言葉の問題は自尊心を傷つける『大切なのは自分自身を好きになること』

目次

【心のコラム】 言葉とは、人間そのもの

人は言葉によって、自身の考えや欲求や感情を表し、相手に伝えることができます。

その逆もしかり。

一言といえど、そこには、発した人の心があり、動機があります。

言葉とは、全人的な存在なのです。

もし、何かの原因によって、言葉に不自由が生じたら、人はどんなストレスを感じるでしょうか。

外国語が通じない、身体的な問題がある、精神的なプレッシャーから言葉を発せない、等々。

自分の言わんとすることが誰にも通じなかったら、大変な孤独と疎外感を覚えるでしょう。

あるいは、自身の意思も欲求も思うように伝えられない為に、自尊心が傷つくかもしれません。

言葉は、どんな些細な一言であっても、その人の心髄に直結しているのです。

ここでは、心理的なプレッシャーから、幼稚園で話せなくなった息子の状況を描いています。

息子の言葉の問題を直そうと、父親は必死で駆け回りますが、状況はひどくなるばかり。

そんな中、独特の言語療法をほどこすオステルハウト先生に出会います。

そこで学んだのは、「自分を好きになること」。

言葉に問題があっても、能力的に劣っても、自分を好きでいる気持ちが子どもを幸せにするのです。

【小説の概要】 この世が生きるに値するとわかれば、子供自ら学ぶようになる

フェーレに移り住んだグンター・フォーゲルは、エクス=アン=プロヴァンスの高貴な女性、アンヌ=マリーと結ばれ、息子のヴァルターをもうけるが、幼稚園に行ってから、突然、誰とも喋らなくなり、問題児扱いされてしまう。

そんな折り、同僚から、ユニークな言語療法で定評のあるオステルハウト先生の教室を紹介される。

ヴァルターの言葉の問題を必死に直そうとするグンターに対し、オステルハウト先生は「大切なのは自分自身を好きになること」と優しく諭す。

このパートは『海洋小説『曙光』(第一章・運命と意思)』の抜粋です。 作品詳細はこちら

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九月からヴァルターは地元の公立小学校ではなく、町外れにある特別支援学級に通い始めた。

クラスメートは十名。訓練を積んだ教師がほとんどマンツーマンで読み書きを教えたり、グループワークを指導するが、なまじ理解力がある為にかえって劣等感を抱いてしまう。

グンターも夜には勉強を見てやるが、テキストを読むのも一苦労で、何度もつっかえてはポロポロ涙をこぼす。なるべくプレッシャーをかけないよう、出来ない時は黙って様子を見ているが、本当にこんな調子で基礎学力が身につくのか、不安はつきない。
そうして三ヶ月が過ぎた頃、同僚が新聞の切り抜きを見せてくれた。先月、ミデルブルフ市にオープンしたスピーチセラピーの紹介記事だ。

主催者のヘレナ・オステルハウト先生は、オランダ人の父親とドイツ人の母親をもつ言語療法士だ。三歳までアムステルダムに暮らしていたが、父親の仕事の都合で、中国、タイ、シンガポールなどアジア各国を転々とするうち、抑鬱、学力低下、吃音、記憶障害など様々な症状を呈するようになった。

十四歳の時、母親と一緒にデュッセルドルフに定住し、信頼のおけるセラピストに出会ってからは精神状態も落ち着き、公立高校に通えるまでに回復した。その後、自らも言語療法や発達心理学などの専門教育を受け、公立のケアセンターで研鑽を積み、十年前に独立して子供を対象としたスピーチセラピーを開設。独自のメソッドを打ち立て、効果を上げている。近年、ミデルブルフ出身の大学講師と結婚したのを機に二つ目の教室を開くことを決め、先月ようやくオープンに漕ぎ着けたそうだ。

新聞記事には《オステルハウト先生の教室は、一般的なスピーチセラピーに加え、グループワークやプレゼンテーションを取り入れたユニークなプログラムで定評があり、今後の活躍が期待される》と綴られている。

仕事帰りに立ち寄り、施設の一部を見学させてもらったが、この教室は他とは違うと直感した。「そんな所に連れて行ったら、かえってプレッシャーにならないかしら」とアンヌ=マリーは懸念したが、「最後に一度だけ。これで駄目なら、本当に諦めるよ」と心に決め、ヴァルターにも相談した。ヴァルターは渋ったが、「これが最後」と固く約束し、十二月半ば、オステルハウト先生の教室を訪れた。

オステルハウト先生は四十五歳の小柄な女性だった。

そばかすの目立つ小顔に丸い銀縁眼鏡をかけ、仕事も研究もばりばりこなすキャリアウーマンにはとても見えない。今も発語に少し難があるのか、一語一語、意識するような喋り方をするが、表情は優しく、博士というより幼稚園教諭のような雰囲気だ。
オステルハウト先生は面接室に父子を呼ぶと、ヴァルターにもいくつか質問をした。

好きな食べ物は、お気に入りのTV番組は、最近興味のあることは、等々。

ヴァルターはすっかり緊張して、何を聞かれてもキュッと口を閉じてしまうが、答えようと、答えまいと、オステルハウト先生は一向に気にしない。始終、変わらぬ口調で話しかけ、にこにことヴァルターの顔を見つめる。

質問が終わると、グンターは部屋の外に出され、ヴァルターとオステルハウト先生だけが面接室に残った。

グンターは廊下の待合ソファで半時間以上待たされた。予想以上に面接が長いのに不安を覚えたが、ヴァルターが初対面の先生と半時間も話し込むのも意外である。

やがて面接室のドアが開くと、ヴァルターが嬉しそうにグンターに駆け寄った。

「シュテファン・マイアー選手のサイン入り写真をもらったよ」

「えっ、あのブンデスリーガの?」

マイヤー選手はこれまで何度も得点王や最優秀選手に選ばれた世界的なストライカーだ。ヴァルターが嬉しそうに直筆サイン入りのフォトカードを見せると、「サッカー少年にはこれが一番」とオステルハウト先生がウィンクした。

「それじゃあ、ヴァルター、先生はこれからお父さまと話をするから、あなたはセラピストのゲルダ先生と教室を見学してくれる? みんなでジェスチャーゲームをするの。楽しいわよ」

ヴァルターが若い女性セラピストに手を引かれて、廊下の突き当たりの教室に行ってしまうと、グンターは何度も目を瞬いた。

「一体、どんな魔法を使ったんです? あの子はドクターやセラピストが大の苦手なのに……」

「ですから、シュテファン・マイアー選手のサインが効いたのですわ。もちろん、その子によりけりですけど」

先生は微苦笑を浮かべた。それからグンターを自身の執務室に案内し、改めてソファセットに向かい合った。

「率直に言いましょう。一番の問題は軽度のディスレクシアです。構音障害や緘黙症はそこまで深刻な問題ではありません」

「ディスレクシア?」

「つまり、読み書きが極端に苦手なのです。脳の中枢神経の問題と言われていますが、いまだに決定的な原因や治療法は分かっていません。それに加えて軽度の構音障害があり、他人と話すのに極度に緊張したり、何度もつっかえたりして、ついにはコミュニケーションそのものを止めてしまうのです。それが傍目には自閉的な子供に映るのですわ」

「やはり四カ国語の環境が負担なのでしょうか……」

「それはあくまで誘因の一つです。言葉の問題に『これ』という明確な理由はありません。先天的な器質障害や持って生まれた性質、家庭環境、学校でのイジメや教師の叱責など、いろんな原因が重なって、その子特有の症状に現れます。たとえば構音障害が原因で対人恐怖症に陥ったり、些細な言い間違いをクラスメートにからかわれるうちに本当に吃音になってしまったり。だからといって、言語能力やコミュニケーション力が著しく劣っているわけではありません。子供だって、頭の中では、相手の話している内容や自分の言いたいことをちゃんと理解しています。でも、恐れや緊張、劣等感などから、普通の子と同じように喋ったり、意思表示するのが難しくなるのです」

「それは一生直らないのですか?」

「訓練次第で社会生活に支障をきたさない程度の能力は身につきます。けれど読み書きやコミュニケーションに対する苦手意識は一生つきまとうかもしれません」

「一生……」

「そんなに気落ちなさらないで下さい。これは百万人に一人のレアケースではありません。程度の差こそあれ、同様の問題で苦しんでいる方はたくさんおられます。それでも社会的に成功している人も少なくないのですよ、シュテファン・マイアー選手のように」

「マイアー選手が?」

「悪い噂を耳にしたことはありませんか。インタビューしても無愛想で、お高くとまっていると」

「それなら一度、スポーツ誌のゴシップ記事で目にしたことがあります」

「マイアー選手も深刻な吃音を抱えておられます。だからマイクを向けられると反射的に身構え、無愛想な印象を与えてしまうのです。訓練を重ね、普段の会話ではほとんど支障が無いほど回復されていますが、それでも何万の観衆の前で話すのは大変な苦痛です」

「それは知りませんでした……」

オステルハウト先生はヴァルターに見せたマイアー選手のメッセージ・ビデオを再生した。

それはマイアー選手が同じ言葉の問題に悩む子供たちの為に制作したもので、子供時代にしどろもどろで喋る姿や、役者の発声練習みたいなトレーニングを繰り返す姿が収められている。最後にマイアー選手は子供たちに「一緒に頑張ろう」とメッセージを伝え、センターサークルから打ったロングシュートはキーパーの頭上を越えて、鮮やかにゴールに吸い込まれていった。

「あの子の場合、知能や器質に問題があって喋れないのではありません。どこかの過程で、他人と話す恐怖を体験したのです。『友達に鼻詰まりのような喋り方を真似される』『自分の喋っていることが周りに正しく理解されない』といった事です。集団生活において辛い経験を繰り返すうち、心の緊張が高まり、ついには特定の人、特定の場所で声を発することすら出来なくなるのです。でも、発音に関しては、今からスピーチ訓練を重ねれば、他人が聞いても気にならないぐらいに改善しますし、コミュニケーションに伴う苦痛が和らげば、友達や先生とも楽しくお話しできるようになります。学校生活を楽しむ余裕ができれば、読み書きにも弾みがつくでしょう。一番大切なのは周りがそれを理解し、子供が自分自身を好きになることです。上手に発音できなくても、読み書きが苦手でも、自信をもって意見を述べ、気持ちを表現することがこの教室の目標です」

(そうか)とグンターは納得した。 

今まで直すことに躍起になってきたが、一生喋りや読み書きに不自由しても、その為にこの子の価値が失われるわけではないのだ。それより他と違うことを恐れず、自分を好きになることの方が何倍も大切だ。

「言葉の問題というのは、四肢やその他の障害と同じくらいダメージが大きいものです。なまじ普通に生活できるが為に、『喋れない』『読み書きできない』というだけで、低能や怠け者のレッテルを貼られてしまいます。それで本人もますます心が萎縮して、本来もっている能力まで損なってしまうのですわ。あの子の場合、理想のモデルはあなたです。あなたのことが好きで好きで、あなたのようになりたいと願っているにもかかわらず、あなたのように流暢に話せず、期待に添うこともできないので、余計で自分を嫌い、自責の念にかられているのです」

「そんな……」

「四歳から五歳にかけて、あちこちの相談所や専門医を訪ね歩いた時期がありましたね。その時も、あの子は心の中で悲鳴を上げていたのです。でも、あなたのことが好きだから『イヤ』とは言えなかった。その代わり、ドクターやセラピストの前で固く口を閉ざして、精一杯の自己主張をしていたのです。それにお気付きになりませんでしたか」

グンターは打ちのめされ、返す言葉もない。

「誰にでも思い違いはありますわ。良かれと思ってしたことが裏目に出ることもあります。ここに来られる親御さんは皆そうです。何とかしたい一心でいろんな教材を与えたり、何人も家庭教師をつけたり。子供より親の方が必死になってしまうのです。でも親に悪気がないのは子供にも分かります。だから余計で辛いのです。幸い、あの子の場合、家庭環境は良好ですし、学びたい意欲も人一倍です。訓練を重ねれば、『L』が『W』に、『F』が『M』に聞こえるような構音障害はかなり克服できるでしょう。それに読み書きが苦手でも、今は性能の良いテキスト読み上げツールや音声入力ソフトウェアがあります。実際、そうしたツールを駆使して、ビジネスや芸能で活躍しておられる方も少なくありません。どうぞ希望を持って下さい。あの子なら、きっかけ一つでぐんぐん伸びるはずです」

グンターはただただ涙を流すばかりだ。

「ご自分を責めてはなりません。そんなことをすれば、あの子はますます『自分のせい』と思い込み、閉じこもってしまいます。スピーチ訓練は親の贖罪ではありません。まして子供の義務でもありません。豊かな人生を勝ち得る為の一つの手立てです。この世が生きるに値する場所だと分かれば、子供自ら取り組むようになるでしょう。シュテファン・マイアー選手のように。さあ、お顔を拭いて下さい。一緒に教室を見に行きましょう。多分、他の子供達とゲームに興じているはずですよ」

洗面所で顔を洗い、身繕いしてワーキングルームに行くと、ヴァルターは皆に交じってグリーンのカーペットに腰を下ろし、モンスターハンターに興じている。一人の子供が身振り手振りでモンスターを表現し、他の子が正体を当てるゲームだ。

「あれはジェスチャーゲームの一種です。それぞれに大食いモンスターや居眠りモンスターを演じて、皆に正体を伝えることができたら勝ちです。他にも、一人一人に応じた発音や音読の練習、体操やストレッチなど、いろんなカリキュラムがあるんですよ」

「ストレッチですか?」

「そうです。言葉に問題があると、過度の緊張から肩や背中の筋肉が凝り固まって、身体の発育に影響が出ることもあります。それに家にこもりがちで、お友達と夢中になって遊ぶこともありません。だからここでスキンシップをかねて筋肉をほぐし、身体を動かして、リフレッシュするんです。こんなことでも案外助けになるんですよ」

ゲームが終わると、ヴァルターも教室から出てきて、かなりリラックスしたような笑顔を見せた。

「どう? ここが気に入った?」

オステルハウト先生が尋ねると、ヴァルターは小さく頷いた。

「遊びのつもりでいらっしゃい。ここは言葉を直す学校ではなく、自分を好きになる場所よ」

【リファレンス】 スキャットマン・ジョンと英国王のスピーチ

緘黙症とは異なりますが、言葉の問題で真っ先に思い浮かぶのが、天才シンガーのスキャットマン・ジョンです。

心が壊れるほどの吃音に苦しみ続けたジョンは、自らの弱点をスキャットに活かし、スピード感あふれる独特の音楽を作り出しました。

私も初めて聞いた時は、器用なおじさんがペラペラ歌ってるだけかと思いましたが、エピソードを知って感動。

世界的なヒット曲、Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)も一度聞いたら忘れられないです。

現在は、YouTubeなどで、特訓の様子を積極的に公開されている方もあり、当人や社会の意識も大きく変わってきたように感じます。

↓ エラー画像が表示されますが、再生できます。

映画ではアカデミー受賞作『英国王のスピーチ』が非常に印象的でした。

吃音に悩む英国王ジョージ6世が言葉の問題を克服し、国民の心の支えとなる過程を描いた感動作です。

当時の英国でさえ、まともに治療できる専門家は少なく、煙草を吸ったり、ビー玉を口に含んで発声の練習をしたり、めちゃくちゃな指導をする人もあったようです。

どれほど人柄がよく、知能に優れても、喋りが下手だと、実際の能力や実年齢よりも低く見られるもの。言葉の違う外国で苦労する移民がそうですね。

それはそのまま差別や孤立に繋がる為、何の問題もない人が想像するより、事態はずっと深刻です。

『英国王のスピーチ』は本人および家族の心理的な葛藤も上手に描いており、主演のコリン・ファースやジェフリー・ラッシュ、ヘレン・ボナム・カーターが素晴らしいです。

一番印象に残っている場面は、シェイクスピアの『ハムレット』の名句「To be, or Not to be, That's is question」を朗読する際、普通に読み上げた時は吃音がひどかったのに、ヘッドホンで大音量で音楽を聴きながら朗読すれば、よどみなく読めた場面です。

つまり、自分の喋りを意識すると、余計でつっかえてしまうんですね。

「生まれながらに吃音の子などない」という所以です。

ジョージ6世の場合、厳格な父王と、王位に対するプレッシャーが引き金でした。

無理に左利きを矯正したり、足を真っ直ぐにする為にギプスを装着したり、ほとんど虐待みたいな扱いが大きな原因だったようです。

↓ 自分の喋りを意識しながら話すと、つっかえてしまう。

↓ 自分の声が聞こえないと、ちゃんと話すことが出来る。

英国王のスピーチ スタンダード・エディション [Blu-ray]
出演者  コリン・ファース (出演), ジェフリー・ラッシュ (出演), ヘレナ・ボナム=カーター (出演), ガイ・ピアース (出演), ティモシー・スポール (出演), トム・フーパー (監督)
監督  
定価  ¥3,200
中古 17点 & 新品  ¥1,179 から

ちなみに本作のヴァルター君は吃音ではなく緘黙症とディクレシアの類いです。非常にシャイで、文字を読むのが苦手なのです。
これも人によって、いろんな事例があります。

言葉に問題があっても、自分を好きになること

この記事を書いた人

石田 朋子のアバター 石田 朋子 サイト管理人

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。普段はぼーっとしたおかあさんです。昭和の名作漫画はほとんど空で台詞が言えるほどの元祖ヲタ。車と猫が大好きな東欧在住。サイトでは作品紹介ではなく、作品を題材とした文芸コラムを掲載しています。

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