(1) 江川卓・訳 『カラマーゾフの兄弟』 プロローグより
ドストエフスキー最後の大作『カラマーゾフの兄弟』は、カラマーゾフ一家、とりわけ、“主人公のアレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)に詳しい書き手”の回想録として始まる。(このパートにおける『書き手』とは、ドストエフスキーではなく、『カラマーゾフの兄弟』の語り部のこと)
この冒頭は、小説の手法としても上手い。
キャラ視点で展開するより、第三者の視点から物語を幕開ける方がよりスムースで、説得力があるからだ。
似たような手法に田中芳樹の『銀河英雄伝説』がある。
銀英伝も、冒頭部は、(実在しない)歴史家の視点で綴られていて、銀河帝国の始まりからヤン・ウェンリー、ラインハルトの生い立ちなどが、歴史書のように解説されているのがよかった。あれで読み手を一気に引き込むからだ。
竹宮恵子の『ファラオの墓』も同様。
実在しない「エステーリア戦記」を主軸に、歴史書のような解説を挿入することで、創作にリアリティを持たせた。
そのインパクトたるや、「エステーリア戦記」を史実と勘違いした少女読者が本屋で『エステーリア戦記』を買い求めたほどだ。(魁!男塾 の民明書房刊みたい)
ドストエフスキー伝によると、最初は、アリョーシャの視点で物語を展開する予定だったが、途中で、”書き手”=第三者に変わった。
これはまったくの英断だ。
カラマーゾフの兄弟、三者三様の立場で、それぞれの宗教観や人生観を説く、長大な物語。
アリョーシャの視点を中心にしては、世界観が偏ってしまう。
メインキャラクターで、物語の心髄でもあるアリョーシャさえも、もう一段高い『神の視点』から見下ろすことで、物語に人間性が増した。
アリョーシャの一人語りであれば、「人も世界もこうあるべき」みたいな教養小説で終わっていたかもしれない。
そんなドストエフスキーの遠大な計画が如実に綴られたのが、『カラマーゾフの兄弟』全編を貫くプロローグ。
これは、作品に対するマニフェストであり、ドストエフスキーが最後に辿り着いた作家哲学でもある。
実は全編の中で、プロローグが一番好き……というのは邪道だろうか?
同時に、こう思うのだ。
世間の想像とは裏腹に、案外、ドストエフスキーは、この長編をあっさり仕上げたのではないかと。
もちろん、執筆作業には四苦八苦しただろうが、全ての構想は頭の中にあって、迷うことなく、一気に書き上げた感がある。
一言で言うなら、ドストエフスキーにとって、これぐらいの長編は訳ないのだ。
何故なら、フョードルも、ドミートリィも、イワンも、アリョーシャも、既に彼の一部だからである。
<中略>
もっとも、私としては、こんな糞おもしろくもない、しどろもどろの解説などに血道をあげず、前置きぬきで、ずばり本題に入りたい気持ちはやまやまだったのである。
なに、気に入りさえすれば、そのままでも読み通してもらえるのだから。
ところが、困ったことに私の場合、一代記のほうはもともと一つなのに、小説は二つになっているのである。中心になるのは第二の小説で――これは、わが主人公の現代における、つまり、いま現在の時点における活動を扱っている。第一の小説のほうは、もう十三年も前の出来事で、ほとんど小説といえるほどのものっでもなく、わが主人公の青春期のほんの一モメントを描いているにすぎない。
ところが、この第一の小説を抜きにすると、第二の小説にわからないところがたくさん出てくるので、これはできない相談である。(8P)
世に知られる『続編=アリョーシャ皇帝暗殺説』を仄めかす一文。
皇帝暗殺だったかどうか分からないが、二部構成だったことは確実。
世に出ている『カラマーゾフの兄弟』が第一部(ほんのさわり)としたら、第二部はどれだけ膨大な量だったか。
自分でも”クソ長い”ことを自覚していたドストエフスキーは、こんな風に記している。
しかしこの点については、今度こそ明確に答えておきたい。
私が駄弁を弄し、貴重な時間を空費していたのは、第一には、礼儀の気持ちからであり、第二には、だから前もってお断りしておいたじゃないですか、とあとから逃げを張りたい狡猾な魂胆からである。
それはともかく、私は自分の小説が≪全体としての本質的な統一を保ちながら、おのずと二つの物語に分かれたのを、むしろ喜んでいる。
第一の物語の二ページ目あたりで本をほうり出し、それっきり二度と開いてみなくても、それはいっこうにかまわない。しかし、なかにはすこぶる慎重な読者もいて、公平な判断を誤らぬために、どうあっても最後まで読み通そうという場合もあるわけで、たとえば、あがロシアの批評家諸君などは例外なくその口である。
まあ、こういう読者が相手なら、わたしもだいぶ気が楽というものだが、彼らがもっとも几帳面であり、良心てきであることをゆめ疑うものではないとしても、やはり彼らに対しても、小説の最初のエピソードのあたりで大威張りで本を投げ出せる口実を与えておくことにしたい。
さて、序文はこれでおしまいである。
これが蛇足だという意見には、私もまったく同感だが、なにせもう書いてしまったものであるし、このまま残しておくことにしよう。
では、本題にかかることにする。 (9P)
。゚(゚ノ∀`゚)゚。ノ彡_☆バンバン!!
当時から、『クソ長い』と批判され、どうにか短文体質になろうとするも、やはり、なりきれなかったドストエフスキー。
己の命ずるままに、ガンガン書きまくっては、責められ、嫌がられ、自分でも無駄に長い長編体質を気に病んではいたが、最後には「やかましいわ!」の精神で開き直った苦悩の跡が垣間見える。
だが、それでいいのだ。
元々、小説の書き方に正解など無いのだし(文法は別として)、誰の、どんな作品であれ、「その人らしさ」が如実に表れているのが作家の個性ではないか。
もし、ドストエフスキーが「僕もラノベみたいに、さくっと読める小説を書こう」とか言い出したら、皆、逃げ出すだろう。
たかがプロローグでさえ、これだけ弁明せずにいられない人間だから、読む方も、批評する方も、面白いのだ。
長編、長文、おおいに結構。
皆が皆、コンパクトで、読みやすい作品を書かなければならない決まりがあろうだろうか。
真の個性とは、「それ以外になれない」ことである。
たとえ万人受けするものでなくても、その片鱗でも、他人に理解してもらえたら、上出来ではないか。
・・それにしても、「なにせもう書いてしまったものであるし、このまま残しておくことにしよう」は凄いパワーワードだ。
私も同じ理屈で逃げ切るとしよう。
長い目で見れば、書いて、残した者の勝ち。
当時、どのように酷評されようと、形に成した者の圧勝なのである。
↓ 第一回目の私の率直な感想・・
ここに至るまでの道筋が、実に、実に、、、、長いのである ヽ(_ _ヽ)彡 さっさとやれよ、ドミートリィ!! みたいな。