この頃、育児の合間を見ながら、読書に耽っている。
日本から取り寄せた、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット (岩波文庫)』と、池田理代子女史の『あきらめない人生―ゆめをかなえる四〇からの生きかた・考えかた
』という本だ。
私は、来年、とうとう四十の大台に乗る。
かといって、年を取ることに特別抵抗があるわけではないし、四十を境に、女としての自分の株が暴落するとも思わない。
「あぁ、もう、そんなもんか」と、他人事みたいに、のんびり構えている自分がいる。
とはいえ、四十を境に、生きてきた年月よりも、残された時間の方が、だんだん少なくなりつつあるのは事実で、それを思うと、やけつくような焦りを感じることがある。
相変わらず、二人の子供プラス家事に、自分の持てる時間も気力も体力も、ほとんど吸い取られている今、二十代のママが、「自分の時間がなくて……」とこぼすのとは、量的にも質的にも大きな違いがあり、四十代を前にした私のそれば、かなり悲壮感が漂っていたりするのだ。
そんな折り、Amazon.comを検索していた私の目に、理代子先生の、このタイトルが飛び込んできた。
理代子女史は、四十七歳の時、劇画家としての輝かしいキャリアに別れを告げ、声楽の道に進まれた。
ファンが勇気づけられ、声援を送る一方、「今さら何を」と揶揄する声も多く、女史にとっては、決して祝福された選択ではなかった。
にもかかわらず、自分の選んだ道を堂々と行かれた姿に私は打たれずにいなかったし――まさにオスカル的生き方なので――その当時の新聞のインタビュー記事も切り抜いて、今でも大事に持っている。
そんな女史が書き綴られたエッセイだもの。
これは読まなきゃ一生の損だし、本の虫の勘で、今、私の知りたい答えが、きっとこの中に書かれていると確信した。
そして、予想通り、私はまたも心打たれずにいない言葉の数々に出会うことができた。
それは、少女の頃、私の人生のあり方を決めた、オスカルのあのセリフ、「女でありながら、これほどにも拾い世界を……人間として生きる道を……このような、ぬめぬめとした人間のおろかさの中でもがき生きることを……」というのと同じくらい、閃きに満ちたものだった。
ちょっと抜き書きすると――
二十代や三十代ともなると、やはり人間としてこの世に生を受けたからには、何かしら生きた足跡を残さねば、できれば素晴らしい仕事を成し遂げねばと気負ってがむしゃらに生きた。
恋も結婚も子供も、人間として女として普通の人が手に入れるものは何もかも手に入るのが当然だとも思っていた。
四十代になったとき、そのように考えていた自分の不遜さに卒然と気付いた。
その不遜さが、また自分をどれほど苦しめていたかということにも。
すべてを超越するような悠遠な宇宙の摂理の前に、人間一人の存在などいったい何ものなのだろうかという、言ってみれば十代の頃の懊悩に再び還ったような思いがあった。
ただ十代の頃と違うのは、その問に対して、「自分の存在など、何ものでもない」という答えを出せたということだ。
(略)
他人の評価も、遺した作品も、何ほどのことはない。地球でも消滅してしまえば、何も残るものなどない。
そもそも自分が人間として生まれてきたことそのものさえ、大した意味のないことなのだと諦められるようになった。
そうだとしたら、つまらない
ことを思い詰めるのなどやめて、失敗も恐れず、自分のやりたいことをやって残された時間を生きようと腹をくくることができた。
私の心に強く響いたのは、『不遜』という言葉だった。
知ってはいるけど、決して自分に当てはめたことはない言葉だ。
私の「自分病」の根は救いがたいほど深く、今も、家を出た十代の頃と同じ気持ちをどこかに持ち合わせている。
いや、正直、私はまだその延長線上にいて、「望みさえすれば、何でも叶う」という、若さの魔法から抜けきれずにいるのだ。
もっと分かりやすく言えば、いまだに私は、一度も失敗したことのない若者みたいに、「自分は大した人間である」と心のどこかで信じきっているのである。
だから、今、そうできない自分に、やきもきせずにいないのだ。
理代子先生は、自分をがんじがらめにする様々な執着や思い上がりに、一つのけじめをつけることについて、『諦める』という言葉で表現されているけれど、この場合、自棄とか失望ではなく、『諦観』であることは言うまでもない。
諦観――全体を見通して、事の本質を見きわめること。
あるいは、悟りあきらめること。超然とした態度をとること。
孔子の言うところの「不惑」というのは、多分、こういう心境を言うのだろうか。
理代子先生は、「諦めるところから、諦めない人生が始まる」と書いておられるけれど、私はまだまだ煩悩のかたまりで、自分を諦めるところまで行きそうにない。
そもそも、『諦める』って、どういうことなのよ。
……と、上記の文章に共感しつつも、自分のものとして感じられないのが正直なところだ。
いや、「思いたくない」というのが本音ではなかろうか。
自分のことを諦めたくない。
でも、諦めることから、始まる何かがある。
それが分かっただけでも良しとして、今も、少しずつ読み進めているのだけど。
理代子先生が、本当になりたかったのは「お母さん」で(身体的な事情から恵まれなかったそう)、「自分自身の為だけに生きたくない」というくだりには、本当に胸がしめつけられました。
また、その箇所、時間があれば、紹介したいです。
↓ これを読んでない人はないよね。
著者 シュテファン・ツワイク (著), Stefan Zweig (原著), 高橋 禎二 (翻訳), 秋山 英夫 (翻訳)
定価 ¥1
中古 82点 & 新品 から
その他の記事
死ぬまで生き直せる ~NHK『知るを楽しむ(池田理代子)』から
『自分の為だけに生きたくない』という思い ~池田理代子さんの著書より~
初稿:2006年6月19日