現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ! 時代の変化の先の『救済』とは (13)

目次

『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅱ編 『場ちがいな会合』 より

(8) スキャンダル

ラチーキンは裏切り者のユダ? 秘めた嫉妬が悪意に変わる時(12)の続き。

ラキーチンとアリョーシャが意味深な会話を交わす間、僧院長の居所ではとんでもない狂言が繰り広げられていた。

ドミートリィの件で恥をかいた父フョードルが、突如、気変わりして、僧院長との食事の場に引き返してきたのである(参照→ 『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を垂れたのか(11)

彼は本当に家へ帰るつもりでいたし、長老の庵室であんな不体裁をしでかした異常、いまさらしゃあしゃあと僧院長の会食に顔を出すわけにはいかないと感じたことも事実であった。

もっとも自分の行いにひどく恥じ入って、自責の念にかられていたわけでもない。

いや、むしろ正反対だったかもしれない。

だが、それでもやはり、食事に出かけるのは不作法だとは感じていた。

ところが、宿泊所の玄関先に自分のがたぴし馬車がまわされてきたとたん、もう片足を馬車にかけたところで、彼はふいに足をとめた。

長老のもとで口にした自分自身の言葉がひょっくり思い出されたのである。

『私は人前に出ますと、いつも自分はだれよりもいやしい男だ、みなから道化扱いされているような男だ、という気がしております。そこで、よし、それならいっそほんものの道化になってやれ、だいたいおまえたちからして、一人残らず、おれさまより愚かな、いやしい連中ばかりじゃないか!』

彼は自分自身の醜悪な行為の意趣返しを全員にしてやりたくなった。

しかもちょうど折よく、彼はこのとき突然、かつてずっと以前に、「どうしてあなたはだれそれをそうまで憎むのかね?」と聞かれたときのことを思い出した。

そのときは、道化特有の厚顔無恥にまかせて『それはこういうわけなんですよ。なるほど、あの人は私に何もなかったかもしれないが、その代り、こっちがあの人にとてつもなく破廉恥な行為をしちまってね。そうしたとたん、そのことがもとで、あの人が憎らしくてならなくなってたんでさあ』と答えたものである。

ところで、いまのことを思い出すと、彼は一瞬、思いに沈みながら、ひそかに毒々しい笑いをもらした。 <中略>

『もういまさら名誉回復はおぼつかない。それならいっそ、厚顔無恥に居直ってもう一度やつらに唾を引っかけてやるか。きさまらなんぞ屁とも思っちゃいねえや、ってわけだ!』 (110P)

フョードルは品性下劣といえばその通りだが、一方で、プライドが高く、一瞬、誰かの善徳に感激しても、その熱が冷めた時には、感激した自分自身が許せなくなり、「なんで、オレは、あんな張りぼてみたいな偶像に頭を下げたのだ?」と、自分にも、相手にも、腹が立つタイプなのだろう。

勢いにまかせて、僧院長の会食に顔を出したフョードルは、この僧院で修行する三男・アリョーシャを口実に、僧院そのものを批判し、「私はさっそくにも宗務院に上申書を送りますし、息子のアレクセイは家に引き取らせてもらいまさあ……」と言い放つ。

同席していたミウーソフは憤慨するが、僧院長は冷静に対処する。

昔からこう言われております。

『人われをそしり、ついには穢らわしき言葉を口にするといえども、われ、かかる言葉をすべて聞きて、心に言う。これイエスの医薬にして、わがおごれる魂を癒やさんがために送られしものなり』

それゆえ、わたくしどももお客人の言葉をありがたくお受けいたします」 (111P)

それに対し、フョードルは、

そら、はじまりやがった! 偽善だ。 <中略>

神父さん方、私は偽善のきらいな男でしてね。真実が欲しいんですわ!  ただし、すなむぐりに真実があるんじゃありませんぜ! (魚のカマツカのこと)

お坊さま方、なんで精進なんぞなさいますね? それで点号kでご褒美をもらえるなんて、どこから割り出しましたね?

それでご褒美がいただけるもんなら、私だって、精進をいといませんやね!

いえね、お坊さま。僧院にこもって、人の作ったパンを食べて、天上のご褒美をあてにしているよりは、世の中に出ていって善行を積み、社会につくされただどうですね、そりゃ、ちょっぴり骨の折れることにはちがいがありませんがね。

(テーブルの食事を見て) だれのおかげでこんなものがここに並んでいると思います?

こいつはね、ロシアの百姓どもが、手にまめをこしらえて稼いだなけなしの金をですよ、家の者の食いぶちをへらし、国家に納める分をへずって持ってきたものなんですぜ。

え、坊さま方、あんた方は人民の生き血を吸っておられるんだ!」

これを言われたら、誰も反論できないだろう。

お坊さまだけでなく、机上で論だけ唱えている、学者しかり、評論家しかり。

そしてまた、この思いは、ドストエフスキーの本音ではないか。

どんな高説を説こうと、社会をどう分析しようと、実際に、働き、仕え、ものを作り出しているのは、下層の労働者であり、庶民である。

その犠牲の上に、美味いものを食いながら、何を偉そうに・・! というのが、当時のドストエフスキーの社会観という気がする。

そして、フョードルは次のような捨て台詞を吐いて、その場を後にする。

おれはな、もう帰らぬ青春時代の、おれが受けたいっさいの屈辱の意趣返しをしているんだ! <中略>

こんなちっぽけな僧院も、おれの生涯には深い意味のあったところなんだ! この僧院のおかげでどれほどの苦い涙を流したことか!

女房のわめき女をそそのかして、おれに謀反を起こさせたのだって、あんた方じゃないか。七つの教会会議でおれを呪って、近所にふれまわったのもあんた方ですぜ!

もうけっこう、いまは自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですからな。

千ルーブルはおろか、百ルーブリだって、百カペイカだって、あんた方にやってたまるもんか!」

もっとも、フョードルの主張はでたらめで、「この僧院が彼の生涯に特別の意味をもったことなど、金輪際ありはしなかったし、この僧院のために苦い涙を流したなどというのも嘘っぱちだったのである」と。

にもかかわらず、自分で自分の言説に酔って、ついには上記のように言い放つ。

いつの時代も、時代の変わり目には、価値観の変容が伴い、庶民の暮らしも激変する。

昨日まで善徳とされたことが、明日には無駄なことと切り捨てられ、これまで顧みもされなかったものが、突然、力を増して、世の中に台頭するもの。

情報化社会にしても、ネットに溢れる言説から、知りたくもない物事の裏を知り、「この程度の人物だったのか」と唖然とし、昨日まで釈迦と崇めていたものが、実はアタマ空っぽのリカちゃん人形と知って、価値観が崩壊するような衝撃を受けた人も少なくないのではないだろうか。

そんな風に、フョードルやドストエフスキーが生きた1840年代から1870年代というのは、科学技術も発達し、人間はみな平等、権利意識も高まり、月にウサギが住んでいるなど誰も思わない。それは進歩であると同時に、価値観の崩壊でもあっただろう。言葉は悪いが聖母マリアのスカートの中を覗き見るような感じ。医学も進んで、処女懐胎など有り得ないことを、世界中の誰もが知っている。

そんな中、中世と代わらぬ善徳を説いても、何の説得力もないし、むしろ、聞くだけ虚しい。

何故なら、皆が実利に向かって一斉に走り出し、数が全ての時代になれば、神の愛など、何の役にも立たない。

それより、働いても、働いても、一向に報われず、ただ磨り減っていくだけの我々を、どう救済してくれるのか? という問いかけだ。

情報化社会になり、淘汰された人や職業があるように、この時代にも、価値観やライフスタイルの変容を迫られ、脱落していった人も大勢あっただろう。

現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ!という言葉は、僧院に対する嫌みであると同時に、この時代の人々の戸惑いを凝縮した一言でもあるように感じる。

何故なら、その変化の先にある『救い』というものが、当時の庶民にはまったく見えなかったからだ。

20世紀の、戦後の社会には、社会保障があり、人権があり、少なくとも、この時代に平然と行われていた委棄は形だけでも解消されたけれども。

かといって、我々の社会も決して万全ではなく、変化ばかりが先走って、そこから落ちこぼれた人々の救済まで追いつてないのが現状だ。

もし、フョードルの言葉を現代風に言い換えるなら、「(昭和感覚の経営者や政治家に対して)現代はグローバル主義のご時世、AIとシェアリングエコノミーの時代ですぜ!」とでもなるのだろうか。(グローバル主義も揺らいでいるが)

新たな指針と救いを求める気持ちは、ドストエフスキーの時代も、現代も同じで、フョードルの苛立ちは庶民の苛立ち、「ご高説より、パンを寄越せ」である。

ゆえに、かの有名な『大審問官』の物語は、人類に対する永遠の問いかけであり、現代人も考えるべき命題なのだろう。

あるいは、こんな問いかけに、答えなど永遠になく、地上に生きる限り、人は苦悩し、物に、愛に、餓え苦しむといったところ。

そこまで見越してフョードルが僧院に喧嘩を売ったとは思わないが、そんな風に揶揄せずにおれないほど、現実と神の理想が乖離し、多くの庶民が貧苦に喘いでいたのは事実である。

この後、フョードルとイワンは馬車に乗り込み、僧院から立ち去ろうとするが、そこに地主のマクシーモフもやって来て、「あたくしもごいっしょに、お連れ下さい!」と請う。

フョードルは、おまえは淫売宿で殺されて、箱詰めにされて、ペテルブルグからモスクワへ貨物列車で送られたフォン・ゾーンという男と同じだと嘲りながらも、仲間に入れてやろうとするが、イワンはマクシーモフの胸を力任せにどんと小突き、馬車から閉め出す。

このリアクションも、いろんな解釈ができるけども、なんだかんだで彼等はやはり父子であり、良い意味でも、悪い意味でも、イワンはこんな浅はかな男を彼等の中に迎え入れたくなかった、といったところ。

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

カラマーゾフ随想について
絶版となった江川卓・訳『カラマーゾフの兄弟』を読み解く企画です。 詳しくは「江川訳をお探しの方へ」をご参照下さい。 本作に興味をもたれた方は復刊ドットコムに投票をお願いします(現在10票)。

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

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