近頃は、他人の理想や述懐を揶揄するのに『ポエム』という言葉が使われる。
非現実的で、子供じみた考えが、少女詩集みたいで気持ち悪いと。
では、現実的で世間慣れしていれば、優れた意見というのだろうか。
世の中を変えるのに、理想や抒情は必要ないと。
だが、人の心の美しさや儚さ、痛みや翳り、夢や哀しみといった詩的な部分を排除し、効率や具体性ばかり求めれば、それは優勢なものばかりが生き残る選別社会の始まりでもある。現実に役に立たつか否かで是非が決められ、抒情や憧れはポエムとして片付けられるなら、人間の価値は生産性でしか測れなくなるからだ。
寺山修司の言葉に、『詩を作るより、田を作れ』という一節がある。私はこの言葉が非常に好きで、現代の社会や人間性をよく言い当てていると思う。
「詩を作るより、田を作れ」という思想は、根本的には政治主義に根ざしたものである。それは「役に立つ」ということを第一義に考えた処世訓であって「詩なんかなくても生きることはできるが、田がなければ生きることはできない。だから、どうせやるなら自他ともに役立つところの、田を作る方に打ちこむべきだ」といったほどの意味である。勿論、ここでいわれる「田を作る」ということは比喩であって、「目に見えた効果、社会的に有効な仕事」といったことを指しているのであろう。(21P)
実際、他人に「役に立つ詩」は存在しないかも知れない。
詩は、書いた詩人が自分に役立てるために書くのであって、書くという「体験」を通して新しい世界に踏み込んでゆくために存在しているものなのだ。
だが、「役に立つ詩」はなくても「詩を役立てる心」はある。それはあくまでも受け取り手の側の問題であって、詩の機能をうらからたぐりよせてゆくための社会性の法則のようなものである。
人生処方詩集
正直、『詩』など、この世にあってもなくても大差ない。消防員や旋盤工や医師やプログラマーは無くなったら非常に困るが、詩は物を作るわけでもなければ、病人の車椅子を押すわけでもない。身を捨つるほどの故郷だかなんだか知らないが、つらつらと書かれた数行の文字列に卓越した生産力があるはずもなく、それ自体は世の中に何の意味も成さない。観光地の駐車場で交通整理してくれるお巡りさんの方がよほど有益で、ありがたいだろう。そういう考えは職業に限った話ではなく、政治、経営、教育、人間関係、すべてに共通したものだ。数千万の収益をあげたり、数千人の観客を集めたり、具体的に役立つものは高く見られるが、そうでないものは蔑視される。それは人の思いや考えも同様で、生産に直結する意見は重んじられるが、現実社会にリンクしない理想や夢はポエムとして揶揄される。その本質は政治主義であり、真の創造性とは似て非なるものだ。なぜなら、創造とは既成の概念や手法を超えるものであり、生産とは異なるからだ。
生産性ばかりを追い求めるようになれば、柔軟な思考も、自由な発想も、失われていく。
世界を謳う心こそが、人間と社会に真の開放と成長をもたらすのではないだろうか。
一ばんみじかい叙情詩
なみだは
にんげんのつくることのできる
一ばん小さな
海です
初めてこの詩を見た時――そう、『読んだ』のではなく、文字列がごろりと目に飛び込んで、文字通り『見た』のだ。
言葉の海。
これを書いた人の心を。
海について語らせれば、多くの人は、その広大さや美しさを讃え、波の音に自分の感情を託すだろう。
だが、この詩はよくあるものとは違っていた。
海が自分の内側から流れ出るなど、考えもしなかった。
そして、人の流す涙には、海のもつ全ての要素が込められている。
喜び、悲しみ、切なさ、痛み……。
あの青い海に自分を重ね見る必要などない。
それは既に私たちの内側にあって、海よりも広いのだ。
私も海について書こうと思ったけれど、この詩が全て言い尽くしているので、私の言葉は続かなくなった。
そして、もうこれ以上のものは書けないや……と思ったら、逆に気が楽になって、私は私の海を書けばいいと感じた。
これより上手に書けなくても、書くべきことは山ほどあるから。
私たちはほんの一瞬、世界を垣間見ることのできる火花のようなものです。
ただ一言――それを表すのに最適な、たった一つの言葉を探して、心の辞書をめくります。
が、どんな美辞麗句も、瞳からこぼれおちるものを海に喩えるセンスには敵わないのですよ。
私の中では、ジャン・コクトー(上田敏・訳)『わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ』と並ぶ名詩です。
つきよのうみに
いちまいの
てがみをながして
やりましたつきのひかりに
てらされて
てがみはあおく
なるでしょうひとがさかなと
よぶものは
みんなだれかの
てがみです
この詩は、月の光に照らされて、手紙が『青く』なる箇所がいい。月の光といえば、黄金をイメージするけども、ここで語られるのは『青』のイメージ。暗い水、夜の海、淋しさ、静けさ。
手紙は多分、片思いの恋文だろう。
行き場がないから、海に流す。海に流せば、すべては洗われて、この世のどこかに通じる所があるから。
夜の海には、そんな魚がいっぱい。
人の数だけ、悲しみと淋しさがある。
かなしくなったときは
かなしくなったときは
海を見にゆく古本屋のかえりも
海を見にゆくあなたが病気なら
海を見にゆくこころ貧しい朝も
海を見にゆくああ 海よ
大きな肩とひろい海よどんなつらい朝も
どんなむごい夜も
いつかは終る人生はいつか終るが
海だけは終らないのだかなしくなったときは
海を見にゆく一人ぼっちの夜も
海を見にゆく
この返歌として書いたのが、「海を想う人の心が美しいのだ」。
海なんて、誰の目にも美しく見えるものではない。
ああ、波が荒れてるな……としか感じない人もあれば、機械油でギトギトになった港を見ても何とも思わない人もいる。
海は、それを見る人の心の鏡であり、それ自体が何かを物語るわけではない。
だから、海をどう表現するかを見れば、その人の心が分かる。
海が美しいのではなく、海を想う人の心が美しいのだ。
そらまめが病気になったら
そらまめの医者を呼べばいいそらまめが死にたくなかったら
パチンとからを割ってとびだすさ
そらまめの坊やにも『家出のススメ』。
そんなカラに閉じこもってないで、パチンと飛び出そうよ。
カラの中で生き続けても、心が死ねば、人生も死ぬ。
死にたくなかったら、今すぐ、ジャンプ!
しゃぼん玉
生まれてはみたけれど
どうせ酒場の家なき子
花いちもんめ
赤いべべ着て
地獄へおちろ
親のある子は
地獄へおちろ酔っぱらってはみたけれど
どうせ闇夜の宿なし子
花いちもんめ
少女倶楽部は
地獄へおちろ
花嫁人形は
地獄へおちろ
おちる地獄を
うつしてまわれ
浮気なキネマの
しゃぼん玉
『地獄へおちろ』なんて、怖い! ひどい! と思うだろうか。だが、これが詩の世界であり、創作の素晴らしさなのだ。
これを書いた寺山氏自身、そりゃ、いろいろあったろうと思う。
だが、それを感情的に「親死ね! ○○ムカつく!」と書くことはなかった。なぜなら、彼は詩人であり、人間としての誇りがあったからだ。
だからストレートに死ねだの、むかつくだの、世間に毒づくのではなく、詩や演劇に昇華して、自身の負の感情を芸術に結晶させたのだ。
そして、その力は誰の中にもある。今、この瞬間にも、書き始めればいい。
上手である必要はないし、他人にお伺いを立てる必要もない。
『言葉』というものに対して、謙虚な心と、愛情と、言葉のもつ不思議な力への敬虔さがあれば、その情熱や憎悪はきっと素晴らしい一遍の詩になるだろう。
それが真の意味で創造的な人生。あなたの魂を開放し、苦しみに光をもたらす。
三匹の子豚
あしたはみんな死ぬ
一匹は退屈で
つぎの一匹も退屈で
最後の一匹も退屈で
これはジャック・プレヴェールの詩『五月』のパロディと思う。
*
ロバと王様とわたし
あしたはみんな死ぬ
ロバは飢えて
王様は退屈で
わたしは恋で
時は五月
*
しかし、三匹の子豚が退屈のあまり次々に死んでいくのはシュールだな。
狼は肉体を滅ぼし、退屈は心を滅ぼす。
退屈は、怠惰と無関心の息子。
十九歳
五歳の時
わたしは宝石を失くした十歳の時
わたしは宝石が何であるかを知った十五歳の時
わたしは宝石をさがしに出かけた十七歳の時
わたしは宝石は水の中で光った十九歳の時
わたしは愛という名の宝石を手に入れただが
それはわたしの失くした宝石ではない
わたしの失くした宝石は
いまも
世界のどこかで
名もない星のように光っていることだろう
これは無邪気な想像力、もしくは創造性の喩えではないかな。
普通、愛を得たら、幸福も、平安も、すべてを手に入れたような気分になるけれど、一方で確実に失われるものもある。それは悲嘆や慟哭から生まれる激しい言葉であり、造形だ。愛だけが万物の神ではなく、憤怒、怨憎、絶望、嫉妬から鮮やかに生まれ出るものもある。愛に満たされると、満腹の狼みたいに心も鈍感になり、何かを成そうという激しい希求も失われる。こと創造においては、狼みたいな飢餓感が不可欠だから、愛に満たされては困るのだ。愛に満たされたら、もう二度と、愛の詩は謳えない。憧れの海で、愛の夢を見る必要もなくなる。それは確実に詩人の死であり、創造の終わりだから。それを名もない星に喩えたのが、この詩じゃないかな。
かなしみ
私の書く詩のなかには
いつも家があるだが私は
ほんとは家なき子私の書く詩のなかには
いつも女がいるだが私は
ほんとうはひとりぼっち私の書く詩のなかには
小鳥が数羽だが私は
ほんとは思い出がきらいなのだ一篇の詩の
内と外とにしめ出されて私は
だまって海を見ている
これも上記の続き。
詩を生むトリガーになるのは、たいてい、現実の欠けたところであり、心の歪な隙間からだ。
そして、皮肉なことに、それを書き上げてしまうと、詩の中にも自分の居場所がなくなって、内にも外にも、属するところがなくなってしまう。
詩人というのは、半分夢の中に属し、半分現実を生きている人のことを言う。
内と外の狭間で立ち尽くす寺山氏の心情はまったく正しい。
詩など永遠に完結しない方が、むしろ幸せかもしれない。
汽車
ぼくの詩のなかを
いつも汽車がはしってゆくその汽車には たぶん
おまえが乗っているのだろうでも
ぼくにはその汽車に乗ることができないかなしみは
いつも外から
見送るものだ
現実を生きるぼくと、詩を書くぼくと、ぼくの中に二人いる。
一方はプラットフォームの端に佇み、一方はそんなぼくを見下ろす。
どちらも同じぼくだけど、違う次元を生きていて、一つの思いが心を駆け抜ける度、そして、それを詩に書く度、もう一人の詩を書くぼくは時の流れの向こうに走り去っていく。
そんな感じ。
ガーネット Garnet
もしも
思い出をかためて
一つの石にすることが出来るならば
あの日
二人で眺めた夕焼けの色を
石にしてしまいたい
と
女は手紙に書きましたその返事に
恋人が送ってよこしたのは
ガーネットの指輪でしたあかい小さなガーネットの指輪を見つめていると
二人はいつでも
婚約した日のことを思い出すのです
これは喩えようもない名作。