海が好き──というよりは、海に込められた思い出がいとおしいのだ。
子どもの頃、はしゃぎ回ったあの海は、眩いほどの青色をしていた。
遠い故郷に帰って来たような懐かしい気持ちになる。
『海は生きとし生けるものすべての故郷よ』
と母は言った。
『生命は、すべて海から生まれ、巣立っていったの。陸に上がった人間が今もこうして海を懐かしむのは、 海に暮らした何億年もの記憶を留めているからかもしれないわね』
小説『曙光』 海は生きとし生けるものの故郷 より
たった一言を書くために、何千枚もの原稿を綴ることがある。
思い起こしてみると、本当に書きたいことは、いつも『たった一言』なのだ。
何万、何十万というその他の言葉は、その一言に至るまでの壮大な助走に過ぎない。
時に迷い、時に躓きながら、その一言に突き進んでゆく。
いつか出遭う、最高の瞬間を追い求めて。
思えば、海はいつでもそこにあるのだ。何億年と変わらぬ姿で。
曲がりくねった夜の道を抜ければ、曙光の下に、いつもその輝きを見ることができる。
遠く思うのは、夜の深さのせいだ。
海はひとりでに遠ざかったりしない。
今年も、あの夏の海を思い、海の響きを懐かしむ。
貝殻のように耳を澄まして。
初稿:2000年7月24日