MENU

アイデンティティと自信喪失の時代 『ペレ 伝説の誕生』

2020 6/30
目次

サッカーの神様 ペレの誕生物語

なぜ世界ではサッカーが人気なのか

サッカーよりプロ野球、ワールドカップよりオリンピックの日本人から見れば、世界中がなぜあれほどサッカーに熱狂するのか(応援が加熱して、暴動が起きるほど)、不思議でならないだろう。

私もそうだったし、欧州に移住した今でもよく分からないところがある。

実際、自分がプレーするわけでもないのに、何故これほどまでフィールドの代表選手に自己を投影し、ああもお祭り騒ぎができるのかと。

日本でサッカーが今ひとつ盛り上がらず、スポーツの話題といえば、オリンピックかプロ野球に集中する傾向について、スポンサーの違いとか、昔からの慣習とか、いろんな意見があると思うが、最大の理由は何かと問われたら、やはり国民性の違いではないかと私は思う。

集団でプレーを組み立てるサッカーと異なり、野球は『一対一の果たし合い』的な部分が大きい。

私の世代なら、槙原VS掛布、北別府VS原、といったところ。

ノーアウト満塁で、誰が見ても近鉄の勝ちが目に見えていた場面で、ピッチャーの江夏が登場して、まさかの連続三振。あのリリーフも本当に凄かったし、炎のストッパー津田とか、神様仏様バース様とか、今も心に残る選手と名勝負は多い。

それはジーコが先制点を決めたとか、華麗なる野獣ベッカムとか、スペイン悲願のワールドカップ初優勝といったものとは全く性格が異なる。

喩えるなら、野球は武士と武士の一騎打ち、それぞれの武士に肩入れして、個々のストーリー性を楽しむ。

一方、サッカーは、全体が非常に流動的で、次にどう展開するか、まったく先が読めない。

野球のように、次は六回裏、打順はバースから、と、順序が明確な中で一騎打ちを楽しむゲームとは異なり、サッカーは即興的で、流れそのものを楽しむものだ。その中に個人プレーがあり、ドラマがある。

ジーコも、ベッカムもスターには違いないけれど、彼らもまたチームの一員であり、その位置づけが武士の一騎打ちとは大きく異なる点ではないだろうか。

ゆえに、現住国のサッカーの楽しみ方を見ていると、スタープレイヤーに肩入れするというよりは、ワールドカップという大局における、我が代表チームの運や実力を評論家目線で分析するところに面白さがあるように感じる。

その上で、ある選手の動きやポジションに自分を重ね見、怒ったり、喜んだりする。

日本だと、スタープレイヤーの個性や能力に憧れる形で応援するけども、こっちのサッカーファンは、いかに自分の好み通りにプレーするかが重要で、たとえ卓抜したドリブル能力を持っていても、こちらが期待する通りに動かないと「なんだ、あいつは」という評価になる。

松坂投手が150キロの速球を投げて三振に打ち取る時、日本のファンは、そのピッチング能力に素直に拍手喝采するが、こちらのサッカーファンは、評価の基準が自分にあるので、たとえ華麗にゴールを決めても、それだけで心は動かない。

自分だけ目立ったり、忠誠心に欠けたり、監督に言われた通りにプレーするだけで何の主張も無いのはダメで、たとえ勝利に結びつかなくても、アクが強いとか、頭がいいとか、冷静沈着とか、全体の中でも自然に浮き立つような存在感を求めている。

それはまた、全体における個の生き方の象徴でもあり、自分を投影する所以なのである。

映画『ペレ』の見どころ

そんなサッカー界において、今も神様と尊敬を集めるのが、『ペレ』こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント選手だ。

私も名前は聞き知っていたが、実際、どんな活躍をされたのか、リアルタイムに経験したことはない。

思い出というなら、中学生の時分、『勝利への脱出』という映画のCMに登場する美しいオーバーヘッド・シュートぐらい。あのCMもTVでも繰り返し流され、高橋陽一の『キャプテン翼』にも大きな影響を与えたことは言うまでもない。(私は映画用のスタント・アクションとばかり思ってましたが^^;)

これこれ。オーバーヘッド・シュートは最後の方に出てくる↓

今回、五つ星評価を信じて視聴したが、予想以上の出来だった。

本筋もいいが、前半に登場する、スラム街の子供プレイヤー達の可愛いこと、凄いこと。

一部は特殊効果もあるのだろうが、洗濯物で作ったボールであれだけの動きができればたいしたもの。

彼らの必死の活躍と仲間の死に、最初の涙腺崩壊が訪れ、サントスFCに移ってからは、技術的なスランプや人種差別的なエピソードにじんわり。

最後はお決まりの感動プレーで、鉄板といえば鉄板なのだけど、それが押しつけがましくなく、爽やかなサクセスストーリーに仕上がっているのは、ペレの内面にフォーカスした脚本と、ちょっとばかりケレンの効いた演出ゆえだろう。

ストップモーションやズームなど、ゲームの場面はまるで『キャプテン翼』みたいで、サッカーを知らない人でも十分に楽しめる内容だった。

その中でつくづく感じたのが、ペレはまさにブラジル国民の希望とアイデンティティだったということ。

ただ強いだけではない、世界的な潮流に逆らって、ブラジリアン・スタイルを貫いたプレーに国中が心を動かされた。

本作は、単なるスタープレイヤーの誕生物語ではなく、人としてどう生きるか、国とは何かを問いかける作品なのだ。

それを象徴するのが、『ジンガ』と呼ばれるテクニックだ。まるでサンバを踊るような華麗な足さばきとリズム感である。

『ジンガ』に重ね見るブラジルらしさ

当時、ブラジル・サッカー界は、欧州に追いつけ、追い越せで、ジンガのような個人技から、フォーメーション重視のプレーに切り替わろうとしていた。
フォーメーションにおいては、ペレのような個人技は必要なく、いかに隊列を組み、全体で動くかが重要になる。

得意のジンガを「使うな」と指示され、欧州風のフォーメーション・プレーに従うことを強要されたペレは、たちまち自分のプレーを見失い、チームから孤立してしまう。

早くも限界を感じ、サントスから去ろうとしたペレに、彼をスカウトしたヴァウデマール・デ・ブリードは、ブラジル人とジンガのルーツについて聞かせる。
彼の先祖は、かつてポルトガルから奴隷として連れてこられた黒人たちだった。だが、一部は自由を求めて脱走し、身を守る術として格闘技ジンガを編み出す。

その動きは様々に発展し、サッカーで頂点を極めた。

ペレは自分のルーツを認識すると、サントスに戻り、道を模索する。

監督との衝突、チームメイトとの齟齬、国際試合での人種差別、等々。

何度も挫けながらも、辿り着いた答えは、自分らしさであり、ブラジル人としての誇りだった。

その思いは仲間にも伝わり、全員一丸となってワールドカップ優勝へと導く。

ポジションを得る為に監督の指示に従うか、得意のジンガで勝負するか、迷うペレの姿は、そのまま現代人の苦悩でもある。

世の中は物凄い勢いで移り変わり、昨日まで通用した手法が明日にはもう通じない。

周囲には、ああしろ、こうしろ、と、いろんな情報が溢れかえるが、どれもが本当で、どれもが間違いのように感じる。

自己主張したい気持ちもあるが、流行から取り残されるのも恐ろしく、いつしか自分を抑えて、周りに同調するようになる。

自分を疑い、道に迷いながら、どうして能力を開花することができるだろう。

ペレもまた試合中にジンガ・スタイルを躊躇い、膝を痛めてしまう。

ますます自信喪失するペレに、元サッカー選手の父親は、自分を信じて、周りに認めさせろと励ます。

様々な苦難を経て、ペレとブラジル代表チームは、欧州流のフォーメーション・プレーではなく、自分たちのルーツに立ち返るわけだが、その過程を見ていると、現代というのはつくづく自信喪失の時代と思わずにいない。

世界中の価値観やライフスタイルが猛烈な勢いで変わっていく中、自己を貫くのは、そう簡単ではないからだ。

それは個人のみならず、国も同様だ。

テロ、格差、難民問題、グローバル化、いろんな意味でボーダーが溶けだし、長年の慣習も、常識も、通用しないところまで追い込まれている。

この先、新たな価値観を見出すのか、それとも原点に回帰するか、明確な答えはない。

いろんな情報に振り回され、上から下まで道の途中で往生しているのが現状だ。

世の中、これだけボーダーレスになり、人や物が国境を越えて行き交う時代、もはや国など何の意味もないと言う人もあるだろう。

だが、いくら個の時代とはいえ、帰属なくして個は成り立たない。『自分は何ものか、文化と社会のルーツはどこにあるのか』という問いかけは、アイデンティティの基盤となるものだ。

ペレとはライバル関係にあるイタリア系ブラジル人のマゾーラが、「イタリア人になりたかった。だが、ここ(ワールドカップ開催地のスウェーデン)に来てわかった。俺はブラジル人だ」と語る場面があるように、私たちは「個としての自分」と「社会との関わり」の中で生きていく。

それは単なる愛国心ではなく、社会的存在としての意識がそれを求めるのだ。

国をあげてワールドカップに熱狂するのも、単なるサッカー好きではなく、連帯の中に自己の帰属や基盤を再認識するからだろう。

それはグローバル化が進み、よりフラットに変貌する未来においても変わらないと思う。

今の時代、自分を信じるのは難しいかもしれないが、本来の自分を離れて、どんな生き甲斐があるというのだろう。

たとえ、それが主流でなくとも、周りと違っていても、自分を貫けば、いずれ周りも認めるようになる。

それは混沌とした現代において、もっとも必要とされる力ではないだろうか。

ボール一つで、何所でも、何時でも

ちなみに、サッカーが世界中で愛される所以は、「誰でも手軽にプレーできる」とうい点にあると思う。

野球やテニスは道具が必要だし、バレーボールやバスケットボールも本気でゲームを楽しもうと思ったら、ネットやバスケットが必要になる。

その点、サッカーは子供用のゴムボールやバレーボールでも代用できるし、映画に描かれていたように、洗濯物を丸めたものでも応用が利く。

また野球でもバスケットでも、あまりに年齢や体格の違う者が混ざってプレーするのは難しい。

その点、サッカーは、中学生と小学校低学年の子供が混ざってプレーすることが可能だし、女の子でも参加できる。

キャプテン翼の『ボールはトモダチ』じゃないけれど、サッカーはボール一つで、どこでも、誰とでも、プレーが楽しめる。

貧乏人でも、小柄でも、スラムでも、荒れ地でも、ボールさえあれば、すぐにもゲームを始められる。

その手軽さがサッカーの最大の魅力であり、圧倒多数の経験者をほこる所以だろう。

そして、どんな人も自分が楽しんだスポーツのことは心身が忘れない。

スポーツ中継を見ていると、自分が動き回っているような錯覚を覚え、「あのサーブならブロックできたのに」「次は左方向にスマッシュが来るぞ」と分かったりする。

経験者が多いほど、ファンが増えるのは自明の理で、サッカーが貧富を問わず、世界中で愛されるのも、その手軽さゆえだろう。

じゃあ、どうして日本では野球みたいにサッカーが盛り上がらないのかといえば、国土の狭さも大いに関係あると思う。

ボール一つでトモダチになるほど開放的でもないし。

サッカーというのはチームの中からヒーローが生まれるシステムで、武士の一騎打ちで勝ち上がるゲームとは少し性質を異にする。

「お前だけ目立って」が苦手な日本人には、武士の一騎打ちの方が勝負しやすいのかもしれない。

DVDとAmazonプライムビデオの紹介

ペレ 伝説の誕生(字幕版)
出演者  ケヴィン・デ・バウラ (出演), ディエゴ・ボネータ (出演), コルム・ミーニイ (出演), セウ・ジョルジ (出演), ヴィンセント・ドノフリオ (出演), ロドリゴ・サントロ (出演), ジェフ・ジンバリスト (監督), マイケル・ジンバリスト (監督), ジェフ・ジンバリスト (Writer), マイケル・ジンバリスト (Writer), ペレ (クリエイター), ブライアン・グレイザー (クリエイター)
監督  
定価  ¥400
中古 1点 & 新品  ¥400 から

家族みんなで楽しめる映画です。
ちびっこ仲間のエピソードは切ないものがありますが、皆の心の支えだったことでしょう。
吹き替え版もありますので、金曜の夜に、ぜひ。

Amazonプライムビデオで視聴する

【コラム】 スポーツと国家の威信 : 伊藤みどりさんの活躍を振り返る

愛国心の高揚や臣民の団結にスポーツが利用されるのはコロッセウムの時代からそうだが、なぜこうも盛り上がるのかといえば、代替戦争の色合いが強いからだろう。
私の居住国でも、なんだかんだでロシアが負けたら嬉しいし、ドイツに勝ったらしめしめと思う。歴史的感情と全く無縁ということはないから。

世界平和の為に、この際、国家間のもめ事は、全部サッカーでけりをつけてはどうかと思うが、そうなったら、そうなったで、「うちはサッカーより野球の方が強いから」「設備に劣る我が国は不利ではないか」という話になるだろうし、選手や監督に対する怨嗟が高じて、個人的報復に発展するだろうから(実際、熱狂的ファンに射殺された選手もいる)、武力で戦うにせよ、スポーツで代替戦争するにせよ、そこにマウンティングの気持ちがある限り、平和的解決には程遠いだろう。

ところで「国家の威信にかけて」で真っ先に思い浮かぶのが、フィギュアスケートの伊藤みどりさん。
この方のプレッシャーと国民の期待は大変なものだった。
それなら浅田真央ちゃんも同様じゃないか……という人もあるかもしれないが、伊藤さんが現役だった 1992年アルベールビルオリンピックの頃は、日本人が世界大会の上位に食い込むということ自体が偉業だったし、よもや日本人女性がフィギュアでメダルを獲るなど想像もしなかったのだ。

それまでフィギュアスケートといえば、お姫様系白人女性の世界。もちろん技術も問われたが、白雪姫みたいなスケーターが銀盤でくるくる踊る『スケート靴を履いたバレリーナ』みたいなものだった。
そこに伊藤さんは三回転半ジャンプという超絶技巧で挑み、白雪姫のイメージを一変した。

当然、世界の動揺も大きく、当時の女王カタリーナ・ビットが、「観客は跳ねるゴムまりを見に来たのではない」と揶揄したのは有名な話。(ライバル関係にあったので、意地悪く誇張されているとは思うが)

それでも、オリンピックの大舞台で前人未踏の三回転半ジャンプを決めれば、金メダルは間違いなし。
日本国民の期待も以上に高く、そのプレッシャーたるや、浅田真央ちゃんの比ではなかったと思う。
何故かといえば、真央ちゃんが出て来た頃には、日本人選手のレベルは非常に高く、世界選手権での入賞も当たり前、その前に荒川静香さんというメダリストもいて、プレッシャーの質が違った。

また伊藤さんの場合、『女子で初めての三回転半ジャンプ』という世界記録への挑戦でもあり、ただ一度のチャンスに課せられた使命は計り知れない。
これでメダルに手が届かなかったら、日本国民の失望も計り知れず、「健闘」などという生ぬるいものではない、国家の威信にかけた大仕事であり、義務だったのだ。

折しも時代はバブル最盛期に翳りが見えてきた頃。
経済では世界的に大成功を収め、外国の象徴みたいな映画会社や建物や名画を買いあさり、エコノミック・アニマルと呼ばれながらも、羨望の眼差しで見られていたが、金が手に入れば次は名誉が欲しくなるのが俗人の性というもの。
伊藤さんの勝利は、日本人が経済のみならず、文化、スポーツ、精神性など、あらゆる面で「一流」を世界に示す大きな機会だったかもしれない。

しかしながら、世界が日本人選手の台頭を指をくわえて見ているはずもなく、女子スケートも白雪姫の世界から高度な技術を競うものに変わっていった。

そして、いよいよ本番。
ショートプログラムは不調に終わり、雲行きが怪しくなってきた中、確実にメダルを獲る為に、「三回転半を取りやめる」という話も出てきた。もし失敗して、派手に転倒でもしたら、上位入賞さえ不可能になるからだ。

飛ぶのか、飛ばないのか。メダルはとれるのか。

日本中が固唾を呑んで見守る中、日本時間の早朝にフリーの競技が行われ、その日のモーニングショーが「みどり、三回転半に成功!」の話題に湧いたのは今も忘れられない。学校でも、職場でも、皆が顔を合わせた時の第一声が「みどりちゃん、飛んだ?」「飛んだ、飛んだ!」「銀メダルだよ」だったから。

荒川静香さんや浅田真央ちゃんがメダルをとった時も国民は湧いたかもしれないが、伊藤さんの時は別格だったように記憶する。これで世界の厚い壁が破れた、いよいよ日本人が文化でもスポーツでも堂々と欧米先進国とわたり合える時代が到来したのだ、と、皆が実感した瞬間でもあったから。

同じように、ペレもブラジル国民に希望と誇りを与えただろうし、アルゼンチンのマラドーナ、ルーマニアのコマネチ、ウクライナのセルゲイ・ブブカ、アメリカのカール・ルイス、等々、その国のアイデンティティを象徴するような選手はいる。彼らはただ強いだけでなく、その時々の情勢や国民感情を一身に背負ったようなところがあり、時代に選ばれた宿命的なものすら感じる。

伊藤さんもその例にもれず、「三回転半は、日本国民が一丸となって飛んだ」といっても過言ではない。

それほどの夢を見させてくれるのがスポーツであり、それゆえに愛国心の高揚にも利用されるのだが、だとしても、様々な困難に打ち勝ち、栄冠を手にする人の姿は美しい。

たとえ国家的危機が訪れても、国民が自信を喪失しても、希望と闘志は、こうしたスポーツ競技の中からも現れるのではないだろうか。

日本中が見守った、伊藤みどりさんの三回転半ジャンプ。

目次
閉じる