ピアノの演奏 音を表現するということ

ピアノの演奏と霊媒 『音を表現する』ということ

ピアノの演奏 音を表現するということ

ピアノというのは不思議な楽器だ。

鐘の音、水の音、そよぐ風、夜のしじま。

地上に存在するあらゆる音はもちろん、

死、聖霊、悲しみ、希望。

目には見えないものまで音にして紡ぎ出す。

音には形が無い。

だからこそ変幻自在に響きを変え、聴く人の心にダイレクトに飛び込んでくる。

弦楽器が霊的な音を奏で、管楽器が天にこだまするように、ピアノは世界中の音を映し出し、心をふるわせる。

ピアノの演奏 音を表現するということ

『ダイヤモンドの音がした』――

昔、ピアノの調教師を主人公にした『四季・奈津子』というドラマで、奈津子が初めてピアノの音を耳にした時の印象を、そんな言葉で表していた。

全ての中心である『A;アー』(ラの音)。

まろやかな『E;エー』(ミの音)。

『B;ベー』(シの音)にはきしむような響きがあるけれど、

『B♭;ベーフラット』には遠い秋のような懐かしさがある。

ダイヤモンドの音がしたのは、高い方のAだったか――

誰もいない冬の音楽教室で初めてピアノを聞いた奈津子は、大人になってからもずっと輝くような音色を追っていた。

【サン・シストの聖母】より : detail -The Sistine Madonna- ラファエロ・サンツィオ Raffaello Sanzio
【サン・シストの聖母】より : detail -The Sistine Madonna- ラファエロ・サンツィオ Raffaello Sanzio

私がピアノを弾き始めたのは、四歳の時だ。

でも本当の意味でピアノの弾き方を知ったのは、十五歳になってから。

それまではただ楽譜に書かれた通りに指を動かし、記号に従って音を膨らませたり、伸ばしたりするだけだった。

一応、曲にはなっていたけれど、そこに“私”は無かった。

ウィリアム・ウォーターハウス シャロットの女
【シャロットの女】ウィリアム・ウォーターハウス

表現する』――

先生の口から何度その言葉を聞かされたかしれない。

「音を使って表現するの。分かる?」

うんうんと頷き、自分では目一杯、音を盛り上げてみせるけど、先生の言う“表現”からはうんと遠いらしく、

「あなたは曲を理解できるのに、どうしてそれを表現できないの」

と嘆かせた。

それを不思議と感得できたのが、十五歳の時。

高校で吹奏楽を経験するようになってからだ。

その頃、吹奏楽コンクールの地区予選に向けて、連日特訓に励んでいたのだが、一番難しいのが、指揮者のタクトを見ながら合奏することだった。

管楽器は、空気を吹き込んでから音が出るまで、0.0*コンマ秒の時間を要する。

しかし打楽器は、打てばすぐ音が出てしまう。管楽器と合わそうと思ったら、この0.0*秒の微妙な時間差を意識してアタックしなければならない。

初めて打楽器を手にした私には、その0.0*秒の感覚が分からず、何度も飛び出しては指揮者に叱られた。

友達に手伝ってもらって、何度も合わせる練習をしたが、その微妙なタイミングをなかなか体得することが出来ず、焦りは日に日につのっていった。

そして、総合練習が始まってから、一週間ほど経ったある日、指揮者の先輩が行った。

「タクトの動きが分かるか?」

「ハイ……なんとなく」

「タクトは見るものじゃない。心で感じるものだ。目で見て、合わそう合わそうとするから、君だけ音がズレてしまうんだよ。

音は呼吸。呼吸は気持ち。

タクトを感じて、皆と呼吸を合わせられるようになれば、自然に良いタイミングで音が出せるようになるよ」

ピアノの演奏 音を表現するということ

『音は呼吸』――

その言葉を何度もかみ締めながら、私は楽器と向かい合っていた。

曲の感じは分かるけど、それを技術で表現できない、もどかしさが心を覆っていた。

そうして息の詰まるような重圧感を抱えながら、気晴らしにピアノに向かった時、不思議と私は呼吸を吐き出すことを知ったのだ。

弾いたのは、ドビュッシーの『月の光』。

水面に映る月の光が、音にとけ出したような透明な響きが好きで、いつもしんと静まり返った夜をイメージしながら弾いていたもの。

音が、水の音にも、光の粒にもなるのを知ったのは、この曲を聴いてからだ。

いったい音にはどれほど無限の色彩があるのだろうと、いつもうっとり聞き入っていた。

その日も、私は水面に跳ねる月の滴や、夜の静寂を想いながらピアノを弾いていたが、ある時、ふっと指揮者のタクトが脳裏に浮かび、音を導き始めた。

指先ではなく、身体のもっと奥深いところ――己の源泉から音が溢れ出すような感覚だ。

いつしか私は自分が指を動かしていることも忘れ、ただ音を紡ぎ出すだけの、別の何かになっているような気分だった。

しまいに自分の奏でる音に感電したみたいに弾くのを止め、しばし茫然と鍵盤に見入った。

今のは何だったんだろう――?

まるで高みに舞い上がり、ただただ音だけが広がる世界――心象に溶け込み、音と霊を繋ぐ為の道具になったみたい。

その時、私はなんとなく理解したのだ。

音に、自分の霊を注ぐことを。

音の向こうにいる作曲家の魂と、自分の魂を重ね合わせ、一つの音楽を作り出すことを。

ロセッティ ベアータ・ベアトリクス

音楽における表現

それは一つの媒体になることだ。

心象を形に表し、音として奏でることだ。

人の目に映る世界で、同じものはこの地上に一つとしてない。

なぜなら、私たちは心を通じて世界を見ているからだ。

一人の作曲家がその心象を音に描く。

演奏家は、楽譜の向こうに広がるその霊を感じ、自らの肉体を使って、再びこの世に現わす。

自分の内なる世界を音に織り交ぜながら。

その人の目に映る世界が唯一無二であるように、人の奏でる音楽も同じものは二つとして存在しない。

そして、すべての演奏は一瞬で過ぎ去り、二度と同じ音色は響かない。

だが、幾重にも広がる響きの中に、私たちは永遠に生き続ける作曲家の魂を感じ取ることができる。

ピアノは輝かしい音の結晶であり、作曲家の霊と現し身を結ぶ霊媒師でもある。

黒色と白色の高雅な姿を誇りながら、今日も何処かで絶対無二の世界を紡ぎ出している。

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