」は、字面通りに受け取れば、まるで人々の凋落を喜んでいるような印象があるからです。
そうではなく、前述の「没落」の意味を思い出して下さい。
ニーチェの描く「没落」とは、「夜の悟りと日の出の目覚め」に至る、日没の行路です。
自分の思想を踏み台に、皆さんも、新たな悟りに向かって下さい、みたいな意味に考えると分かりやすいです。
般若心経の「「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー ぼーじーそわかー」みたい。
「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯諦菩提薩婆訶(往き往き、彼岸に往けるもの、その者こそ悟りである。幸あれかし)
参考記事→ 般若心経の意味を分かりやすく解説

Mist Over Point Lobos- ギィ・ロッシュ Guy Rose
人間とは乗り越えられるべきものである
生そのものが、柱を立て、階段を作って、高みを目指して、己を打ち建ててゆこうとする。
生は、はるかな遠方に目をそそぎ、至福の美を望み見ようとする。
そのために生は高みを必要とするのだ。
生は登ろうとする。登りながら己を乗り越えようとする。
ニーチェの思想の一つに「自己超克」があります。
それは自分本位な利己主義とは違い、たえず自分自身を乗り越え、新たに生まれ変わり、上昇していこうとする我欲(Erosといってもいい)を意味します。
そして、その究極の目標は、自己を完成させる事ではなく、後に続く者の為に没落する(橋渡しになる)事なのです。
※補足 2020/06/10
1998年は上述のように記していますが……
この節で一番大事なのは、「人間とは乗り越えられるべきものである」=自己超克の思想ですね。
美空ひばりの座右の銘に『昨日の己に、今日は克つ』という言葉がありますが、まさにその精神です。
これもまた、前述の「心の柔軟性」あるいは「生き方の流動性」に連動するもので、乗り越えるには、第一に、謙虚でなければなりません。
「オレはこういう人間だから」「今までこうしてきたから」という硬直した考えでは、いつまでも一直線を突っ走るだけで、辿り着く所が無いんですね。
そして、疲れ果ててしまう。
自己超克と謙虚さと永劫回帰は、どれも密接に連携しているのです。
また、「そのために生は高みを必要とするのだ」という言葉だけ見れば、いかにも高い目標をもって、上昇志向で行く、というイメージがありますが、ここでいう「高み」とは、社会的な高さではなく、霊性とでも言うのでしょうか。「精神性」とは少し違って、たとえガツガツした上昇志向でなくても、赦し、寛容、優しさのように、霊的に高次な世界です。
しばしばニーチェが権力志向に利用されるのは、この『高み』という言葉が『High』として解釈されるからでしょう。
本来の意味は『Holly』ですが。
そして、力に喩えるならば、ガツガツと上を目指して頑張るより、霊的に高次である方が難しいんですよね。

創造とは苦悩から我々を解放する救い
だがまた、創造する者が生まれ出るために苦悩と多くの変身が必要なのである。
そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが私には備わっている。
その名は私の意志だ。それは黙々として、屈することなく歳月の中を歩んでゆく。
私の昔ながらの伴侶、私の意志は、この私の足によって、己の道を行こうとする。
彼の思いは堅く、不死身である。
ニーチェほど「意志」の大切さを説いた哲学者もないでしょう。
天の父に一切を委ねるキリスト教的な生き方に反し、大地にしっかと足をつけ、己が意志に忠実に生きることを説いた彼の思想は、当時は異色のものであり、彼を孤立させることになりました。
しかし、この「意志」こそが、自分を支え、導き、肯定的な生へと向かわせる原動力となるんですよね。
それは決して利己的な欲望に支えられたものではなく、一点の目標に向かって上昇する魂の力なんです。
※ 補足 2020/06/10
1998年は「意志」と書いていますが、今では『意思』と解釈しています。
どちらも人間の意力を表す言葉に違いありませんが、意志が志向性に導かれた心の力であるのに対して、意思は「思う」「考える」「感じる」、すべてを含めた心の働きだからです。
「意志が強い」と「意思をもつ」は微妙にニュアンスが違って、「意思あるところに、意志が生まれ、行動に昇華する」と考えると、意思こそが、強烈な心のパワーであり、生きる土台と思うからです。
意思の中には『無意識』も含まれ、人は自分で意識しない間も、意識下で考え続けるものです。
そう考えると、『創造』とは、「意志の元に何かを作る」というよりは、生に向かう心の動き、そのものと言えるでしょう。
というより、意識せずとも、自分という存在そのものが、日々、何かを作り出す状態が創造なのかもしれません。
対義語は、怠惰であり、諦めであり、無関心かと。
血をもって書け。そうすれば君は知るであろう。血が精神であることを
わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。
血をもって書け。
そうすれば君は知るであろう、血が精神であることを。
「血」とは、すなわち、自身の血肉。
頭(理屈・知識)で知り得たことではなく、自身の魂によって感得したことを著せ、という意味です。
人や本から得た借り物の知識や理屈では、決して人の心を動かすことはできないからです。
かの有名な「ガラスの仮面」でも、月影先生は北島マヤにこんな事を言っています。
***
今の《八百屋お七》、あなたの目に恋の狂気はないわ。
上手な演技と魅力のある演技は違うわ。
たとえ下手でも魅力のある演技は人をひきつけるわ。そこに本物の香りがあるからよ。
観客はその香りをかぎとるのよ。
本物の香り……マヤ、本物の恋をしなさい
***
技術に優れなくても、実体験や使命感から生まれた言葉は迫力があります。
苦難の最も黒い潮の中へ : 私の運命がそれを欲するのだ
ああ、この身ごもっている夜闇の中の苦渋。
ああ、運命と海。
お前たちのもとへ、私は今降りてゆかねばならぬ。
私が今までにしたよりも深く、苦痛の中へ、
苦痛の最も黒い潮の中へ下って行かねばならぬ。
私の運命がそれを欲するのだ。
今はまだ一切が眠っている、と彼はいった。
海も眠っている。
海は眠りに酔い、未知の者を見る目つきで、
私の方を見ている。
しかし、それにもかかわらず海は
あたたかく息づいている。
それを私は感ずる。
私はまた海が夢見ていることをも感ずる。
海は夢見ながら、堅いしとねの上で
身を輾転させているのだ。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』が海から生まれた所以です。
『苦痛の最も黒い潮の中へ下って行かねばならぬ』というのは、苦痛から逃げるのではなく、とことん向かい合え、という意味ですね。
それはさながら底なしの淵に降りて行くような感覚かもしれないけれど、苦痛と向き合わずして、魂の救済もないと。
その時間は、傍から見れば、海のように眠っているように見えるけども、意識の下では沈潜しているのです。


【Stars】 マックスフィールド・パリッシュ Maxfield Parrish
未発見のものに向かって帆を走らせるあの探求の悦楽が私の内部にあるとするなら――
その航海者の悦楽が私の悦楽の中にあるとするなら――
時間と空間がはるか彼方で輝いている。
よし、立て、我が心よ(超越的な神に頼らず、人間の自力を基として生きる生き方)」と叫んだとするなら――
おお、それならどうしてわたしは永遠を求める激しい欲情に燃えずにいられよう。
指輪の中の指輪である婚姻の指輪――あの回帰の円環を求める激しい欲情に燃えずにいられよう。
私はお前を愛しているのだ、おお、永遠よ。
「指輪の中の指輪である婚姻の指輪」をモチーフにした話がこちらです。
すんません(^^ゞ

【二人の天使】チャールズ・セリエ Charles Sellier
すべての悦楽は永遠を欲する
一切のことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎ合わされんことを、お前たちは欲したのだ。おお、お前たちは世界をそういうものとして愛したのだ。
お前たち、永遠な者たちよ、世界を愛せよ、永遠に、不断に。
痛みに向かっても、「去れ、しかし帰って来い」と言え。
すべての悦楽は永遠を欲するからだ。
ニーチェの思想の集大成ともいえる「永劫回帰」。
その意味はあまりにも深く、広大で、私の筆力で到底著せるものではありません。
だけど、なんとなく理解していただけたでしょうか。
《人生は辛く、悲しいことばかり……世の中も矛盾や納得の行かないことばかり》
それでもそれら一切対し――不幸も不条理も、自身も含めた地上の全てに対し、「よし」と言い切ることの意味と価値を。
自身と自身の生を【肯定する】ことの大切さを。
そして、この思想が集約された言葉が、次の一節なんですよね。
「これが“生”だったのか」
わたしは死に向かって言おう。
「よし!それならもう一度」
この言葉の美しさは、青年期に味わうものです。
四十代を過ぎたら、もう無理です。
本と出会うにも時機があります。
だからこそ、人生の一時期、評判だの、勉強だの、気にせず、夢中で読書を楽しむことが大切なんですよね。

【 エクスタシィ 】-Ecstacy- マックスフィールド・パリッシュ Maxfield Parrish
さあ、昇れ、昇ってこい。お前、偉大な正午よ
暗い山の彼方から昇る朝の太陽のようだった。
「お前、偉大な天体よ」と、彼はかつての言葉と同じ言葉を語った。
「お前、深い幸福の目よ、もしお前がお前の光を注ぎかける者たちをもたなかったら、お前の幸福もすべて何であろう。
これが私の朝だ。私の日が始まる。
さあ、昇れ、昇ってこい。お前、偉大な正午よ」
ツァラトゥストラはこう語った。
そして己が洞窟を後にした。暗い山々から立ち上る朝の日のように、熱火と力に満ちて。
これが最後の一節です。
どんな人間も、断崖絶壁の縁に立ち、暗い絶望の海を見下ろす時があります。
一歩先の死を選ぶか、あるいは絶望の彼方に光を見出すか。
それこそが人間としての真価を問われる瞬間です。
そして、ニーチェは絶えず肯定することの大切さを説きました。
何があっても、決して自分自身を見捨てるなと。
真の自己超克は、成長して、立派になることではありません。
答えは20年後、こちらに書きました。何かの参考になれば幸いです。


ニーチェの著作から 名言集
いまだ光を放たざる いとあまたの曙光あり
いとあまたの曙光あり
独自の思想を確立しようとするニーチェが、批判や孤立にさらされた暗中模索の時期を超え、陽々とした境地に昇っていく過程に書かれた、中期の傑作【曙光】。その冒頭に引用されたのが、インドの詩集《リグヴェーダ》に記されたこの言葉です。
「この世には、まだ輝いたことのない幾多の曙光がある」ことを確信し、独自の思想を切り開こうとする彼の決意と気概が強く感じられます。
私の大好きな言葉です。
※ 補足 2020/06/11
この一文に触れて、『海底鉱物資源』=「海に眠れる人間の可能性」というテーマを思いつき、小説を書いたんですね。
どうしても他にタイトルを思い付かず、タイトルまでちゃくってしまいましたが、忠実にやったので許してくれるでしょう(´д`)
この詩句も世界で一番美しいですね。
よく考えたら「世界で一番美しい」詩句がたくさんあります。
最高の苦悩と最高の希望とに向かう
自分の最高の苦悩と最高の希望とに向かって同時に突き進んで行くことがそれだ。
『最高の苦悩と最高の希望とに向かう』というのは、自分の苦悩と向き合うことは、志が高くなければ出来ないことだからです。
同時に突き進むというのは、まさにその通りで、悩むエネルギーのある人は、パワーの塊でもあるんですよね。
人生は私を失望させはしなかった : 人生は認識の一手段なり
私はなお生きなければならない、私はなお考えなければならないのだから。
われ在り、ゆえにわれ思う。
われ思う、ゆえにわれ在り。
今日では誰でもが思い思いに自分の願望や最愛の思想を表明している。
さればこそ、私もまた、私が自分自身に今日何を望むかを、
また、どんな思想がこの年いち早く彼の心をかすめたかを語るとしよう。
いな! 人生は私を失望させはしなかった
それどころか、私には歳を重ねるにつれて人生はいっそう豊かな、いっそう好ましい、いよいよ神秘に充ちたものに感じられる。
「人生は認識の一手段なり」
この原則を抱懐する我々は、ただに勇猛であるだけでなく、悦ばしく生き、悦ばしく笑うことすらできるのだ!
何はさておき、まずもって戦闘と勝利の道に通暁する者でなければ、そもそも誰が一体良く笑い、良く生きる術を解しえようぞ!
『人生は認識の一手段なり』というのは、人生(生命)とは幸福や生き甲斐を感得する為の、一つの手段であって、それ自体が目的ではない、ということです。
もちろん、「幸せになりたい」「立派になりたい」という志は大切ですが、それを実現することではなく、「ああ、幸せって、こういうものか」「思う通りに生きられなくても、生きることにはこんな価値がある」ということを、心の底から実感することに意義があるんですね。
ニーチェは「認識」と呼んでいますが、日本人には「悟り」という言葉の方が理解しやすいかもしれません。
悟りの中には、もちろん、苦悩や絶望に対する見識も含まれます。
「何を成し遂げたか」よりも、「あんな痛みも知った。こんな苦労も経験した。生きていると、いろいろあるけど、面白い」と多方面に悟りを開くことに価値があるので、人生に失望することがありません。
そんな風に、いろいろあっても、最後には生きていることが楽しめるようになる、あるいは、この世に生まれたことに感謝できるようになる(一つのチャンスとして)、それこそが永劫回帰の真髄なんですね。
【まとめ】 人生なんて、あっという間に終わってしまう
私の大好きなニーチェの世界、少しは共感していただけたでしょうか。
これで興味を持って、「一回、読んでみようかなあ」と思って下さったら、私も力入れて作った甲斐があります。
生前は多数派に理解されることなく、孤独と狂気の中に不遇の生涯を終えたニーチェですが、彼の思想は時を超えて、今、しっかりと私の中に息づいています。
未来を読み、語る者を“預言者”というなら、ニーチェこそ現代の「虚無」という病を予見し、その処方箋まで提示した唯一無二の預言者というべきでしょう。
だけど私が求めているのは、「ニーチェの先にあるもの」です。
彼は「自ら見出し、肯定する」ことを説きましたが、そこにはどうしてもある種の“限界”が生じます。
なぜなら、すべての人間が、そこまで強く賢明になれるわけではないし、どんな人間も、もろくて、惑いやすい一面をもっているからです。
とにかく、読んで、感じて、考えて、生きているうちに、あらゆることを学んで下さい。
「世界は深く、人生は短い」。
一生なんて、本当にあっという間ですからね。
(^^)v
ニーチェ おすすめ書籍
ツァラトゥストラ (中公文庫) (文庫)
by ニーチェ (著), 富雄, 手塚 (翻訳)
Price: ¥476
27 used & new available from
数ある翻訳の中でも、一番読みやすかったのが、手塚富雄氏によるもの。
以下のレビューにあるように、詩のようにさらさら読める。
「哲学」と構えずに読めば、すっと心に入ってくる名言ばかりだ。
【Amazonレビューより】
でも、ニーチェは詩人でもあった。というより、私は彼が論理的なものを軽視したとは思わないが、彼はそれ以上に詩人だったのだと思う。「ツァラトゥストラ」などはまさに詩人の手になるものだ。
「超人」だの「運命愛」だのなかなかのキャッチコピーだし、ちょっと劇画調すぎてこちらが気恥ずかしくなるくらい。
専門の哲学者たちはともかく、ニーチェの文学者たちからの受けはいい。これは文学書ではない、とわざわざ註を入れて「ツァラトゥストラ」を必読書に挙げている文学者の数は知れない。 「ツァラトゥストラ」は文学書として読んで一向に構わないと思う。
それに、--こんなことを書くと怒られそうだが、ニーチェほど読みやすい哲学者はいない。
ニーチェ (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 47) (単行本)
by 竹田 青嗣 (著), 田島 董美 (イラスト)
Price: ¥1,320
36 used & new available from ¥93
この本はイラストだけでも十分面白い。
60年代のサイケデリックなスタイルで、今風のイラストしか知らない人には興味深く読めるのではなかろうか。
解説も分かりやすく、悩める青年向き。
きっと納得できる、ニーチェ入門編です。
参照記事→『『超訳 ニーチェの言葉』と FOR BEGINNERS『ニーチェ』 ルサンチ野郎の心の出口』
【Amazonレビューより】
1967年初版で、当時は大学生・高校生を対象としていたはず だからさぞかし古めかしいニーチェ論かと思いきや、ニーチェを 深く読んで理解し、初心者にも偏りの無い入門書である。
入門書とは言え、参考になる写真も豊富である。
自己流ニーチェ理解を読者に披瀝するものでも、あたりさわりない 知識を羅列するものでもなく、ニーチェをいとおしみながら冷静に書く筆者の姿勢を高く評価したい。
ニーチェを齧って「ニーチェは いい」あるいは「こいつは何なんだろう?」と感じている方にも すすめられる。
ニーチェとの対話 ツァラトゥストラ私評 (講談社現代新書) (新書)
by 西尾 幹二 (著)
Price: ¥946
45 used & new available from ¥49
ニーチェの名言と現代人の生き方を照らし合わせながら、一つの生きる方向を示唆する人生読本。
といっても、お説教くさい内容ではなく、人間や社会の真実を真っ向から見据え、いかに戦い抜くか、といった、地に足のついたお話がメイン。
入門編としてもおすすめです。
図解雑学 ニーチェ (図解雑学シリーズ) (単行本)
by 樋口 克己 (著)
Price: ¥756
14 used & new available from
ビジュアル系ならこちらもおすすめ。
永遠回帰、神の死、超人、権力への意志、ニヒリズム…既成の価値を攻撃し、学問の範囲を越えて多大な影響を及ぼしたニーチェの哲学を分かりやすく解説。
マンガ伝記を読むような感覚で楽しんで欲しい。
平成になってからにわかにベストセラーとなったニーチェの名言集。
読みやすい1節=1ページ形式で、気に入った箇所から手軽に読めるのが特徴。
初めての方に特におすすめです。
初稿: 1998年秋
加筆修正: 2020年6月