意匠とデザイン– tag –
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エッセイ&コラム形状の不快さ ばかけんちくの末路と建築家の冒険
通称「五重塔ビル」=「ソフィテル東京」に対して、不安定なポーズで下町で一人SFしている姿に勝手ながらもさすがに「人の故郷でナニしてやがんだコノヤロー!」と思うと同時に悲しくなりましたと住民の声。斬新なものが受け入れられるには土地との親和性が欠かせません。 -
エッセイ&コラム身内主義が技術と知性を滅ぼす・どちらを向いて喋ってるの? #0100
専門家集団は、その分野で成り上がる為に多大な時間と経費をかけ、ようやくここまで成り上がってきた人たちの集まりですから、他より仲間意識が強く、お互いに褒め合い、庇い合いしないと、存続できない宿命を背負っています。 -
エッセイ&コラム『作品』と『商品』は違う ~商業化には社会的責任が伴う #0088
住宅の場合、施主一人がいっぱいお金だしてるわけですから、本当に施主が満足できるものを作らなければならないのでは、と思うのですが? どんな作品も『商品』として金銭的な取引が成立すれば、社会的責任が生じる。作り手にその意識が有るか無いかの違い。 -
エッセイ&コラム「使い勝手」も含めてのもの全体が「作品」のはず #0009
建築は単純な色と形の格好よさだけの「作品」「造形物」ではないはず。その中の「社会」とか「生活」をデザインするっていうのがホントでは? 階段にしろ、バスルームの間取りにしろ、人への想像力や社会的感性がなければ、真に有用な形は描き出せません。 -
エッセイ&コラム設計者の名前には責任が伴う 『Re:ダメなものはもちろんダメ』 #0007
「建築家」として「私が設計した」と個人で名乗るからには、その後の建物の行く末に大変な責任が伴うもの。事前に災害被害の警告もされず、老朽化に伴うリスクも説明なく「売ったもの勝ち、作ったもの勝ち」は問題では? -
文学・思想・神話都市こそ人間の精神の基盤 安藤忠雄の『連戦連敗』より
日本の都市開発の出発点は、拠って立つ理念もなく、目標も曖昧なまま、ただ輸入した形式をそのままなぞることから始めてしまったのです。そこに軋みやズレが生じるのは当然です。役所は今もって、この都市計画法の下でしか都市を考えることができない。一方で、市民側にも都市に対する公的な精神が欠落してしまいますから、個人のエゴがむき出しになり、日本の都市はいまだ誇れる顔をもてないままです。 -
エッセイ&コラム専門家の説明責任とは ~身内主義と責任逃れ #0118
専門家は一般人が知り得ない高度な知識や技術を有すると共に、知らない人も納得いくように説明する責任を負っている。一般人が安心して暮らせるのも専門家が社会的責任を果たせばこそ。身内主義は責任を回避し、問題を深刻化する。 -
エッセイ&コラム「意味・思想」はおかしな作品の存在を正当化する免罪符にはならない #0114
「意味・思想」はヘンな建物の存在を正当化する「免罪符」にはならない。裸の王様がフルチンで歩けば、最新のモードだろうが、透明な織物であろうが、一般人の目にはフルチンにしか見えない。 -
エッセイ&コラムデザインが優れても、市民には使い勝手が悪い建物もある #0109
デザインとしてどれほど美しく優れても、実際に使う一般市民が不便に感じるようなら意義も半減する。建築家と市民の価値観の違いで済まされないこともある。問題はデザイン云々ではなく、実際にそれを利用する人の市民の声が反映されないこと。 -
エッセイ&コラムデザインの主張が公の利益を損なうこともある #0108
最新のデザインも買い物客の心理を無視すれば集客に失敗し、多大な負債を抱えることもある。なぜデザインする者には幅広い学びと高い見識が必要なのか。一般人の『居心地の悪さ』は自治体や施設の衰退に繋がる。 -
エッセイ&コラム建物が人を呼び、人が町並みを変える #0099
「建物がひとつ建つ」というのは大変なこと。建物は人を呼び、その人を対象とした新たなサービスや施設が生まれ、コミュニティの様相さえ変えてしまう。作り手の意識はもちろんのこと、それを支持する大衆の側にも問題はある。 -
エッセイ&コラム他人の感想をコントロールすることはできない 自由とファシズム #0097
「ヘンなガンダム」に見えるものを「そういうふうに見るな!」といわれても、それはムリ。「予想外のリアクション」が心外なのだとしたら、受け手を信用し過ぎなのでは。誰もがみんな、作家にとっての「好意的な解釈」をしてくれるはずがありません。
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