『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』
(2) 老いたる道化
かくして、無礼な一行は、高徳の僧、ゾシマ長老の庵室に足を踏み入れ、彼等の価値観とは180度異なる、高僧の佇まいに圧倒される。
圧倒される――というよりは、皮肉半分、冷笑半分だが。
彼はいっしょに部屋に入った仲間たちの先頭に立っていた。
実を言うと、ミウーソフはすでに昨夜のうちから、思想はどうあれ、たんなる礼儀の上からだけでも(ここではそれがならわしになっているのだから)、長老の前へ出て祝福を乞わずばなるまい、手に接吻するのはともかく、少なくとも祝福だけは乞わずばなるまい、とさまざまに思いめぐらしていたものだった。
ところが、いまこうやって修道士祭たちのお辞儀やら接吻やら目にしたとたん、彼は一転、その決心を変えてしまった。
いかにもしかめつらしい様子で、世間流のかなり深いお辞儀をしただけで、彼は椅子のほうへ引き下がってしまった。
フョードルもまったく同様にふるまい、しかも今度は、猿がやるように、寸分たがわずミウーソフのしぐさをまねてみせた。
イワンはいたって丁重に、しかめつらしく、一同に会釈したが、これまた両手はズボンの縫い目につけたままであった。
カルガーノフはすっかりうろたえてしまって、そのお辞儀さえまったくしなかった。
長老は、祝福をするためにあげかけた手をおろし、もう一度みなに会釈してから、席につくようにすすめた。
アリョーシャの頬にさっと血がのぼった。恥ずかしくてならなかったのだ。不吉な予感が、いまや事実になろうとしていた。 (49P~50P)
アリョーシャでなくても、神とも、僧院とも無縁な彼等が、長老に対して、どのように振る舞うか、賢明な読者なら前節でお察しと思う。
ミウーソフは、皆が『この人、イイネ』と賛同すると、何かしら難癖つけて、背を向けずにいられないタイプ。現代にもたくさんいます、こういう人。
フョードルは、誰かが難癖をつけたら、自分もその尻馬に乗っかって、輪をかけて茶化すタイプ。「猿みたいに、ミウーソフの真似をする」という一文から、フョードルのへそ曲がりな性格が窺える。
イワンは、何を目にしても、自分のポーズを崩さぬタイプ。信念からそうする――というより、彼は何をも信じてはないのだ。イワンにとっては、真実の善行すらも、空々しい欺瞞に過ぎない。
そして、嫌な予感が的中したアリョーシャは頬を赤らめ、ただただ恥じ入るばかり。
のっけから、この家族会議は失敗したも同然である。
一番の間違いは、ミウーソフが同行したことではないだろうか。
ミウーソフの冷めた目がなければ、フョードルももう少し素直に振る舞っただろう。
ちなみに、このパートでは、「きらきらと輝く飾り額に納めた聖像画がほかに二枚並べられ」「いくつもの小天使の聖像や、陶製の卵や、嘆きの聖母に抱かれたカトリックふうの象牙の十字架や」、等々、庵室の様子が細かく描写されている。
それを目にしたミウーソフは『紋切り型』と感じ、早くも白々しい気持ちになる。
『紋切り型』について、江川氏は、次のように解説する。
なお、ここの装飾には教会分裂以前の聖母像などにも見るように、キリスト教内部の分裂状態に対するドストエフスキーのある種の批判を読み取ることも可能である。
なんとも雰囲気の悪い中、早速、フョードルが感極まったように喋りだす。
<中略>
偉大なる長老さま! お許しくださいませ。
いまのディドローの話で洗礼の一件のほうは、たったいま、お話をしているうちに、自分で創作した話でして、これまでは頭に浮かんだこともございませんでした。ちょっと胡椒をきかしてやろうと思って、でっちあげましたので。
つまり、私がお芝居をするのはですね、ミウーソフさん、人に感じよく思われたい一心からなんですよ。
もっとも、自分でもときにはなんのためやらわからなくなることがありますがね。 (51P~53P)
思うに、フョードルは、繊細かつ純朴な人間で、自分と向き合う勇気もなければ、自分を見せる度胸もないのだろう。
大地主らしく、いつも威張って、群れのボスでなければ、生き抜くことができない。
周りに侮られぬ為、また自尊心を保つ為、わざと無頼漢を気取り、(さして面白くもない)皮肉や冗談を口にしたりする。
そうして、心にもないことを口にし、無骨を装ううちに、自分でも、どちらが本当の自分か分からなくなっていったのだろう。
そうした、繊細さ、純朴さは、特にアリョーシャとイワンに受け継がれ、アリョーシャにとっては美徳に、イワンにとっては苦悩の種になる。
そんなフョードルの無礼を、ゾシマ長老は優しく受け入れる。
長老にも、幼子みたいなフョードルの実体が分かるのだろう。「自分を恥じぬ」の一言は重い。
そして、フョードルも、大袈裟なほど感激してみせる。
まったく私は、人前に出ますと、いつも自分はだれよりもいいやしい男だ、みなから道化あつかいされているような男だ、という気がしてくるんでございます。
そこで、『よし、それならいっそほんものの道化になってやれ、おまえたちの取り沙汰なんぞこわくないぞ、だいいちおまえたちからして、一人残らず、おれさまよりいやしい連中ぞろいじゃないか!』
まあ、そんなわけで私は道化になりましたので、恥ずかしさがもとの、長老さま、恥ずかしさがもとの道化でございますよ。ひがみ根性のひとつから大あばれもいたしますので。もし人前で出ますとき、みながかならず私のことをもっとも愛すべき聡明な男として迎えてくれるという自信さえありましたら、おお! そのときは私もどんなに善良な人間になっておりましたでしょう! 師よ!」
彼はだしぬけにその場にひざまずいた。
「永遠の生命をうけつぐには、いったいどういたせばよいのでございますか?」 (55P~56P)
フョードルは、表に出さないだけで、けっこう冷静に自己分析している。
それに対して、長老の心はなおも優しく、フョードルという人間を正しく観ている。
「いや、とくにディドローのことというわけではない。肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自分自身に嘘をつき、おのれの嘘に従うものは、ついには自分のうちにも、周囲にも、真実というものを見分けられなくなり、そうなれば、自分に対しても他人に対しても尊敬を抱けなくなる。
ところで、だれをも尊敬できなくなれば、愛するということもなくなってしまい、愛がないのに自分を楽しませ、気をまぎらそうために、情欲やいかがわしい快楽におぼれて、ついにはけだものにもひとしい所業に走るようになるが、もとはといえば、それもこれも他人に対して、また自分に対して、たえず嘘をつくことから出ておりますのじゃ。
自分に対して嘘をつく者は、まただれよりも腹を立てやすい。腹を立てるのは、どうかすると、まことに気持ちのよいことでな、ちがいますかな? なにせ当人自身、だれが自分を侮辱したわけでもないことをよく承知しておる。
だいたいその侮辱というのが、自分で勝手にこしらえあげた代物で、あることないことつきまぜて色とりどりを添え、派手な一幕に仕立てあげようと自分で誇張し、片言隻句にからんで、豆粒を山のように見せた(針小棒大の意味)ものなのだが、そのことを自分でちゃんと承知しながら、そのくせ自分から先に腹を立てる。気分よくなって、たいそうな満足感を味わえるまで腹を立てる。そしてそのあげくほんものの敵意を抱くまでになりますのじゃ……」
フョードルはさっと立ち上がると、長老の痩せこけた手にすばやくチュっと接吻した。 (57P)
フョードルの最大の不幸は、真に彼を理解する人間が側になかったことだろう。
誰もが彼の虚勢を「ほんもの」と思い込み――あるいは芝居に付き合ってやる――誰も親身に語りかけることはなかった。
それでフョードルも素直になる機会を失い、悪い方へ、悪い方へ、転げ落ちて行くような半生だった。
感極まったフョードルは、本心だか、一時の歓喜だかで、再度、長老に接吻する。
「もう一度お手を接吻させてくださいませ! いえ、あなたさまはなかなか話のわかる方だ。おつきあい願える方ですよ! 私がいつもこんなふうに嘘をついたり、道化芝居を演じたりしているとお考えですか! 実を申せば、あれはあなたさまを試そうと思って、わざとあんなまねをしつづけていたんでございます。あなたとおつきあい願えるかどうか、ずっと探りを入れておれいましたんです。あなたさまの誇り高いお心のそばに、私めのつつましい心の居場所があるものかどうか、とですな? でも、結果は賞状ものでございましたな、あなたとならおつきあい願えますよ! 」
先の台詞から鑑みるに、心を打たれたのは本当だろう。
果たして、自分に正直になれるかどうかは分からないけども。
出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓