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作家は裁判官になってはいけない ~相手が何ものであれ理解すること

2020 2/14

世の中には、いろんな人がいます。

嫌なことを言う人もあれば、想像を絶するような酷いことをする人もあり、そういう人に出会ってしまったら(あるいは見聞きしたら)、あなたも皆と一緒になって悪口大会を始めると思います。

「許せない」「同じ人間とは思えない」と。

しかし、作家は裁判官ではありません。

そんな酷い人物でも、内面に入り込んで、人間として理解するのが仕事です。

それは悪を庇い、不正も見て見ぬ振りをする、という意味ではありません。

同じ人間の中に、それほど残虐で、歪んだものが存在する事実を受け止め、心のひだを探っていくことに意義があるのです。

どんな人も、生まれた時は真っ白です。

好んで泥棒になるわけでもなければ、詐欺師を目指して学校に行くわけでもありません。ある年齢までは、自分も幸せになれるのではないかと夢見て、他のお友達と同じように遊んだり、学んだりしたいと願うものです。

だけども、どこかの過程で人生に絶望し、人の道からはずれてしまいます。

そして、そのことは、誰にも理解されません。

法の下に裁かれて、善か、悪かの烙印が押されるだけです。

もちろん、それは社会的には正しい。

でも、世の中、すべての人が裁判官になったら、人はどうやって矛盾や怒りや絶望を乗り越えていくのでしょうか。

そこで、作家の登場です。

作家だけは、この世の規範を越えて、悪の中にも一理を描くことができます。

それは同情や背徳ではなく、人間の一面です。

心をもった生き物の、どうしようもない性(さが)であり、弱さです。

私たちはそれをあぶり出し、読み手に見せつける。

この世において、決して日の当たることのない、人間の真実です。

読み手にすれば、納得いかないこともあるでしょう。

ただただ不快でしかないかもしれません。

それでも私たちはトーチを照らして、心の深層へと降りて行く。

誰も見ようとしないから。そして、伝える術も持たないから。

私たちが探求者となり、理解不能な心の闇にも一つの道筋を作るのです。

そうすれば、善か悪か、二つの答えしか存在しない人の世に、第三の認識が生まれます。善でも悪でもない、想像の領域です。

それまで裁くことしか知らなかった人に、「もしかしたら」という想像力が芽生える――その想像力を一般に「思いやり」と言います。

世の中が裁判官だらけになれば、人間にとっての救いはなくなります。

そうならないように、作家は常に人を見つめ、その内面に洞察の光を当てます。

作家という仕事は、売り上げだの、何だのを抜きにすれば、素晴らしくやり甲斐のある仕事なんですよ。

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